ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和11年-千鳥川の愛護作業

2009年03月31日 05時49分27秒 | Weblog
 昭和11年(1936)の年末、社町役場から社区長宛に千鳥川(加古川の支流、加東市市内を流れる)の河川愛護作業についての依頼状が出されています。
 年末に河川の清掃を行っていたのでしょうが、千鳥川の姿も70余年前と比べるとずいぶん変わったはずです。お盆の精霊流し、夏の水泳といった風景は見られなくなりました。堤防が築かれ、堰が整備され、河川敷は整備されて芝生が張られたりしています。
 依頼状を掲載します。指導のために土木出張所から係員が出張していたんですね。

 
 昭和十一年十二月十八日
           社町役場

社区長殿

  河川愛護作業ノ件

兵庫県河川愛護奨励規定ニ依リ参加相願居候千鳥川(社町社地内)河川愛護作業ヲ本月末日迠ニ実施相成度此段御依頼申上候
 追テ実施日決定致シ候ヘバ一両日前ニ其ノ日時御通報相成度当日ハ社土木出張所係員指導ノ為メ出張致スヘク候

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昭和12年度海軍志願兵の栞(海軍省)から④

2009年03月30日 05時40分52秒 | Weblog
 昭和12年度の海軍志願兵の栞の内容を紹介してきましたが、今日は志願者心得の項を掲載します。
 海軍兵は入団すると、最初は四等兵から始まります。約5ヶ月間海兵団で教育を受けて三等兵になり軍艦に乗ることになり順次進級していくことになっています。海軍志願兵の現役期間は5年で、志願すれば更に2年延長できます。また、下士官に進めば6年の現役で同じように延長できます。また、階級が進めば、最高52歳まで現役を勤めることができるようになっていました。
 さて、栞に掲げられている「志願者の心得」は次の通りです。

(六)志願者心得
一、決心
 父兄や先輩によく相談して自分の年齢、学力、身体から考へて如何なる兵種に適するかを決め、若し希望の兵種が二つ以上あるならば第一志望何々、第二志望何々とすること。

二、出願
 市(区)町村役場に出頭して兵事係(課)に海軍兵志願の旨を申告してきめられた期日迄に願書を差出すこと。

三、準備
(イ)学科は高等小学校卒業程度の数学と読書を反復勉強して置くこと。
(ロ)身体の鍛錬に心懸け又悪い所はないかよく前掲の規格表に照らして見て置くこと。
(ハ)品行を慎み精神の修養に努め、あらゆる誘惑に打ち克つこと。
(ニ)検査前日には必ず入浴して身体を清め且耳や鼻の内部をよく掃除して置くこと。

四、検査当日の携帯品
(イ)青年学校手帳(青年訓練手帳)
(ロ)尋常小学四年以上の通信簿全部(通信簿なきときは学業証明書)及各種褒賞等
(ハ)鉛筆、ナイフ、消ゴム
(ニ)弁当及脱いだ衣服所持品等を包む風呂敷

五、検査開始時刻に必ず遅れぬこと。
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昭和12年度海軍志願兵の栞(海軍省)から③

2009年03月29日 07時05分56秒 | Weblog
 出張のため、更新できていませんでしたが、数日ぶりに投稿します。昭和12年度の海軍志願兵の栞を紹介しているところですが、これまで「海軍志願兵の使命」、「各兵種の職務概要」の項目を紹介しました。今日は、「志願手続、検査」についての項を紹介します。
 実は出張先で海上保安庁の保安本部、巡視船での調査がありました。日本の海の守りを担っている現場でその使命感の高さ、きびしい任務の状況を肌身で感じてきたところです。


(四)志願手続及徴募検査
 志願兵の募集、志願書の提出期日、徴募検査の日割等は毎年各府県毎に一般に告示される。
 志願者は右募集があつたら、親権者の同意を得た上で、志願書を作り期日に遅れぬ様に市区町村長を経て地方長官に出願すればよい。志願者の様式、検査期日場所等詳細は市区役所又は町村役場に就いて問合はせばよい。

