ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

社国民學校の封筒

2015年07月31日 04時40分17秒 | Weblog
       

 写真は、社国民学校の封筒です。タテ20.5㎝、ヨコ8.3㎝の大きさ。下部に、「兵庫縣加東郡 社国民學校 電話社四番」と印刷してあります。

 この封筒は昭和18年(1943)当時の社地区の文書綴に挟んであったものです。今年は終戦70年の節目の年ですが、この封筒はその前の戦時中に使用されていたものということになります。

 昭和16年(1941)に社小学校は社国民学校と改称されました。初等科が6年、高等科が3年となっていました。当時の校訓は「信(正しく)・勤(剛く)・和(仲よく)」だったそうです。国民学校は昭和21年度まで続き、22年度から新しい6・3制に変わりました。初等科の6年が小学校に、そして、高等科の3年が中学校に改められたのでした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑のカーテン セミの抜け殻

2015年07月30日 05時32分22秒 | Weblog
 

 毎日猛暑が続いています。我が家のゴーヤの緑のカーテンも程良く生長し、ゴーヤもなっています。クマゼミも羽化ラッシュで、今年も朝早くからシャブシャブと耳が痛くなるほどにぎやかに鳴いています。
 玄関側の庭では生垣の辺りの土中からはい出てきた幼虫が木に登り羽化していきます。枝はいくらでもあるのになぜか同じ枝のしかも先に羽化した抜け殻にかきついてまた羽化していきます。家の壁、塀、コンクリートブロック、何でもかきついて羽化していく逞しさには驚きます。
 真夏は天気も生き物も皆生命力が満ち溢れている季節です。近所の方が畑でとれた野菜を分けて下さいます。庭でとれたゴーヤと一緒に油でいためていただき元気がでます。
 子供の頃、網をもってセミを捕りに走り回り、学校のプラタナスや柳の木などその光景を思い出します。クマゼミは貴重でした。しかし、今ではクマゼミばかり。子供が小さい頃は一緒に羽化を観察し、その神秘な光景に感動していました。しかし、今の子供はあまり興味がなさそうです。
 セミの声を聞きながら、毎年の夏の思い出の風景や懐かしい人々の顔が脳裏に浮かんできます。水浴び、スイカ、ビー玉、ぺったん、地蜘蛛の相撲、くぎさし、次々と子供の頃の真夏の場面が巡ってきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忠魂碑前で終戦70年の慰霊祭

2015年07月29日 05時05分36秒 | Weblog
             

             

 28日(火)、曇り空の下、加東市社の明治館の広場にある忠魂碑の前で加東市遺族会社支部の皆さんによる慰霊祭が行われました。
 この慰霊祭は今年が終戦70年の節目にあたるため、遺族会として戦没者の慰霊、感謝と平和への祈りをこめて行ったものです。
 この忠魂碑は大正15年3月に建立されたもので、両脇の英霊尊名碑は昭和28年に建立されています。戦前は忠魂碑の前で、在郷軍人会による春季、秋季の慰霊祭が行われていました。
 近年は遺族会会員の高齢化、減少などで忠魂碑の維持・管理も難しい状況になっていました。昨年、遺族会社支部の主だった方が集まり、終戦70年に向けて、慰霊祭の執行や英霊芳名録の編纂などが話し合われましたが、今日、慰霊祭が実現したわけです。芳名録の編纂も最終段階にあると聞いています。
 社の持寶院の田村住職による読経が行われ、参列者が焼香を行いました。遺族の皆さんも高齢化が進み、英霊尊名碑に刻まれた名前を探すのにも苦労されているようでした。私の母方の2人の叔父の名前も刻まれています。田村住職によると、終戦50年の頃は法事が多かったそうです。
 これからは、若い世代の人にも呼びかけて、忠魂碑の維持・管理をはじめ、郷土の歴史や平和を考える場、機会を設けていきたいと思いました。
 写真は慰霊祭のあとの記念写真です(中、下段)。何人かは先にお帰りになってしまって全員ではありません。上段の写真は62年前の昭和28年の忠魂碑整備記念の写真です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊岡高校「達徳会館」-県指定重要有形文化財

