ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

瀧野戦友会建立の奉公碑-河高

2010年01月31日 05時56分18秒 | Weblog
 この歴史ブログで加東市河高にある銃の形をした忠魂碑を紹介しましたが、今日は同じ敷地にある奉公碑を紹介します。
 忠魂碑の東側に一段高く、自然石の石碑があり、表面には太い字で「奉公碑」と刻まれています。陸軍中将建川美次書、昭和九年三月竣功と刻まれています。建川美次という名前は知っていたのですが、どういう経歴の持ち主かを調べてみると、昭和7年に陸軍中将になっており、日露戦争で活躍し、のちに山中峯太郎の「敵中横断三百里」のモデルになった軍人とされていました。戦前はそうしたことでよく知られていたのでしょう。
 碑の裏に銅板が埋め込まれており、碑建立の趣旨が記されていました。

日清日露ノ両戦役及ビ欧州戦争ハ前古未曾有ノ大戦ニシテ皇国ノ興廃此時ニ繋レリ戦勝ノ結果果シテ今日ノ隆運ヲ致セリト雖モ熟々当時ノ国情ヲ回想スレバ寒心ニ堪ヘザルモノアリ而モ克ク寡少ノ兵力ヲ以テ強敵ヲ應懲シ得タルハ一ニ国民ノ自覚ニヨレリ吾等此ノ千歳ノ一時ニ会シ皇軍ニ従フノ光栄ヲ得タリ偃武ノ後相謀リテ記念林ヲ高倉山ニ営ミ聊カ此ノ光栄ニ酬イ併セテ当年ノ意気ヲ偲ブニ資セリ今ヤ国歩多難国民ノ自覚ヲ要スル昔日ニ譲ラズ是時ニ当リ大方ノ人士深ク思ヲ当時ニ回ラシ共ニ倶ニ奉公ノ大義ヲ尽サンコトヲ欲スルヤ益々切ナル因リテ再ビ相謀リテ奉公ノ碑ヲ建テ以テ其ノ意ヲ表ス
 昭和九年四月   瀧野戦友会建立

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梶原の新宮神社

2010年01月30日 05時43分04秒 | Weblog
 加東市梶原の千鳥川桜堤公園の駐車場の隣にこんもりとした森があります。ここに「新宮さん」と親しまれている新宮神社があります。御祭神は伊弉諾命、伊弉册命です。
 小学生の頃、この新宮さんに遊びに来ていた記憶がぼんやりとあります。今は千鳥川の堤防が公園として整備され、春にはしだれ桜が訪れる人を楽しませてくれる市民の憩いの場になっていますが、あの頃は少し下流の井堰のところで夏の水泳をしていましたが、そこから上流のこのあたりはうっそうとした竹藪というか、林になっていました。
 さて、駐車場から桜堤公園とは逆の方へ歩くと、境内の前に常夜燈が建っています。建立年は文政13年(1830)です。境内に入ったところにある石灯籠も同じ文政年間の建立でした。境内の一角に大きな石碑が建っており、その碑には「東宮殿下御成婚記念」と刻まれていました。大正13年(1924)に建立されたもので、東宮殿下すなわちのちの昭和天皇の御成婚をお祝いして建立されたものです。また、境内の手水屋の水盥はいかにも古そうな感じだったので表面をよく見てみると、隣の井戸と接する面に読みづらいのですが、寛政二年と刻まれているように見えました。寛政2年といえば西暦1790年ですから今から220年前ということになります。
 この境内で遊んだ40数年前の記憶を取り戻そうとするのですが、もう古い過去となってしまったのか、ぼんやりとしか思い出せませんでした。それでも、何か懐かしさだけが湧いてくるのを感じながら時間を過ごしました。
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上中の八幡神社

2010年01月29日 04時59分45秒 | Weblog
 加東市上中、加東消防署の南側に公園があり、入口に石鳥居が建っています。鳥居をくぐると広場になっていて、その奥に玉垣に囲まれた八幡神社があります。公園の中にはすべり台や東屋があり、子どもや親子連れの姿をよく見かけます。
 さて、この石鳥居は文化13年の建立と刻まれています。西暦1816年ですから約200年前のものです。また、拝殿前の石灯籠は天明2年建立で、西暦1782年ですから約230年前ということになります。天明2年は天明の大ききんの始まった年です。
 公園でかくれんぼをしていた小学生が「何してんの?」と興味をもって寄ってきたので一緒に見てまわりました。狛犬は天保12年(1841)で約170年前のものでした。玉垣を入ったところに百度石もありました。これは新しく大正15年(1926)のものでした。玉垣の外側に一本の石柱が建っており、表面を見てみると、「紀元二千六百年記念」と刻まれていました。背面には「昭和十五年十一月十二日」「社町青年団上中支部」と刻まれており、側面には小さな穴をセメントで埋めたような痕跡もありました。
 こうして境内を少し歩いてみても200年以上にわたる長い年月の記憶が今も残っています。一緒に見てまわった子ども達も「ばいばい」といって再び遊びにもどりました。
 