(イ)身体検査
※身体検査は兵種や年齢によって少し違っています。一覧表が掲載されていますが、そのまま掲載できないので、項目等のみ紹介します。
 兵種、年齢毎に次の項目が挙げられています。
 身長、体重、胸囲、胸郭拡張、活量、視力
(注意)
(一)近眼や強度の「トラホーム」腋臭等は合格覚束ないが「トラホーム」は軽いものは早目に治療すれば全治する筈である。
(二)識色の判別がつかないもの(色盲)は海軍兵には不適当であるから思ひ止まる外はない。
(三)胸囲拡張は深呼吸で胸の拡張する程度を検査するので、拡張時と縮小時との胸囲の差が多い程良い。
(四)活量は肺に一杯空気を吸ひ込んで之を吐き出す量を測るのであつて、其の量が多い程良い。
(五)身体懸垂は上から吊した綱を片手で握り、身体をぶらさげ、五秒間堪へられなければならぬ。

(ロ)学術試験等
 学術試験は読書、数学の二科目に就き高等小学校卒業程度に依り行はれる。尚掌電信兵志願の水兵、予科及偵察練習生志願の航空兵及軍楽兵志願者に対しては適正検査も行はれる。試験成績の外に学校の成績が加味せられるから、通信簿(学業証明書)青年学校手帳及各種の褒賞状を有する者は、必ず検査場に携帯して、徴募官の閲覧を受けねばならない。

(ハ)航空兵(予科練習生)志願者の第二次検査
 本検査は従来入隊の際行はれてゐたものであるが、昨年度より四月中、下旬に繰上げて行ふことになつた。
 即ち志願兵検査に航空兵(予科練習生)を志願し合格した者の中より選抜して約六日間横須賀海軍航空隊に集めて更に学術試験〔読書、数学、雑問(地理、歴史、理科)〕適正検査を行はれる。
 右受検者に対しては海軍人事部より市(区)町村を経て本人に出頭通知と受検心得を送付せられる、この検査の結果成績優秀なる者より約半数の採用者を銓衡せられるのであるが、検査が終了したならば採用、不採用に拘わらず一日郷里へ帰るのである。検査期間中は航空隊内に宿泊して兵食を給与せられ又出頭に要する往復旅費は官費で航空隊へ到着の上同隊で給与される。
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昭和12年度海軍志願兵の栞(海軍省)から②

2009年03月24日 05時05分37秒 | Weblog
 昨日に続いて、昭和12年度(1937)「海軍志願兵の栞」を紹介します。
志願は、海軍の各兵種から自分の志願するものを選ぶことになっています。自分の体力等を考えて、第一、二志望まで申し出ることができます。しかし、いったん入団したあとは兵種の変更はできないことになっていました。どんな兵種があったのかを栞の説明文から見てみましょう。


▲水兵(掌電信兵志願者を除く)
主なる役目=大砲、水雷又は測的に関係あること、艦艇の運用、信号等
この兵種は海軍兵の中で最も人数が多く、其の職務は主として直接戦闘に携はるものである。
近来、大砲、水雷其の他の兵器が愈々精巧なものとなつた為に、之を取扱ふ水兵は益々優秀なる頭脳、体格のものでなくてはならない。大砲や水雷発射管の射手等の華々しい役目や測的員操舵員信号員の様な責任の重い役目は、皆この兵種が当るのであつて、精密な機械は機関兵や掌電信兵等のみの受持であると思ふ人があつたら、それは大なる間違である。

▲水兵(掌電信兵)
主なる役目=無線電信無線電話の取扱。最初志願する時から掌電信兵として志願するのである。

▲航空兵(予科及偵察練習生志願者を除く)
主なる役目=航空機々体又は発動機の整備取扱。
航空機の整備は襲来水兵若は機関兵の一部の者が従事してゐたが将来はこの兵種によつて専門に取扱はれることになつた。

▲航空兵(予科練習生志願者)
主なる役目=航空機の操縦及機上諸作業
従来「少年航空兵」と呼ばれてゐた。採用されるとすぐ横須賀海軍航空隊に入隊して特別の教育を受けるのである。

▲航空兵(偵察練習生志願者)
主なる役目=航空機に搭乗し偵察、爆撃通信等の機上諸作業
最初は掌電信兵と同様の教育を受けるが、後偵察練習生に採用される。

▲機関兵
主なる役目=汽缶、機械、電気機械取扱、機関工業、木具工業、潜水作業等。
此の兵種は水兵と共に海軍に於ける主なる兵種であつて、機械の運転を始め缶を焚く事、電気類の取扱、鍛冶、旋盤、発電機船体船具の修理木具製作、潜水作業等に至る迄夫々専門的の諸作業に従事するのである。