2015年07月28日 05時11分38秒 | Weblog
           

           

           

           

 23日(木)、県議会の文教常任委員会で県立豊岡高校を視察しました。グランドを見下ろす掲揚台には国旗、県旗、校旗が掲揚されていました。校長先生に「今日は視察に合わせて掲揚してあるのですか?」と尋ねると、「いえ、毎日掲揚しています」との答えがあり、続けて「いつからか分かりませんがずっと続いています」ということでした。大いに感銘を受けました。私も高校の生徒会長だったとき、社高校の屋上に国旗を掲揚していたことを思い出しました。

 ところで、豊岡高校の正門前に「達徳会館」があります。県指定重要有形文化財(建造物:平成20年)に指定されており、明治29年に旧制豊岡中学校の本館として建立されたものです。現在、修復工事が行われており、外装は見えるようになりましたが、内部はまだ工事中でした。県教委文化財課長の村上裕道さんの説明を聞き入りながら、どこかで見た憶えのある建物だと思っていると、そう、南あわじ市のイングランドの丘で見た旧郡役所と同じ造りだと思い出しました。村上さんによれば、当時流行った役所の建物だということでした。現存する校舎としては県下最古のものになる貴重な建造物です。

 豊岡高校の同窓会「達徳会」の会長は元県議の小林喜文先生でした。小林先生は達徳会は毎年総会を行っており、600人余りの会員が集まると自慢をされていました。その愛校心、結束力には驚きます。
 達徳会館の脇の築山には、初代校長の校訓「和魂」(和魂の風格・花橘の気品)の文字が刻まれた石碑が建てられており、築山の中には、昭和8年(1937)の皇太子(今上天皇)御降誕を記念する石碑も建てられており、歴史と伝統を感じさせられました。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊岡市気比の観正寺庭園-築山式枯山水

2015年07月27日 05時06分03秒 | Weblog
          ▲観正寺庭園正面より
 

 24日(金)、豊岡市気比の観正寺庭園を見学しました。

 県議会の文教常任委員会の調査で訪れたものですが、県指定名勝に登録されています。庭園として作庭者、年代がはっきりしている例は全国的にも珍しいということで、観正寺役員の田中さんから過去帳も見せてもらいました。近江国の人で岩崎清光という庭師がこの地にやってきて作ったとされています。伝承では、近くにある気比神社に近江八景の庭を作ったらしく、そのついでに観正寺で枯山水の庭を作ったと伝えられているようです。

 県教委の山下文化財課副課長、豊岡市教委の松井文化財室主管のお2人から詳しい説明をしていただきました。石は三角、四角、柱状節理などさまざまな形、大きさの石が築山に配置されており、礼拝石と呼ばれている築山の正面に置かれた石の上に立って眺めるのが一番良いと教えていただきました。寺の縁から眺めるよりも石が迫り迫力を感じました。石の間に低木や大木などが生えていますが、これらを無視して石のみを見ながら流れ落ちる滝を観じるのだそうです。

 この日、豊岡市はおそらく摂氏33、4度ぐらいまで気温が上がったのではないかと思いますが、奧の山から吹き下ろしてくる涼風を全身に受けながら心静かに枯山水を鑑賞できました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御大神宮さん-中田町町内で受け継ぐ神様

2015年07月26日 05時13分44秒 | Weblog
            

          

 25日(土)の午後7時前、佐保神社境内は涼風が吹き、大けやきからヒグラシの声が聞こえてきます。そして、西の地平線に雄大な夕空が広がっていました。

 境内西側に並ぶ小宮さんの列の真ん中辺り、御大神宮さんを祀る祠があります。この祠は、元は加東市社の田町通りに鎮座していましたが、昭和初期に田町通り(県道)をバスが通ることになり、佐保神社境内に遷されたものです。それ以来、田町の人がお祀りを欠かさず行って今日に至っています。祭祀の道具を入れた箱の蓋や幟には、中田町、東田町の町名が書かれていますが、今では中田町の町内がお祀りをしています。
 毎年7月25日に祭りを行うことになっています。かつては30軒を数え、繁栄していた中田町町内会も今では半数になってしまいました。それでも町内会の面々が集まり、地元の神様をお祀りし、町内繁栄、家内安全を祈る大切な場になっています。