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河高の忠魂碑の碑文

2010年01月28日 06時05分13秒 | Weblog
 昨日紹介した河高の忠魂碑建立の趣旨を記した碑文が、同じ敷地の少し離れた場所に建てられていました。碑の前に立って刻まれた文字を目で追いながら朗読すると、忠魂碑建立に込められた当時の人々の思いが伝わってきました。
 この忠魂碑には日清日露戦争、第一次大戦、そして満州事変、進行中の支那事変で戦死された郷土出身将兵の御魂がお祀りされており、「其の武勲を永久に讃え」と記されています。忠魂碑建立の趣旨はまさにここにあり、その標が忠魂碑であって、後の時代を生きる私たちが英霊の御魂に感謝の祈りを捧げる場所なのです。
 占領が終わり、再び碑を台座の上に設置した当時の人々も、独立回復を機にそうした慰霊の場を再建しようという強い思いがあったのでしょう。それから半世紀以上が経った今、ひっそりと屹立する忠魂碑。その碑文を紹介します。

皇国ハ日清日露ノ両戦役欧州ノ戦乱満州支那ノ両事変ヲ経テ今ヤ東亜ノ盟主トシテ君臨シ世界ニ冠タル地位ヲ確保スルニ至レリ 之一ニ上 陛下ノ御稜威ノ然ラシムル所ナリト雖モ亦下幾多将士ノ捧ゲタル尊キ犠牲ニ外ナラズ今次支那事変ニ於ケル我国ノ使命ハ実ニ神武天皇ノ御遺業ニモ比スベク八紘一宇ノ大理想ノ本、真ニ東洋永遠ノ平和ヲ希フ新秩序建設ノ為ニハ尚幾多ノ労苦ヲ忍ビ一億一心滅私奉公ノ心ナカルベカラズ 此ノ秋ニ当リ是等将士ノ英魂ヲ祀リ其ノ武勲ヲ永久ニ讃ヘ以テ尽忠報国ノ精神ヲ作興シ社会教化ニ資セントス 希クハ恁う後昆ノ奮起ヲ望ム 因ニ本碑ハ昭和九年起工 仝十五年即紀元二千六百年ヲ以テ竣功ス而シテ碑ノ正面忠魂ノ文字ハ明治神宮宮司海軍大将有馬良橘閣下ノ書ナリ
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天を衝く銃の形の忠魂碑

2010年01月27日 05時43分05秒 | Weblog
 昨日紹介した河高の旧滝野村役場跡のすぐ北隣に忠魂碑の建っている小高い場所があります。以前、この下の道路を車で走っている時に多くの人が草刈りをしている姿を目にしたことがあり、何があるのか気に掛かっていた場所でした。
 車を止めて石段を上ると、そこは広い円形の広場のようになっており、その奥、正面に天を衝くように一本の長細い石柱のようなものが聳えていました。そして目に飛び込んできたのがその中心あたりに刻まれた「忠魂」の2字でした。形は変わっていますが、忠魂碑に間違いありません。立ち止まってよく見ると、石の台座の上に建っているのは”銃”の形に刻まれた石碑でした。初めて見た形の忠魂碑です。しかもその高さに圧倒されました。昭和15年3月竣功と台座背面に刻まれており、少し離れたところに建てられている石碑の碑文には紀元2600年記念として、昭和9年起工、15年竣功とありました。そして、”忠魂”の文字は明治神宮宮司海軍大将有馬良橘の書であることもわかりました。有馬良橘は東郷平八郎の側近で、のちに明治神宮の宮司を務めた軍人です。
 すぐ近くの畑で作業をしていた地元の方によれば、占領中はこの忠魂碑を台座から降ろして地中に埋めていたらしく、講和独立後に再び元に戻したということでした。占領時代に忠魂碑を地中に埋めた話はやしろ国際学習塾(旧三草小学校跡)にある上福田村の忠魂碑でも聞いた話でした。
 