▲軍楽兵
主なる役目=儀式礼式の為、又は士気を鼓舞する為、その他国際的交歓等の際に楽を奏す。
所謂海軍の軍楽隊となるのである。

▲看護兵
主なる役目=傷病者の看護、調剤、治療の助手

▲主計兵
主なる役目=被服、糧食、需品其の他一般経理事務、和洋食調理。
主計兵には厨業の方と、経理の方とあつて、厨業の方は主として右に挙げた様な職務に携はる。然し初めの間は誰でも一様に炊事に従事するのである。
経理の方は、別に庶務会計のみを掌するのであるが、これは経理学校を卒業して来てからのことである。
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昭和12年度海軍志願兵の栞(海軍省)から

2009年03月23日 05時54分45秒 | Weblog
 このブログで昭和12年度の海軍志願兵徴募に関する町から区長への通知文を紹介しましたが、その通知とともに海軍省が作成した「海軍志願兵の栞」が社区事務所の「諸通達綴」に綴じられています。
 栞の内容は次の項目で構成されています。
(一)海軍志願兵の使命
(二)志願兵の採用員数
(三)各兵種の職務概要と志願兵種の選択
(四)志願手続及徴募検査
(五)官等進級其の他参考事項
(六)志願者心得
附録 試験問題の一例

今日は冒頭に掲げられている「海軍志願兵の使命」を紹介します。

(一)海軍志願兵の使命
 我が海軍はなぜ志願兵の採用に重きを置かねばならぬか、それには色々の理由もあるが、分り易く簡単に謂へば次の通りである。
一、日本独創の優れたる艦船兵器機関等の活用は優れたる日本青年の手に依らねばならぬ。
二、最新知識を集めたる海軍を了解するには長期の服役を要す。
三、優秀有為の軍人の養成。
四、特務士官、准士官としての活躍期待。
戦艦陸奥、長門も巡洋艦高雄、那智も乃至駆逐艦、潜水艦、航空機もその威力の発揮には志願兵の力に俟つことが多い。
 海軍の活動の舞台は太平洋!!其処に内容を充実したる我が海軍の存在は平戦両時に於ける帝国の繁栄と防護に欠くべからざるものである。されば思想堅実にして学力体力共に優秀なる全国の青少年が眼を帝国の前途に注ぎ奮つて身を海軍に投じずることは、将来益々その必要を感ぜられ大なる期待をかけられているのである。
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昭和11年-出火の礼廻り等の廃止

2009年03月22日 08時19分46秒 | Weblog
 昭和11年(1936)、社町では消防組から各区長宛に出火の際のお礼廻り等の慣習を廃止するという通知が出されています。火事を出すと、酒や弁当を出し、翌日には町内にお礼廻りをするというそれまでの慣習を止めるというものです。通知文を紹介します。


昭和拾壱年拾月廿日
      社町消防組頭  大橋實次

従来慣習ノ如ク相成居候本町出火の場合ニ於ケル酒弁当ノ饗宴、翌日町内ヘノ礼廻りハ之レヲ廃止スル事ニ今回幹部会ニ於テ決定候条左記御了承ノ上御部内ヘ周知方然ルヘク御取計ひ相成度此ノ段通知旁々御依頼申上候

       記

一、本町内出荷ノ場合其ノ翌日各部ヘノ礼廻りハ之ヲ廃止ス
一、本町内ニ於テ出火ノ場合ニ於テ酒、弁当、饗宴ハ之レヲ廃止ス
 但シ、其ノ部内ノ者ヲシテ居残手伝者ニ対シテハ此ノ限リニアラズ
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昭和11年-衆議院議員選挙事務長就任の為町長辞職

2009年03月21日 06時04分11秒 | Weblog
 昭和11年(1936)、衆議院議員選挙の候補者の選挙事務長に就任するために町長が辞職したという内容の通知文が社区の「諸通達綴」に綴じられています。衆議院議員選挙は2月20日に実施されています。3月3日付で区長宛に出された社町長名の通知文には辞職した町長の名前がありますから、その間だけ町長職を離れたということなのでしょうか。
 辞職の通知を紹介します。


拝啓
寒気ノ折柄益々御健勝奉賀候
却節私事今回ノ衆議院議員選挙ニ立候補ノ前代議士小林絹治氏ノ選挙事務長ニ選任相成候ニ就キ町政多端ノ際寔ニ申訳無上候ヘ共受諾致候タメ本日町長辞職致候何卒右御許□□ヒ下度此段御通知候也  拝