 田町通りに御大神宮さんが祀られた経緯は、これまでにも何度もこのブログで紹介してきましたが、江戸時代に天から御大神宮の御札が降ってきたことをありがたみ、人々が祠を建ててお祀りしたことに由来しています。

 今年はこのブログでも紹介しましたが、日本画家で美人画で知られる三木翠山のことが話題にのぼりました。姫路市立美術館で三木翠山の展覧会が開かれていますが、三木翠山は中田町に生まれています。「服部壽七」さんの四男に生まれ、幼少より絵が得意で、加東郡上福田村の木梨の三木南石に絵を習い、やがて京都に出て竹内栖鳳の弟子となり美人画で独自の地位を築きました。三木家の養子となり三木を名乗りましたが、生まれは社の田町、服部家であり、この御大神宮さんの祠があった辺りに生家があったのです。御大神宮さんの玉垣の一本には「服部壽七」の名前がはっきり刻まれています。

 夕日が沈み、やがて、西の空には高い空の雲が朱く輝きました。今年も無事に御大神宮さんの祭りが終わりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

県立豊岡高等女学校跡地石碑

2015年07月25日 05時28分00秒 | Weblog
 22日(水)から24日(金)の3日間、視察で但馬丹波地区を訪れ、県立高校や教育事務所などを訪問し調査を行いました。

 豊岡市内に宿泊した24日の早朝、近くの神社や公園を散歩していると、幼稚園の敷地の中に一本の石柱が立っているのに気づきました。近づいて字を読んでみると、兵庫県立高等女学校正門跡と刻まれていました。23日に県立豊岡高等学校を訪問し、その沿革も聞いていましたが、その中に豊岡高女のこともあったことを思い出し、思わぬ出逢いに縁を感じました。住宅街の中の幼稚園の敷地、フェンスの中にさりげなく建立されている一本の石柱が豊岡の女子教育の歴史を物語っていました。豊岡高女は明治42年に城崎郡立高等女学校として設立され、のちに県立に移管され豊岡高等女学校に、そして戦後、県立豊岡西高等学校に改称、その後豊岡東高校と統合され、現在の豊岡高校になっています。

 ちなみに県立社高等学校の前身、県立社高等女学校は現在の社裁判所の地にありました。改築前には敷地内に県立社高等女学校跡地の石碑が建てられていたのですが、現在は見当たりません。ぜひ、石碑を敷地のどこかに設置させていただきたいと思っています。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏休み始まる-田町の路地でラジオ体操

2015年07月22日 05時07分59秒 | Weblog
              

              

 21日(火)、今日から加東市内の小中学校は夏休みが始まりました。ちょうど梅雨も明けて、本格的な夏到来です。

 夏休みといえばラジオ体操。加東市社3区のうち、田町通り辺りの子供は3区集会所の前の路地でラジオ体操を行っています。今日が今夏休み第一日目。何人ほど集まるのか楽しみにしながら行ってみると、いつもの登校班の子供数人とその弟、お母さん2人、そして見守りの近所のおじさんと私でした。
 高学年の男女各2人の4人が前に立って体操を行いました。第一体操はほぼできていましたが、第二となると、子供達は私を見てぎこちなく手足を動かしていました。
 私は去年のラジオ体操からほぼ1年間、毎日とはいきませんでしたが、ラジオ体操を続けてきたので体はよく動きました。子供達は体操が終わってカードに出席印を押してもらって帰ります。これも昔と変わらない光景です。

 かつて子供が多かった頃には、そのまま集会所で「朝の勉強タイム」も行われていました。熱心なお母さん達が中心になって運営され、宿題をしたり、時には朝食会や本の読み聞かせなども行われました。
 もっと以前は、体操が終わると小学校の運動場でソフトボールの練習をやっていました。子供会対抗のソフトボール大会が行われていた頃です。今となっては懐かしい思い出となりました。

 帰りに近所の家の見事な緑のカーテンを見つけました。この歴史ブログで昭和10年代のラジオ体操のチラシを紹介したことがありますが、それから70年以上経った今年の夏も元気にラジオ体操が行われています。終戦70年の夏の一こまでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川流域最古の道標-上滝野