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滝野村役場のあと

2010年01月26日 05時00分47秒 | Weblog
 加東市河高の集落を南北に貫いている旧道を北に向いて車を走らせていると、中国縦貫道の下をくぐったところで、道は大きく左にカーブし、右側には加古川の流れが視界に飛び込んできます。前方左には五峰山、中央に加古川、右には遠く中国山地へと視界が広がっています。そのカーブの左側に石垣が組まれた一角があり、細い坂道があるので上がってみました。そこは広々とした一見公園のようになっており、桜の木が規則的に植わっています。北の端には石灯籠が対で置いてあり、神社かお堂のようなものがあったような跡もありました。
 ちょうど地元の方が一輪車を押して上って来られたので聞いてみると、ここは昔、役場があったところだと教えて下さいました。へえー、ここに役場が・・・。驚きでした。何度も下の旧道は通っているのですが、役場跡地だったとは知りませんでした。旧滝野村は、上滝野、下滝野、光明寺、河高、高岡の5村をもって編成された村ですが、その滝野村の役場がこの地にあったということです。今はその面影は石垣ぐらいでしょう。すぐ南を中国自動車道が加古川を跨いでおり、西側はJR加古川線が走っています。北、東の見晴らしはいいのですが、人家もなく、ここに役場があったとは俄かに信じ難いところでした。しかし、位置的には加古川に沿って南北に広がる旧滝野村の中心にあたるのかなあなどと考えたりしました。このような町の歴史を伝える場所は何か表示をするなどしていつまでも記憶を伝えていくことも大事なことではないかと思います。写真はその石垣を道路から見たところです。

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横谷の地蔵堂

2010年01月25日 05時32分29秒 | Weblog
 24日、市内各地区の初総会のご挨拶のために横谷地区公民館(加東市横谷)を訪ねました。夏の地蔵盆にも訪れたことを思い出しながら、公民館の横に並んで建つ地蔵堂を見上げました。その折り、地区の方がこの地蔵堂の由来や古さを説明して下さったことを懐かしく思い出し、思わずカメラのシャッターを押しました。
 横谷(よこだに)の地名の由来は、その横に長く引く谷の地形を以て成ると伝えられていますが、吉川(現三木市の吉川地区)へ通じる谷、すなわち吉川谷(よかわだに)が訛って「よこだに」になったのでは、という郷土史の先生の説も聞いています。
 数百年の古さをもつと伝えられるこのお堂、地蔵菩薩と弘法大師が本尊として地元の方々によって大切に祀られています。
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上三草の住吉神社

2010年01月24日 06時52分52秒 | Weblog
 国道372号と県道144号(西脇口吉川神戸線)が交わる上三草交差点(加東市上三草)の信号と接するように大きな石鳥居が立っています。県道を東進してくると、進行方向の突き当たりにこの石鳥居があり、その向こうに森と石段が見えて、まさに神社の正面にいることが一目でわかります。ここが上三草住吉神社です。
 神社のある森の北側には、やしろ国際学習塾の駐車場が県道に沿って設置されています。この駐車場の東端には地元三草小学校区の県民ふれあい広場の建物もあり、人々の集いの場となっています。この駐車場に車を止めて森の北側から神社境内に通じる道を上っていくと、森の中にぽっかりと広がる静かな空間が開けます。その中に、社殿、拝殿、長床、舞台、小宮、相撲場、石灯籠、石碑などが真上から差し込む光の中に一つになって目に飛び込んできます。拝殿に向かって左側に大木があり、一つの株から分かれて2本の大木が天に向かって聳え立ち枝を広げています。その根元に丸い石が置かれていましたのでよく見ると時が刻んであるようでしたが読めませんでした。太い幹には注連縄が結んであるので御神木だとわかります。
 さて石鳥居から見えた石段は急でその脇に石灯籠が据えられています。石段上のものは、天明2年建立、下のものは天明3年建立と刻まれていました。また、石鳥居は文政8年再建とあります。天明2年は西暦1782年で、歴史教科書に出てくる天明の大飢饉が始まった年です。今から約230年も前のものなんですね。そして石鳥居も185年前のもの。江戸時代も末期で、異国船打払令が出された年です。
 ところで、三草の地名の由来を伝える話の一つに、大昔、この地の平定するために神々が戦いをくりひろげていた頃、軍の中に病気が広がったが、神のお告げでこの地の三種の薬草を採って飲んだところたちどころに治り、その三種(みくさ)の薬草から三草と呼ぶようになった、というものがあります。そんな伝承を思い出しながら境内での静かな時間を過ごしました。
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山氏神社境内の義経伝説

2010年01月19日 05時35分23秒 | Weblog
 昨日に続いて山氏神社の境内を紹介します。山氏神社は「やもりさん」と呼ばれて地元の人々に親しまれていますが、その境内にはクスノキなどの大木があったり、周囲をめぐる石垣がなどがあり、歴史の古さが伝わってきます。石鳥居も安永9年再建と刻まれており、西暦1780年ですから江戸時代の中ごろ、今から約230年前のものということになります。その境内の一角に玉垣に囲まれ、その中に一本の石柱が建っているところがあります。
それが「義経お手植えの松」の標なのです。石柱には、「源九郎判官義経お手植の松」と刻まれています。これは一の谷の合戦の前哨戦となった三草山(加東市上三草)の合戦に勝った義経が逃げる平家を追って、今の社辺りまで軍を進め、自ら戦勝を祈願して松を植えたとの伝承をもとにしたのもです。
 今は松の大木はなく、小さな松の木が数本生えているだけですが(写真)、土地の古老の話によれば、かつては大きな松の木が生えていたとのことです。その写真はこの歴史ブログで紹介していますので(2006.7.20付)参考にして下さい。
 伝承か史実かは別にして、すでにこの石柱や松の切株そのものが私たちには懐かしい歴史になってしまっているのではないでしょうか。きれいに清掃された境内で、一人静かに800年以上昔の記憶まで遡って想像をめぐらせることができる、これぞ至福のひとときではないでしょうか。

 
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山氏神社参道の石灯籠

2010年01月18日 05時30分33秒 | Weblog
 加東市社の市街地を南北に貫く商店街を走っていると、商店が途切れて、石灯籠が建っているところがあります。ここが山氏神社の参道入口です。ちょうど佐保神社の東に位置しています。
 この歴史ブログでも山氏神社について紹介してきましたが、境内には「義経お手植えの松」があり、歴史の古い神社です。私が保育園に通っていた昭和30年代のはじめ、この境内にサーカス小屋が立ち、見に来た記憶もあります。通称「やもりさん」と呼んで親しまれてきた神社です。
 商店街から直角にまっすぐに延びた参道の奥には石鳥居と社殿があり、周囲は低い石垣で囲まれています。さて、商店街を車で走るときはいつも参道入口の石灯籠を見ながらということになります(写真)。あまりに身近すぎてじっくり見たことがありませんでしたが、刻まれた字を読んでみると、建立は天明元年六月とあり、今から約230年前の西暦1781年ということですから、やっぱり古いものでした。また、建立者は廣野姓氏子とあり、一族同姓の氏子の寄進によるものだとわかります。往古、社の地は松林の続く原野で、由良野、廣野とよばれていたと聞いています。今もこれらの地名は残っているほか、廣野屋の屋号をもつ一統があり、山氏神社の氏子を成しています。商店街の道路を境に西がゆらの、東が廣野とよばれていたということです。
 
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下久米-三草坂の道しるべ

2010年01月17日 05時33分48秒 | Weblog
 15日、小寺彦兵衛さんの頌徳碑修復竣工開眼供養に出席した折、開式までに少し時間があったので、頌徳碑のある三草坂を少し歩いて山の方に上がってみました。軽トラック1台がかろうじて通ることができるほどの狭い急坂道です。少し上ったところに池があり、その曲がり角に1本の道標が立っていました。小さな道標で、近づいてよく見ると、上部に指を差した手が、そして、その下に「へんろみち」と刻まれていました。側面に「北さ□大し二丁半」と刻まれています。
 夜、家で調べてみると、加東四国八十八ヶ所霊場の二十四番浄泉寺(下久米)、二十五番東光寺(上久米)と二十六番小山庵(藤田)の間に、「霊地 八坂八濱鯖大師 観音所」がありました(『加東郡誌』)。「鯖大師」か、と刻まれた字を思い出しながら思いました。
 「鯖大師」。これは四国別格霊場の第4番札所の鯖大師(徳島県海部郡海陽町)のことだとわかりました。弘法大師が開かれた霊地で、鯖を3年断って願い事をすると成就する、ということです。
 霊地へ足をのばす時間はなかったのですが、ぜひ一度歩いてみたいと思いました。加東四国霊場巡りは、四国八十八ヶ所霊場を加東郡(現加東市、小野市域)に写したものです。各地に残る霊場巡りの道標、そして札所のお堂など、かつて多くの巡礼の人々が歩いたこの道を今に、そして未来に伝えていきたいという思いを強くしました。
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釣針製造の元祖、小寺彦兵衛翁の頌徳碑修復