 一月二十八日
                    大橋実次

町会議員 殿
区  長 殿
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昭和11年-選挙粛正映画会

2009年03月18日 05時34分24秒 | Weblog
 社区事務所(現加東市社地区)の「諸通達綴」の中に昭和11年(1936)1月に開催される選挙粛正映画会の開催通知が綴じられています。選挙違反の防止、公正な選挙思想の普及等を行い選挙の粛正を行うという趣旨のもとに各市町に実行委員会が組織され、こうした映画会や講演会が行われています。
 映画の題名があげられていますが、どんな映像だったのか興味がわくところです。また、選挙粛正レコードの演奏も行われたようですが、これも聞いてみたいものです。通知文は次の通りです。


昭和十一年一月十日
            社町長
各区長 殿

 選挙粛正ニ関スル映画会開催ノ件

選挙粛正ニ関シテハ客年九月ノ県会議員ノ選挙ヲ目標トシテ実施セラレ候處各位ノ御協力ニ依リ相当ノ効果ヲ収メ候事同慶ニ不堪候然ル處衆議院議員ノ選挙ヲ控ヘタル今日一段ノ努力ヲ以テ粛正ノ徹底ヲ期シ度就テハ今回左記ニ依リ県ト合同主催ノ下ニ選挙粛正映画会ヲ開催致シ粛正ヲ強調致度候条趣旨御賛同ノ上可然御部内各戸ヘ御伝ヘ被下候テ一人ニテモ多ク参観仕ル様特ニ御配意相煩度此段通知ニ及候

     記

一、主  催      兵庫県及社町
二、期  日      一月十四日午後七時ヨリ約二時間
三、当日挙行ノ次第
1.開会ノ辞  2.国歌合唱  3.講演(主催者)
4.レコード演奏(選挙粛正レコード)  5.映画  6.閉会
四.映画ノ種類
 朗朗ノ暁 全三巻  一票報国 全一巻  雲明ケ行ク 全二巻
 此ノ一票 全二巻  以上ノ内ヨリ(但シ三五ミリ)
五、参集者
 選挙粛正実行委員
 有権者全体
 男女青年団員及婦人会員 等

◎注意 尋常六年生以下ノ児童ハ入場セシメザルコト
 
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昭和12年-忠魂碑前で招魂祭

2009年03月17日 05時59分30秒 | Weblog
 昭和12年(1937)9月23日、この日は秋季皇霊祭にあたり、当時の社町(今の社小学校区域)では忠魂碑の前で戦没軍人の招魂祭が執り行われています。
社町の忠魂碑は元加東郡公会堂(現、明治館)前の広場にあります(写真は昭和28年当時のものです)。


謹啓 秋冷ノ候 御高堂愈々御清適ノ候奉賀上候
 堵而 来ル九月二十三日 秋季皇霊祭当日ヲ卜シテ午前八時ヨリ例年ノ通リ本町内戦病歿軍人ノ招魂祭ヲ本町忠魂碑前ニ於テ挙行致可候条時局柄萬障御繰合ノ上御参列ノ栄ヲ賜リ度此段御案内申上候  敬具

 昭和十二年九月十八日
       社 町 軍 友 会 長   光眞杢太郎
       帝国在郷軍人会社町分会長  上月林太郎

社区長 殿
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帝国在郷軍人会々歌

2009年03月15日 06時04分19秒 | Weblog
 昭和12年(1937)の「帝国在郷軍人会社町分会ノ概要」の中に会歌が掲載されています。在郷軍人会は元々軍隊出身者の親睦を図る目的で組織されたものですが、昭和11年に勅令によって公的団体になっています。
 軍人会の主な事業として、国家的な式典や軍関係の記念日などに参列したり、これに合わせて啓蒙活動をしたりする他、訓練や研修、徴兵検査の協力、慰問活動などを行っていました。
 会歌は軍人会の精神を謳ったものだと思います。紹介します。


 (一)
建国二千有余年
神聖比なき皇国の
世界に負へる大使命
果すは誰の任務ぞや
 (二)
朝日に輝く旗風に
迷妄の雲払い去り
正義の利剣人類を
迷い匡すはいつの日ぞ
 (三)
郷に入りては忠良の
民とし励みことあらば
出て皇国に捧ぐべき
我等が此の身この命
 (四)
つとむる事は異なれど
思ひは一ついつとても
皇国を護るまごころは
吾等が胸に燃ゆるなり
 (五)
ああいくそたび天皇の
降したまへる勅語の
聖旨かしこみ束の間も
心ゆるめず鍛へばや
 (六)
忠勇義烈の血を享けし
日本男子の輝ける
誉たふとみいざやいざや
雄々しく共に進まばや


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新定の地蔵さん前の道標

2009年03月14日 05時28分58秒 | Weblog
 加東市新定にあるという忠魂碑をさがして県道小野藍本線の東条診療所の向かい側の小道に入っていった時、すぐ左手にこんもりと茂った木の下に塀で囲まれた一角があり、そのそばに太くどっしりとした道標が立っているのが目にとびこんできました。
県道から入ってすぐの所なのにまるで別世界のような静けさと厳かさが漂っていました。そこには石仏が祀られていました。石仏の後ろにはさらに古そうな同じ大きさ、形の石がありました。もちろん、それが「砂子の地蔵さん」として親しまれていることはあとで調べて分かったことでした。
 さて、この道標には「右 やし路北条」「左 姫路高砂」と深々と彫ってありました。実に立派な道標です。慶応三年の建立とありますから、王政復古の大号令が出された記念すべき江戸幕府終わりの年に建てられたんですね。
 この県道を何度も何度も車で走っていましたが、ちょっと脇の古い小道に入るとこんな歴史的な空間が今も静かに在ったんだと分かると嬉しくなってきますね。
 今日のブログは600回目の記念すべき投稿となりました。これからもふるさと加東の歴史再発見続けていきます。
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中東条村の忠魂碑

2009年03月12日 06時07分54秒 | Weblog
 加東市新定の記念碑山に中東条村の忠魂碑と日露戦役記念碑があります。県道小野藍本線沿いにある東条診療所の向かい側に山側へと入る小道があり、地蔵さんの脇を過ぎ、分かれ道を右にのぼっていくとさらに小高いところ、きれいに整備された一角にたどりつきます。ここに中東条村の忠魂碑、記念碑がありました。
 階段をのぼると、自然石に太々と「忠魂」と彫られた忠魂碑(昭和27年建立)と石柱に日露戦役記念碑(明治39年建立)と彫られた2本の碑が建てられています。その碑の間に英霊の御尊名が彫られた石板が置かれ、記念碑の脇には日本魂と書かれた碑もありました(古い写真では石碑の上部にある)。その他、勅諭渙発記念の石柱などもあり、この一角が英霊の御魂に静かに祈りを捧げる場にふさわしい厳かな雰囲気に満ちていました。
 日露戦役記念碑の裏面には、中東条村から96人が出征され、91人が凱旋されたことが記されていました。日露戦争は明治37年から38年(1904~1905)のことですから、もう100年余り前のことになります。旅順攻略戦、奉天会戦、日本海海戦などの歴史的な激戦の話も遠くなってしまった感もあります。しかし、中東条村から100人に近い人が出征されたことを知り驚きました。
 忠魂碑(記念碑も)はこうした日露戦争や近代日本の戦争、歴史と現在の私たちを郷土出身の戦士という身近な具体的存在を通して結びつけてくれるものだと思います。上東条村、中東条村の2つの忠魂碑を訪れ、そうした思いを強く持ちました。
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上東条村の忠魂碑

2009年03月12日 06時05分42秒 | Weblog
 加東市天神を通る県道小野藍本線が西脇三田線と交差する天神北交差点の中国縦貫道ボックスの南側すぐそばの小高い山に應現寺があります。
 車を道路脇に止めて、コンクリートの急な坂道を歩いてのぼると竹藪を抜けたところに應現寺の本堂がありました。さらに脇の小径を登っていくと、小山の上に明るく開けた一角があり、その中央にさらに小高く盛られた区域が一気に目に飛び込んできました。
 石の鳥居、そして階段の上には天に向かって屹立する一本の石碑、石碑の前には陸軍の桜のマークが入った茶色に錆びた砲弾が立てられ、石碑の後ろには神社の本殿風の建造物がありました。「ああ、これが上東条村の忠魂碑だ」。東条の古老からだいたいの話を聞いていただけだったので、まるで導かれるように間違わずに辿り着けたことがうれしくなりました。
 忠魂碑は写真のように細長い石柱に「忠魂碑」と彫られています。裏には、大正十二年三月 元帥陸軍大将子爵 川村景明書と彫られていました。この歴史ブログで他の地域の忠魂碑を紹介していますが、社町の忠魂碑(現、加東市社の明治館の敷地内)も川村大将の揮毫です。社町の忠魂碑は大正15年の建立ですから、上東条村の碑はそれより3年前に建てられています。川村大将は薩摩出身の陸軍軍人で、日露戦争では鴨緑江軍司令官として奉天会戦などで活躍した人物です。日露戦争後は子爵となり、大正4年には元帥、その後在郷軍人会会長をつとめています。大正時代のはじめには、全国的に忠魂碑建設ブームが起こりましたが、川村大将は多くの忠魂碑の揮毫をしています。
 鳥居の側に桜の古木が植わっています。もうすぐ桜も満開となるでしょう。その頃にもう一度訪れ、英霊の御魂に祈りを捧げたいと思いました。
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帝国在郷軍人會社町分會-目的と沿革