2015年07月21日 05時31分51秒 | Weblog
 加東市上滝野に滝野最古の道標が立っています。解説によると、建立は天和2年(1682)で、330年余り前の古いもので加古川流域最古の道標とされています。上滝野の庚申講の人々によって建立されたものです。
 道標には「右たんは」「左のま谷」と刻まれており、「のま谷」は西脇市の野間谷のことで、滝野の地が昔から丹波と播磨各地への交通の結節点であったことを示しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川流域滝野歴史民俗資料館9月末まで無料開放

2015年07月20日 05時02分24秒 | Weblog
 加東市下滝野の加古川流域滝野歴史民俗資料館が7月18日(土)から9月30日(水)までの約2ヶ月半、無料開放となっています。

 同資料館には、加古川舟運に関する展示を中心として、滝野、加東の歴史や昔の生活品の展示などが行われており、夏休みの子供、家族連れでの見学にピッタリです。
 隣接する滝野図書館の郷土資料コーナーでさらに深く広く調べることも可能ですし、公民館で静かに学習することもできます。また、隣接の県立播磨中央公園で遊ぶこともできます。仕上げに公園に隣接の滝野温泉ぽかぽで汗を流し、疲れをとってリフレッシュすることもできます。
 あるいは、播磨高野と称される五峰山へも車で数分。塔頭寺院、本堂を参拝し、さらに光明寺合戦の本陣跡など中世の歴史散策もできます。山腹の駐車場からの眺望は抜群で、遠く六甲連山、播磨平野と加古川の流れが臨めます。
 雄大な自然に心と体を開放し、歴史と文化を満喫できます。夏休み、梅雨も明けます。どうぞ、一度足を運んでみてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加東の夏-平池まつり

2015年07月19日 05時08分21秒 | Weblog
            

            

 18日(土)、加東市の夏まつりシーズンの到来を告げる「平池まつり」が平池公園を会場として行われました。台風11号の大雨で開催が心配されましたが、地元の皆さんを中心とした実行委員会によって準備が行われ、夕方には盛大に始めることができました。 第33回目を数えるこの夏まつりは社町時代から地元福田地区の皆さんが進めてきたものです。毎年、梅雨の終わり頃に開催されるため、雷雨などにたたられることもありますが、地元の保育園・幼稚園児や女性コーラスなどの出演、多くの露店、総踊りや夜空を照らす花火などで賑わいます。
 今年も11ヶ月ぶりに加東よしよし音頭や炭坑節をはじめ、やぐらの太鼓に合わせていろいろな曲を踊りましたが、踊れるものですね。まさに夏まつりシーズンがスタートしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闘龍灘-大雨で増水

2015年07月18日 05時06分16秒 | Weblog
            

            

            

 台風11号は四国から中国地方を縦断し日本海に抜けました。この台風による雨は、7日未明から8日朝までの長い時間にわたって強く降り続き、加古川をはじめ、加東市内の東条川や三草川、千鳥川などでも増水し、加古川流域の油谷川との合流点では道路や水田が冠水しました。
 加東市上滝野の闘龍灘を望む闘龍スクエアから増水の状況を見ました。正午頃にはすでに闘龍灘の奇岩は濁流がぶつかり合って流れる中でまったく見えなくなっていました。大雨の度にこうした光景が繰り返し見られるわけですが、その激しさは見る者に恐怖心を起こさせます。午後5時頃、再びようすを見に行くと、さらに水位は上昇し、公園のすぐ下まで上がってきていました。
 写真は今年の5月1日の加古川の川開き神事が行われた日の闘龍灘の絶景と、今日の増水時の荒れ狂う闘龍灘の光景です。
 加東市の加古川流域は無堤地区が残っています。上流の西脇市部分が災害のために河川改修が行われ、直ぐ下流の加東市多井田、上滝野、下滝野、河高、大門の無堤地域は大水の度に氾濫の危険にさらされています。加古川の河川計画ができ、改修工事が一部始まっていますが、工事を一層促進させる必要があります。日本の河川は台風や大雨よってかくも大きくその姿を変えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和13年-動員下令で応召の兵士の奉告祭