2010年01月16日 06時08分56秒 | Weblog
 15日朝、加東市下久米の三草坂にある小寺彦兵衛塚の修復竣工開眼法要が行われました。少し早めに塚に行くと、すでに兵庫県釣針協同組合の役員さんが来られて準備に当たっておられました。
 塚は大正8年(1919)に建立されたのですが、90年経って傷みも激しくなり、釣針協同組合が玉垣や敷地を修復整備して今回竣工式となったわけです。
 小寺彦兵衛は下久米村の庄屋で、釣針製造技術を土佐(高知)から学んで地元に伝え(嘉永4年1851)、現在の地場産業の基をつくりあげた郷土の偉人です。彦兵衛の偉さは自分の習得した技法を公開し、こころよく教えたことであると伝えられています。そうした彦兵衛さんに感謝し、偉業を顕彰するこの碑が修復整備され、次代に伝えられることになったわけですが、まさに歴史を継承する事業であり、未来へのメッセージの発信となるものだと思います。
 ふるさとにこうした偉人を有するということは幸せなことだと思います。なぜなら、その偉人をふるさとの共通の先人として仰ぎ、誇りとし、懐かしみ、学び、語ることができるからです。彦兵衛さんは釣針製造関係者や下久米地区の人だけではなく、今や加東市民共通の先人となっていますし、兵庫県の道徳教育の郷土の先人の資料にも取り上げられたり、さらには加東市の人気者のゆるキャラ「加東伝の助」クンのモデルになって広く知られるようになっています。この頌徳碑がこれからより多くの人に彦兵衛さんの生き方や釣針製造のふるさとのことを知ってもらうためのきっかけになればと願うところです。 
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岩屋の八幡神社・薬師堂

2010年01月15日 05時32分56秒 | Weblog
 加東市の東条川に沿って走る県道小野藍本線を車で通るたびにいつもスピードを少し落として窓から見る風景があります。
 加東市岩屋の八幡神社、薬師堂のある杜です。天を衝くように屹立する大杉が周囲の緩やかな傾斜の田圃と背後の山にピッタリとはまっている、そんな風景が何ともいえず心に安らぎを与えてくれるのです。田圃、鎮守の杜、里山、まさに「日本の田舎」がそこにある、といった感じがします。
 八幡神社の祭神は譽田別命、薬師堂は加東四国八十八ヶ所霊場の十八番になっています。歴史が古く、400年以上も前からお祭りが続けられているという記録があるそうです。
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壁に残る老松の痕跡

2010年01月14日 05時29分15秒 | Weblog
 加東市社の市街地をほぼ一直線に南北に走る道路のうち、現在北半分が歩道部分が緑色のカラー舗装されています。商店や事務所、寺院などが連なる商店街が形成されていますが、その通りを含めて老松町とよばれる一角があります。
 この歴史ブログでも老松町の町名の由来について紹介したことがありますが、かつてこの通りや一角に大きな松の木(老松)が生えていたからだ、と聞いています。昔(昭和10年代)の写真を見ても確かに大きな松の木が写っています。
 さて、この歴史ブログの記念すべき第1回の投稿は平成18年の6月13日のことですが、「塀が歴史を語る」という題名で老松町の町名の由来ともなった大きな松の木の痕跡が今も塀に残っているという話でした。まさに身近なところに歴史再発見というテーマにふさわしい、ということで紹介しました。その後、その松が写った写真を発見し、これも紹介してきました。そこで、今日はその肝心の「塀に残った老松」の痕跡を紹介します。
 八坂神社(祇園さん)の赤いコンクリート壁の端の部分がコンクリートの地肌がむきだしになっています。これがその老松の痕跡なのです。老松を取り込んで塀がつくられたのですが、老松を伐ったあとをコンクリートで塗り固めたあとなのです(写真の塀の真ん中あたり、ブロック塀との境目)。これは向かいでたばこ店を営んでおられる方から聞いた話です。
 この通りを通る度に目に止まる「老松」のあと。いつまでもこの痕跡を残しておきたいものです。
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佐保神社の狛犬

2010年01月13日 05時32分49秒 | Weblog
 佐保神社(加東市社)では、境内の恵美須神社で9,10日と社ゑびす祭が行われました。今年は9日の宵ゑびすに家族でお参りしました。私もえびす講の一員ですが、数年に一度役がめぐってきます。来年がその年に当たります。
 さて、11日には佐保神社社務所で地元町内会の初集会が開かれ、新年のご挨拶にうかがいました。天気もよく、境内はまぶしいほど明るく光っているなか、拝殿前の狛犬に目が止まりました。小学生の頃、この境内でよく遊びましたが、狛犬の背中に跨って得意になっていたことを思い出しました。2段の台石の上に据えられている狛犬の建立は天明8年(1788)9月で、米屋與右衛門、玉屋長左衛門、油屋忠右衛門の寄附となっています。天明年間といえば、あの「天明の大飢饉」で知られる時代で、今から220余り前のことです。
 
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