2009年03月11日 05時36分40秒 | Weblog
 このブログでも帝国在郷軍人会の名が出てきますが、軍事映画や講演会の開催、神社や忠魂碑での戦勝祈願等、いろいろな場面で在郷軍人会の名が出てきました。
社区事務所の「諸通達綴」の中にこの帝国在郷軍人会についての文書が綴じてあり、概要が記されています。
 今日は目的、沿革についての部分を紹介します。


一、目的
帝国軍人ノ精神ヲ鍛錬シ軍事能力ヲ増進シ兼ネテ社会ノ公益ヲ図リ風教ヲ振作シ国家ノ干城国民ノ中枢タルノ実ヲ挙グルヲ以テ目的トス

二、本分会ノ沿革
明治三十二年三月社村内軍隊出身者ノ親睦ヲ図ル為同志相結ビ社村軍人親睦会ヲ組織ス、之本分会ノ濫觴タリ。
明治三十七年社村軍人会ト改称村内在住ノ軍人全部ヲ包有シ尚武並教化団体トシテ会勢ヲ整ヘ明治四十二年三月帝国在郷軍人会組織ノ議起ルヤ社村在郷軍人会ヲ組織シ、之ニ入会シ初代ノ会長トシテ長谷川松三郎氏ヲ推ス。
明治四十三年十一月三日帝国在郷軍人会組織ナリ、帝国在郷軍人会社村分会ト称ス。
明治四十五年六月一日町制実施ニヨリ社町分会ト称ス。
大正六年ヨリ未入営補充兵ヲモ正会員ニ加ヘ会勢頓ニ□リ町当局ノ認ムル處トナリ、大正七年度ヨリ爾後町費ヨリ補助金ヲ交付セラツツアリ。
大正十四年五月並昭和四年八月 畏クモ
天皇陛下ヨリ御下賜金ヲ賜フ。
昭和十一年九月十五日勅令第三百六十五号ニ依リ帝国在郷軍人会令ヲ発セラレ公的団体ニ改編同年十一月三日新会則ヲ施行セラル
昭和十二年一月一日本分会会則ヲ制定施行シ今日ニ及ベリ。
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昭和12年-青年学校生徒の軍事教練査閲④

2009年03月10日 05時44分03秒 | Weblog
 今日も昨日に続いて、昭和12年(1937)の社青年学校生徒の教練査閲の内容を紹介します。査閲教練の流れ(順序)は、整列(10分)、閲兵(10分)、各個教練(制式・戦闘)(30分)、部隊教練(密集15分、戦闘15分)、陣中勤務(40分)、分別・軍事講話・青年歌合唱・生徒への所見(30分)、国旗降下(5分)、所見開示(30分)となっています。県立社高等女学校の校庭だけではなく、警察署や裁判所周辺道路、東側の嬉野台地の西端にあたる地域も使われています。
 戦時中には学校で軍事教練が行われたと聞いていましたが、こうして指導計画をつぶさに読んでみると、具体的にどのような訓練をしていたのかがよくわかります。戦闘、斥候、陣中勤務など、まさに軍事訓練そのもので、用語なども聞き慣れない言葉があります。

※つづき
○陣中勤務
●伝令 複雑ナル事項ノ伝達 数事項同時ノ伝達 文書ノ伝達・・・言語、態度ノ明確 出発、帰着ノ動作 伝達正確ナリヤ
●救急法 止血法 結帯法・・・救急処置ノ普及及向上
●斥候 前進 捜索 発見 報告・・・躍進要領 注意力 報告要領 
●歩哨 
・複哨(二人哨)・・・敵兵発見 協同 報告要領
・対立 監視哨・・・監視要領 協同 報告要領
○分別
○軍事講話(試問)・・・軍事智識ノ普及 精神的□化ヲ図ル
○青年歌発表
○生徒ニ対スル所見・・・査閲官ニ於テ行ハル
○国旗降下・・・国歌合唱
○所見開示・・・(校長及指導員ニ)査閲官ニ於テ行ハル
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