2015年07月17日 04時22分44秒 | Weblog
 昭和13年(1938)の6月、郷土社町(現在の加東市立社小学校区)から30余名の兵士が召集され、佐保神社で奉告祭が執り行われることになり、その通知が出されています。「勇士ノ壮途ヲ盛ナラシメルタメ」という文言に召集され出発する郷土兵を見送る者の武運を祈る思いが感じられます。


 昭和十三年六月十八日
             社 町 長

区  長殿
町会議員殿
各官公衙学校長殿
各団体長殿

   応召兵奉告祭挙行ノ件

今次ノ動員下令ニ依リ本町ヨリ出発セラルル勇士諸君ノ応召奉告祭ヲ左記ノ通リ執行致スベク候条勇士ノ壮途ヲ盛ナラシメルタメ御部内多数御参列相成様配慮相煩度此段及通牒旁々御依頼候也

   記

六月十九日午前六時(佐保神社前以下同ジ) 自動車ニテ出発ノ予定

  菅井良吉(社)  近藤繁太郎(社)  井上卯一(山国)

六月二十二日午前六時  播鉄集合ニテ出発ノ予定(社七時十分発)

  亀田快隆(社)

六月二十三日午前六時  

  田村 貢(家原)  利山市雄(家原)

六月二十四日午前六時  自動車ニテ出発ノ予定

  藤本一雄(貝原)  森本重太(上中)  山本安次(家原)  長谷川正雄(野村)
 「藤本友市(貝原)  井上周一(山国)  西田高治(窪田)」=汽車、播鉄集合(社七時十分又ハ七時三十分)

六月二十五日午前六時  自動車ニテ出発ノ予定

  大橋一郎(出水)  西山 元(窪田)  井上友市(山国)  井上秀夫(出水)  北谷 潔(山国)  松井豊次(家原)  出井勝三郎(山国) 前田慎吉(社)
  宮野三男(山国)  黒石義男(田中)  岸本逸司(喜田)  三村清治(野村)
  吉田徳一(社)   宮野忠治(山国)  増田 潔(社)  西田末次郎(窪田)
  時本清太郎(社)  藤本堅治(野村)  加古 潔(西タルミ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏来る!続々とクマゼミが羽化

2015年07月16日 04時42分39秒 | Weblog
             

             

             

 ここ3日ほど真夏のような強い日差しが続いています。セミの鳴き声も聞こえるようになりました。毎年玄関まわりの生垣の地面からクマゼミがはい出て植木や塀をよじ登り羽化していきます。
 11日の夕方、庭のチリトリの中でもぞもぞ動いている幼虫を見つけました。そっと生垣の幹に置いてやると、元気に登っていきました。翌朝、羽化した姿をさがしましたが見つかりませんでした。
 その後、堰を切ったようにクマゼミの幼虫が羽化のために地上に出てくるようになりました。誰に教えてもらった訳でもないのに時を間違えずに出てきます。子供の頃から見続けてきた自然の不思議です。
 写真は、頑張って石の塀をよじ登り、羽化したあとの抜け殻2つ。そして、前日に羽化したセミの抜け殻の背中におんぶしたように重なって羽化した抜け殻とその近くに羽化したばかりのクマゼミです。子供が小さい頃にははい出てきた時から、羽化する始終を観察したものです。背中が割れて、中から白く透明な体が出てくる瞬間は感動でした。
 抜け殻を見ながら、よく頑張ったなと心の中で声を掛けてしまいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保神社境内風景がすっきり-大阪や京都から寄贈の玉垣

2015年07月15日 04時52分34秒 | Weblog
             

 佐保神社(加東市社)の本殿の北側から若宮町へ抜ける境内の通路のヒラドツツジがきれいに剪定され、境内の風景がすっきりしました。同時に通路の玉垣がよく見えるようになり、ここに刻まれている寄贈者の名や地名が読めるようになりました。
 以前にもこのブログで紹介しましたが、大阪や京都など遠隔の地名も少なくなく、商売を通じて広い地域から信仰の篤かった佐保神社、社の町の歴史の一端が伺えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする