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ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語 ④

2013年02月28日 04時57分49秒 | Weblog
「孝女ふさ」の話もいよいよ最終章です。

四 後の幸福(しあわせ)

 父は随分手を尽くして養生もし、またおふさも為(で)きるだけ慰めもし、神仏も祈りましたが、とても助かる見込みのない病気という事が分かりましたので、父はある日おふさを枕許(まくらもと)へ呼びまして
「おふさや、私も年が老(よ)って、こんな大病に罹ったので、今度はとても助かるまいと思う。私に働きの無いばっかりに、幼いお前に大そう苦労を掛けてついぞ今まで親らしい事もせないが、奉公に出したのさえ恨まず、こうやって時々尋ねて来れる孝心は、死んでも忘れる事はできぬ。村中のお方が、おふささんは孝行じゃ、おふささんは感心じゃと言われる毎に、私の肩身が広うなって、お前のような娘を持った仕合せを有り難う思います」と、涙と共に喜びました。
 まもなく父は病死しましたので、おふさは天地も覆るように悲しみましたが、その中でも母への孝養を怠りませんでした。主人持ちでは思うような助けも出来ませんので、家へ帰って孝養を尽くしたいと思いまして、その事を主人に頼みましたが、おふさが忠実(まめまめ)しく働いてくれるので、主人は惜しがって容易に暇を呉れませんでした。それで暇のある毎に家へ帰って、母の心を慰めては
「お母さま、ご心配なさいますな。随分心を大きく持って在らっしゃい。その内にお暇を戴いて、お母さまを安息に致します」と云い云いしました。
 母は良人(おっと)に死に別れても、後にお房が居ますので、おふさを杖に生きて居ました。おふさは主人大事と働きながら機(おり)があると主人の前へ出まして
「お母さん一人で淋しがって居りますから、どうかお暇を下さりませ。長の年月の御恩は忘れません。その内、母を見送りましたら、一生涯御奉公をして、これまでの御恩を送ります」と頼みました。
 その心を推察して、主人はとうとう暇を呉れました。おふさは歓んで家へ帰り、母の綿つむぎの手伝いをして、乏しいながら心安い世を送りました。
 おふさの孝心がいつの間にか役人衆の耳へ入りまして、御褒美のお金を戴きました。それが段々世間の噂になって、諸方から同情を得まして、後には大へん幸福な生涯を送りました。

 
 以上が『孝子物語』にある「孝女ふさ」の物語でした。
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孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語 ③

2013年02月26日 04時49分01秒 | Weblog
 今日は「孝女ふさ」の第三章を紹介します。

三 孝女の奉公振り

 孝に厚い者は忠にも厚いと云いますが、全くその通りで、おふさは主人大事とよく勤めました。朝も、夜も、星を戴いて野仕事を致します。雨でも降って家に居りますと、草鞋を作ったり、繩を綯(な)ったりします。そうして片時も油断しないで、一生懸命に働きますから、主人も大変気に入りまして「おふさおふさ」と可愛がります。
 雨祝いなどで休みがありますと、田舎の事ですから、餅を搗(つ)いて喜んだり、祭礼(まつり)があるか、仏事でもあると、温飩(うどん)を打ったり、お萩餅(はぎ)を拵(こしら)えたりして馳走をします。雨祝いや祭礼には、村中が休みますから
「おふさや、毎日よく精を出してくれますねえ。今日は村中がお休みだからお前さんも休みなさい。恰(ちょう)ど餅(あんも)を搗いたからこれを上げます。お萩餅もあるからお喫(あが)りなさい」と云って、お暇と甘味(おいし)い物を呉れます。するとおふさは之れを一個も食べませんで
「有難う存じます。それでは一日遊ばせて戴く代りに、どうぞ実家(うち)へ帰らせて下さいませ。この餅や、お萩餅を、病(や)んで居るお父さまのお土産に致します」と云うのが平生(つね)でした。
 主人も同じ召使も、おふさの心掛に感じないものはありません。
「休みだからお前の好いようにしてお暮らしなさい。内へ帰るのだったら、此方のを上げますよ」と云って、別に多くの物を呉れるようになりました。
 おふさは夫を風呂敷に包んで、いそいそと実家へ帰って来まして
「お父様、これをお喫りなさいませ、これは御新造(ごしんぞ)さんから戴いたのでございます。またこれは旦那様が下すったのでございます」と、貰って帰った物を枕頭(まくらもと)へ並べます。
 父は夫(それ)を見るたびに嬉し涙を流します。どう云うものか、病気は快い方に向いませんで、段々痩せ窶(やつ)れて参りますが、おふさの優しい心に触れますと、俄(にわか)に蘇生(よみがえっ)たようになります。常にはお粥も重湯も食べ難(か)ねる程ですが、おふさが持って帰ったものは、何の苦も無く咽喉(のんど)を通って行きます。母親もそれには感心しまして
「まあ、何という不思議なことだろう」と云って驚きました。
 おふさは、父の食い余した物は、次に母へ侑めまして、その上でないと、自分は戴きませんでした。
「今日は真実(ほんと)に心持ちが好い、これでわしは全快します」
 父が心から歓ぶ背後(うしろ)を、柔らに撫(な)で擦(さす)りを致します。偶(たま)の休みに、外(ほか)の奉公人や村の人たちは、唄祭文(うたさいもん)を聞いたり、素人芝居をしたりして遊びますが、おふさは実家へ帰って、父の看病を致すのを第一の楽しみと致しました。
 時間の許す限り介抱をしまして、主人の家へ帰りますと、翌日は平生に幾倍して精を出します。
「昨日一日遊びましたから、今日はその埋め合せに二日分のお仕事を致さねばなりません」
 斯う云って勉強します。世に奉公人根性という者があって、主の目の届かぬ處(ところ)では、成るべく骨を盗むようにしますが、おふさは主人の目の届かぬ處でも、一層熱心に働きました。主の為めに働くのは、将来必ず自分の身に報いて来ます。つまり自分の為めに働くと同じことです。
                                     つづく
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孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語 ②

2013年02月26日 04時47分15秒 | Weblog
 昨日紹介した、『孝子物語』に書かれたの「孝女ふさ」の続きです。

二 悲しい別れ

 斯(こ)うした状態(ありさま)が二、三年も続きました。親は子を思い、子は親を思う親身の真情(まごころ)を基礎(もと)にした家の内ほど、平和で清く美しいものはありません。おふさの家は近所の褒められものになりました。親子が心を一つにして生計(くらし)を立てゝ行きますと、貧しい家にも光りがあります。
 処(ところ)が天はこの繊弱(かよわ)いおふさを玉にしようと思召したのでありませう。父は不図(ふと)した風邪が原(もと)で、終(つい)に頭も上らぬほどの大病となりました。父が病気になってからは、家の生活(くらし)が苦しくなります。おふさは何(ど)うかしてと思いますが、女の手一つでは良い薬一服買うだけの稼ぎも出来ませんから、幾夜も幾夜も考えた末、炊事奉公(みづしぼうこう)に身を売って、その前借金を父の薬代に当てようと決心しました。然し夫(それ)をするには父の側を離れなければなりません。もし自分が居なかったら、父が何様(どんな)に不自由をするかも知れないと思いますと、思い切って父の手許から離れる事が為(で)きませんので、暫くの間兎つ追いつ(とつおいつ)考えて居りましたが、爾(そ)うして居ては限りがありませんから、漸(やっ)と心を決めて父にその事を打ち明けました。
「お父さま、私は御奉公に参ります。お淋しいかも知れませんが、暫く御辛抱なすって下さいまし、その内には無事で帰って参りますから」
 涙や心配な顔を見せては、父が悲しむだらうと思いますから、成るべく平気を粧って何気無い様で云いますと、父は面(おも)を背けまして
「爾うか、よく決心して呉れた。お前の親切でわしの病気は快(よ)くなります。どうか無理をして患って呉れるなよ」と、歯を切(くいしばっ)て云いました。
 父もこゝで泣いては、おふさが悲しい上にも悲しむだろうと思いますから、煮え返るような悲哀(かなしみ)を怺(こら)えて、涙を見せぬようにして居ました。おふさも泣かず、父も泣かず、表面は一滴の涙も見せないで居ましたが、二人の胸の底には万斛(ばんこく)の涙が大波のように流れて居ました。
「それではお父さま、わたくしは御奉公に参ります。お薬は仏壇の抽斗(ひきだし)に入れてあります。お母様何(ど)うか煎(せん)じて上げて下さいませ。お給金を戴きましたら、すぐお届け致します」
 母も同じように歯を切(くいしば)って「はいはい」と云って居りました。
 おふさは父に別れを告げ、母に後々の事を頼んで置いて、他家へ奉公に参りました。母は戸の外まで見送って出ます。父は病の床で咽せ返って居りました。三日月の影が門(かど)の柳の枝にかゝって、きらきらと光って居ます。星は皆な目叩(まばた)きして、孝女の憂き別れを悲しむように見えます。
                                                                            つづく
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孝女ふさ-孝子物語に書かれた物語 ①

2013年02月25日 05時39分45秒 | Weblog
 「孝女ふさ」は、18世紀半ば、江戸時代に播磨国加東郡上三草村(現在の加東市上三草)で親に孝行を尽くした人として知られ、戦前には修身教科書にも取りあげられていました。上三草の旧京街道沿いにふさの孝行を讃える「彰孝碑」が建てられており、今も地元の老人会の皆さんが清掃をして大事に守っておられます。
 その「孝女ふさ」について、この度、武蔵野大学の貝塚茂樹教授から大正6年(1917)に発行された『孝子物語』(高島平三郎立案、渡邊霞亭編述)の中に「孝女ふさ」の項があると教えていただきました。「孝女ふさ」は修身教科書のみならず国語教科書にも取りあげられており、その回数はあの野口英世博士よりも多いということも教えていただき驚きました。
 「孝女ふさ」については、地域の歴史書である『加東郡誌』、『上福田村史』、『新修加東郡誌』などにその記事があります。また、修身教科書にも記述があるのですが、『孝子物語』は物語として書かれているふさの話で貴重なものです。
 郷土が生んだ孝行の模範「ふさ」の物語を紹介します。4章構成になっていますので、1章ずつ紹介します。歴史的かなづかいは現代かなづかいにしました。
 

孝女ふさ

一 八歳で草履売

 今からちょうど百四十年ほど前(※1917年時点)、播磨国の加東郡上三草村(かみみくさむら)という所におふさという少女がありました。
 家は貧しい百姓で父も母も毎日毎日田圃(たんぼ)へ出て働いていました。おふさは八歳の幼い時分から、近所の家へ子守に雇われたり、お使いをしたりして家の活計(くらし)を助けていました。夜になると父が草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)を作る傍ら(かたわら)で、時分も藁(わら)を打ったりして手伝っておりました。そして、その草鞋や草履を売りに行きました。
 おふさは毎日街道筋の松並木の傍らへ出て、父の作った草鞋を売っています。
「おい少女(おねえ)さん、草鞋を一つおくれ」
「おゝおふささんか、毎日精が出るのう、どれ私も一つ貰(もら)おうか」
「おふささん、お前の売っている草履は中々よく保つ、同じ銭を出しても、外(ほか)ではこんな丈夫なのは買われない」
「おゝそんな丈夫なのなら、私は三足程貰います」
「おいおふささん、向うの茶店の婆さんが、お前の来るのを待って居るぜ。同じ草鞋でもお前の草鞋は客受けが好いと云っての」
 知った人も知らぬ人も、争うておふさの草履や草鞋を買って行きます。
「はい毎度有り難うございます」と、おふさは売れ残った分を肩にかけて道を急ぎました。村端れ(はずれ)の茶店ぼ前を通り掛けますと、ちらとおふさの姿を見た婆さんが「おふささんじゃないか、今日は大層急いでいるねえ、どうしたんだえ」と尋ねました。するとおふさは
「はい、もう日が暮れますので、お父さんの迎ひに山へ行かねばなりませぬ。又明日の朝ゆっくり寄せて貰います」
「それはすれは感心な事じゃ、お前の孝行は此の村で誰知らぬものもない。昼は使い走りや子守に雇われて、其の間には、こうやって草履や草鞋を売って歩き、日が暮れかゝると、年とったお父さんを山へ迎えに行く。夜は仕事の手伝いをしてお母さんの手助けをする。なかなか八歳や九歳で大人も及ばぬ働きをするのは、教えても出来ぬ事じゃ。然しな、おふささん、私の店へも、もっと草鞋を売って下されや」
「はい毎度有り難うござります。それではこゝに五足ありますから、是(これ)だけ置いて参ります」
 おふさは肩から草鞋を下ろして渡しまして、其のまゝ家へは帰らずに、山へ登って行きました。日はもう、西の空へはいってしまって、真赤な夕焼の雲が、薄暗くなった林の中まで照らしています。おふさは「お父さんお父さん」を二声三声呼びますと、「おういおうい」と答えるのが、木霊(こだま)に響いて聞こえます。どこにお在(い)でなさるかと思う中、足元の方から登って来る父の姿が見えました。おふさは喜んで「おゝお父さん、迎えに来ました」と云いました。父は「それはまあ有り難い。少し遅くなるとお前が心配して迎えに来るから、早く帰ろうとは思うが、仕事の都合で、やっぱり此様(こんな)に遅くなる、どれそれでは帰ろうか」と、おふさと共に山を下りました。
                                    つづく
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昭和5年元旦-社町消防組初出式の案内

2013年02月22日 04時14分05秒 | Weblog
 昭和4年(1929)の社町社の雑書綴の中に社町消防組の出初式の案内状が綴じられていました。

 昭和4年も年末の12月30日付で、社町消防組頭、黒石丑吉の名で各区長と町会議員宛てに出されています。当時の案内や通知は直前に出されている文書が多く見られます。今なら叱られそうです。
 昭和5年度の初出式を元旦の午前八時、場所は元加東郡公会堂の庭で、となっています。今の加東市明治館の庭ということになりますから、そう広くはありませんが、恒例の初出式が行われたんですね。
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昭和4年-社青年団の経費概略

2013年02月20日 04時59分41秒 | Weblog
 昭和4年(1929)、社青年団の経費概略が当時の雑書綴に綴じられています。当時の青年団は父等の世代が担っており、日記や写真があります。この経費概略は社町社区への青年団補助金のために作成されたものと思われます。昭和5年の予算では190円の補助金がついています。
 

    社青年団 経費概略

   (単位円)
25.000      社町青年団本部費
25.000      本部聯合競技会優勝旗負担金
30.000      競技部費(本部運動会及ビ支部運動会費)
36.000      図書部費(毎月3円)
18.000      集会費(毎月二回一回五拾銭ノ割合)
37.800      機関誌涌羅野費(支部報)1部4銭5厘7号
20.000      雑費(葬式供花、郡聯合会競技会選手費)
              本年数件5回15円 5人トシテ5円

¥191.800

      昭和四年拾弐月弐拾日

                     社青年団
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昭和2年-社小学校で農業品評会

2013年02月19日 04時30分37秒 | Weblog
 昭和2年(1927)、社小学校(現加東市立社小学校)を会場にして農業品評会が開催されています。その案内が当時の区事務所の雑書綴に綴じられています。
 4回目となっていますから、大正時代からの行事でしょう。蔬菜や家禽が出品されていますが、小学校でそうした品評会が行われていたんですね。
 出品依頼は次のとおりです。



拝啓 初冬寒冷の候益々多祥大慶に存じます 扨本年度行事の一として第四回農業品評会を聯合の下に開催いたすことになりました 就ては幸い御賛意下さって貴各団体より多数御出品せらるる様何分の御配慮相煩はし度此段御願い申し上げます

 十二月一日      社町農会
              社小学校

 社部落区長 殿


 ■ 出品要項

一 期日  昭和二年十二月十三日~十四日の両日とす

一 出品物 前回に準ず
      即ち 蔬菜類、家禽類、農手芸類及び参考品とし 蔬菜類は三個を一点、家禽類は二羽又三羽番を一点とし其他は任意とす

一 出品期 開会前日(十二日)午後一時限
      それより審査に入る

一 審査  蔬菜類と家禽類につき行ふ

一 会場  社小学校

一 出品目録  一支部毎に一括して目録添付されたし

    号   品名   数    出品者 代価   備考 
 例  一  宮重大根  一  貝原  何誰  八銭
    二   牛蒡    一  社   何某  三十五銭 非売品

一 陳列  売却等は主催者側に一任されたし

一 以上の如く大体は前例を踏襲してゐますから不備要項を思はるものは御推考を願ひたし   
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昭和10年-恙無く軍務を終え帰郷

2013年02月18日 04時42分43秒 | Weblog
 社町社(現加東市社)の昭和九年十一月~昭和十年十月の「往復文書綴」には入営、退営兵の奉告祭の通知が多く綴じられています。その中に昭和10年4月、無事軍務を終えて帰郷する兵士を迎え佐保神社で奉告祭を行うとの通知がありました。退営兵の一人、藤本義夫(社)の名がありますが、叔父の名前です。同姓同名かもしれませんが、おそらく叔父だろうと思います。


 昭和十年四月十五日
        社 町 長

 町会議員
 区  長  殿
 各種団体長

  満期退営者奉告祭挙行ノ件

左記ノ両君此ノ度無恙軍務ヲ終ヘラレ本月二十日歩兵第七十九聯隊(朝鮮龍山)ヲ退営相成同月二十二日帰郷セラレ候条左記要項ニ依リ奉告祭挙行可致候条多忙中ト存ジ候得共御参列相成度此段及通知候也
 追而御部内一般ヘ多数参列相也様御配慮相煩度

     記

一、日時    四月二十二日 午後五時
一、場所    県社佐保神社前
一、退営兵
      藤本義夫(社)
      近藤末吉(社)
        (四月二十二日午後四時社駅着)
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昭和10年-畜産組合薬局規程

2013年02月17日 05時31分21秒 | Weblog
 社町社区事務所(現在の加東市社)の昭和9年~10年「往復文書綴」の中に加東郡畜産組合の薬局規程が綴じられています。大動物が牛馬、小動物が豚とされており、診察料、薬、証明書等の料金が決められています。



 加東郡畜産組合薬局規程

      診察料

一、診察料  大動物   金 壱円(牛馬)
         小動物   金五拾銭(豚)

      薬価其ノ他
一、内用薬 大 一方剤一日分  金五十銭 散薬水薬ヲ含ム
        小         金弐十銭 
一、頓服薬 大         金五十銭
        小         金参十銭
一、灌腸  大         金参十銭
        小         金弐十銭
一、外用薬 大 一剤      金五十銭
        小
一、点眼薬 大 一剤      金弐十五銭
        小
一、注射薬 大 一回      金一円-二円
        小         金五十銭-一円
一、血清
  ワクチン等注射料      相当費用
一、一班手術梁         金一円-五円
一、去勢梁(牛)大       金一円
       (豚)小       金弐十五銭
一、狂犬病予防注射       相当費用
一、一班鑑定料 大       金弐円
           小       金壱円
一、血液其他検査料 大     金壱円
             小     金五十銭
一、診断書料 大        金壱円
          小        金五十銭
一、証明書料 大        金壱円
          小        金五十銭
一、切迫診断書料 大    金参円
              小    金壱円
一、検案料 大         金弐円
        小         金壱円
一、処方箋料 大        金弐円
          小        金壱円

 右大動物トハ牛馬、小動物トハ豚ヲ云フ

 昭和十年四月壱日ヨリ実施
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大日たんの護摩焚き-山伏の法弓作法

2013年02月16日 06時15分27秒 | Weblog
 先日紹介した加東市上久米の東光寺で行われた伝統の祭り、大日たん(大日如来祭)の山伏による法弓作法の様子を写真で紹介します。
 護摩焚きのようすは煙や火渡りの写真がよく紹介されますが、焚き上げの前に行われる山伏による諸作法のようすの写真を見ることは余りないように思います。法弓作法では注連縄で張られた結界の四方と中央に向かって山伏が矢を放ちます。子供らがその弓を追って田の中を走ります。法剣、法斧の作法もあり、山伏が唱える言葉もよく聞いていると興味深いものでした。今年は天気もよく、寺の前の高いところから見ていました。
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河高八幡神社の厄除け祭り

2013年02月14日 04時27分49秒 | Weblog
 2月11日(月)、加東市河高では八幡神社で厄除け祭りが行われました。県立播磨中央公園の中にあるこの八幡さんには毎年参拝していますが、今年もそのようすを紹介します。
 河高八幡神社は、今から約470年前の天文4年の創立とされており、「厄除けの霊験頗る顕著」なお宮さんとして知られています。厄除けのお祭りが毎年1月19日に行われ、この日には旧加東郡や加西、多可郡から多くの人が参詣し賑わってきました。近年は2月11日に行われています。
 この厄除祭では、地元出身の成功者や厄年の人たちが神社のある山の頂の祠のある大岩の前でお金(硬貨)や菓子、餅などをまき、それを子どもたちが拾うという行事が行われることでも知られています。神社本殿から山頂へと整備された道をのぼると、巨岩の前の広場には法被姿の子どもたちが群れています。そこへ袋やお盆にお餅などを持った人たちが現れ、巨岩の上の祠にそれをお供え、拝んだあと、子どもの方に向かって硬貨やお菓子をまきます。子どもたちは歓声をあげながらそれを拾って用意した自分の袋に入れていきます。周囲では子どもの親御さんや家族がその光景を微笑みながらみています。
 戦後の一時期、女の子も参加したようですが、今は地区の男の子だけが参加できることになっています。この祭りを「奇祭」とよび、子どもがお金を拾うという行為を好ましくないなどという観点から一部の批判があったことは確かで、かつて毎年新聞でそのようなコメントが付けられていました。しかし、このお祭りは厄除けの祭り、伝統文化、地域社会などの観点から見るとそのような表面的な見方だけの批判は的はずれといわざるを得ません。子ども達は拾ったお金を特別なお金として大切に使い方を考えたと聞くきました。また、拾っている姿を見ていると、年長の者が年少の者に配慮しながら拾っている姿もありました。成功した人が地域に感謝の気持ちを示すというこうした姿勢をこの子ども達がまた継承していき、地域の維持発展につながることになると思います。

 今年は天気もよく、おししいうどんを食べ、「ぽかぽの湯」の温泉たまごを買って還りました。 
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大日たん-東光寺伝統の祭り

2013年02月13日 05時07分11秒 | Weblog
 2月11日(月)、建国記念の日には市内各所で伝統の祭りが行われました。加東市上久米の東光寺でも大日如来祭、通称大日たん(だいにったん)が行われました。
 大日ったんについて、「広報やしろ」第10号(昭和35年3月5日発行)では次のように紹介しています。

 「郷土の探究」(8)
 社町にも北播三大祭の一つとかぞえられるものに、上久米にある東光寺の恒例祭とされている「大日如来祭」がある。
 昔から牛馬の守り仏として有名で毎年二月二十八日には播州一円の農家が参拝し、境内せましと思わせる。この日北播一帯の青年有志大相撲が展開されるとともに参道に列をなす植木をはじめ農機具などの多くの露店は、まさに社町のなかでの最大の祭りでもあり、北播三大祭の一つでもある。

 かつて寺の南には、米田村役場、小学校、駐在所などがあったそうで、米田村の中心でした。祭りの日には参道に露店が立ち並び、参詣の人並みが続いたといいます。老人会の方が青年団員だった頃、自転車で訪れる人が多く、自転車預かりをやったと懐かしそうに話しておられました。
 今年は天気も良く、護摩焚きが始まるころには強い風が吹いて、もうもうと立ち上る煙がまるで龍が天に昇るように渦を巻きました。山伏による護摩焚きの作法は以下の通りに運ばれました。いよいよ火渡りです。今年も無病息災を願ってまだ火がいこるなかを素足で渡りました。なぜか熱くないのです。

東光寺大日法会
一、午後一時
   大般若経転読
一、午後二時
   大護摩
一、午後三時
   餅配り

日照山東光寺 護摩供養次第
一、法螺 三声
一、山伏問答
一、法弓作法
一、法剣作法
一、法斧作法
一、願文
一、点火
一、導師作法
一、古札供養
一、火生三昧(火渡り) 以上

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加東四国八十八ヶ所霊場-東光寺門前の道標

2013年02月12日 05時10分40秒 | Weblog
 2月11日、加東市上久米の東光寺では大日如来祭、通称大日たん(だいにったん)が盛大に行われました。この祭りでは寺の前の田圃で山伏による護摩焚きが行われ、参拝者が無病息災を願って火渡りをします。護摩焚きが始まると、寺の前の道にはそれを見守る参拝者で混み合います。ふと、足もとを見ると、道標が立っていました。毎年参拝しているのに今まで気がつきませんでした。
 道標には、「左 第廿四番 浄泉寺」「右 第廿五番 東光寺」と刻まれています。また、「大正七年四月建立 施主 当所 岸本繁三郎」と刻まれていました。大正時代に加東四国八十八ヶ所霊場巡りが復活し賑わった頃に建てられたものでしょう。今は東光寺の門前で静かに参拝者を迎えているようでした。
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諏訪八幡神社の石灯籠

2013年02月11日 06時01分12秒 | Weblog
 昨日紹介した加東市下三草(しもみくさ)の諏訪八幡神社の境内には、古い石灯籠があります。天明4年(1784)に建立されたもので、約230年前のことです。
 この諏訪八幡神社の創建年代は不明だということですが、戦国時代に上月という武士が戦に敗れ、信州の諏訪から諏訪大明神を背負って西国に下り、京街道を下って三草の下の東山に安置して土着した、という言い伝えがあると『上福田村誌』に記されています。
 
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下三草の諏訪八幡神社

2013年02月10日 05時11分16秒 | Weblog
 加東市下三草、国道372号線を北へ向かって走っていると、中国自動車のボックスを抜けてすぐの信号を過ぎた右手の山へ向かう参道があります。気をつけていないと通り過ぎてしまいます。そこに下三草の氏神様である諏訪八幡神社の石鳥居があり、階段を上っていくと木々に囲まれた境内が開けます。北側に本殿、拝殿、南側にまだ新しい建物があります。境内には古い石灯籠や石碑などがあり古さを感じさせてくれます。
 石灯籠には天明4年(1784)と刻まれており、今からおよそ230年も前の古いものでした。地区の皆さんによって整備が続けられ、大切に守られていることが感じられる境内でした。
 
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