ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

天皇皇后両陛下の奉迎

2006年09月30日 05時58分15秒 | Weblog
三木市に天皇皇后両陛下

 今日の午後、三木市の兵庫県広域防災センターをご覧になった天皇皇后両陛下の奉迎に参加してきました。

 兵庫県消防学校の正門前の道路の歩道には、地元の町内会の人々約100人が両陛下の奉迎をしました。人々の手には日の丸の小旗とカメラがありました。また、奉迎の人数と同じぐらいの警備の人が制服、私服で警戒にあたっていました。しかし、ものものしさはなく、女性警官と親しく話す和やかさがありました。

 消防学校正門からE-ディフェンスへ向かわれるとき、そして30分後にお戻りになるときの二度、私達の目の前を両陛下のお車がゆっくりと通り過ぎていきました。向きがそれぞれ反対方向になるので、天皇陛下、皇后陛下のお顔をごく間近で拝することができました。

 私が初めて今上陛下を拝したのは、小学生の頃、岡山県の日本原で開催されたボーイスカウト日本ジャンボリーに参加したときのことでした。キャンプサイト近くの道を当時皇太子殿下であられた今上陛下が車でお通りになったのです。敬礼をしてお迎えしたことを覚えています。
 学生時代を過ごした東京では、鉄道で地方に向かわれる際にお使いになる原宿駅の特別ホームに向かわれたり、お帰りになったときにお顔を拝する機会に恵まれました。

 奉迎をおえて帰ろうと車を走らせていると、山陽自動車道の三木東インター周辺で再び奉迎のために集まっている人々を見かけました。そのなかに知り合いの顔が一瞬見えたので、近くの田圃道に車を止め、私も奉迎の列に加わりました。
 地元の方が続々と集まってきて、奉迎ムードが高まる中、天皇旗をつけたお車がゆっくり通り過ぎていきました。一瞬のことなのですが、窓から手を振られる皇后陛下の優しいお顔に思わず「わあ、きれい」と叫ぶ女性らの歓声があがりました。

 天皇皇后両陛下の奉迎のようすは、テレビの皇室番組やニュースでみることがあります。しかし、自らが奉迎をするという体験は滅多にありません。のじぎく国体が開催されるというこの機会に、陛下を拝することができたのは嬉しいことでした。随行していた井戸知事の笑顔もなかなかよかったと思います。

 
   





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大正12年-太陽暦励行について

2006年09月28日 05時08分47秒 | Weblog
区長会で太陽暦励行を

 大正12年(1923)、社区の区長会で「陽暦励行」について協議されています。
 ところで、わが国で太陽暦が採用されたのは明治5年(1872)のことでした。この年の12月3日を明治6年の1月1日とし、昼夜12時制を1日24時間、1週7日制で日曜を休日とするなどに変えられました。しかし、農村では旧暦が併用されていました。
 さて、区長会では「来ル大正十三年ノ一月ヨリ一般ニ陽暦ヲ用ヒシムルコトニ最善ノ努力ヲ望ム」として、あらためて太陽暦にしたがって一般庶民の生活も改めていくようにと呼び掛けています。協議資料として、明治5年の太政官布告、太陽暦採用の詔書写もつけられています。

 さて、この協議の中で、「陽暦励行年中行事」が掲げられています。当時の年中行事をのぞいてみましょう。

1月
  1日
  2日  新年儀式    休業
  3日  
 10日  戎祭
 11日  伊勢講  (以下陽暦ニヨルコト)
 15日  飾リ掲ケ    休業
 16日  初集会
 19日  厄神祭
 21日  弘法大師縁日 (以下陽暦ニヨル)
2月
  節分(4日) 諸取引(最終日)
  立春(5日)   休業
 11日  紀元節  休業
 25日  天神祭
3月
 16日  祈年祭 湯祭
 初午(16日)
 彼岸中日(21日)春季皇霊祭
4月
  3日  神武天皇祭(雛祭節句) 休業
  8日  花祭
6月
  5日 (鯉幟立菖蒲節句) 休業
7月
  4日  山氏祭 さのぼり
 10日  祇園祭
 14日  愛宕祭
 25日  天神祭
 26日  稲荷祭
 29日  住吉祭
8月
  7日  七夕祭
 13日  諸取引(最終日)
 14日
 15日  盂蘭盆(休業)
 24日  後盆 地蔵祭(休業)
 31日  天長節
9月
  1日  八朔 若宮祭
 12日
 13日  大年当
 15日  八幡当
 彼岸中日 秋季皇霊祭
10月
  9日  氏神住吉神社例祭
 16日  氏神佐保神社例祭 休業
 17日  神嘗祭
 31日  天長節祝日 休業
11月
  亥ノ子 亥ノ日(4日、16日、28日)
 23日  新嘗祭
12月
 13日  出代リ
 23日  稲荷祭
 24日  社年の市

以上です。大正時代の頃の社の人々の一年の暮らしが見えてくるようです。
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彼岸花

2006年09月28日 04時21分44秒 | Weblog
鮮やかに秋に映える

 今年も彼岸花が咲きました。「今年は咲かへんのかなと心配しとったけど、彼岸になったらちゃんと咲きだした。なんか不思議やな」とお年寄りが語っていました。
 鮮やかな赤い花と刈り取られた田圃の藁の黄色、そして畦の草の緑が青く澄みきった秋空に映えていっそう美しく輝きます。
 ところで、この彼岸花は名前がたくさんあることでも知られています。曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、カジバナ、シビトバナ、ジゴクバナ、ハカバナ、ソウシキバナ・・・・研究者によれば、各地方の方言名は全部で1000以上あるそうです。
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上組太鼓の練習始まる

2006年09月27日 13時06分15秒 | Weblog
よーいとさのね・・・

 25日夜7時30分、上組太鼓藏では、保存会の若い衆(若鯱会)が屋台の飾り付けや乗り子の子ども達の指導にあたっていました。上組の太鼓の練習が始まったのです。
 若鯱会の若者は藏の二階で綱の飾り付けを、そして藏の前では、ベテランの会員が乗り子の小学生らに太鼓のたたき方を指導しています。今日は初日とあって、保護者の方も来られ、翔龍会(若鯱会のOB)の会員が丁寧に説明をしていました。
 こうして今日から来月14,15日の祭まで、毎晩藏では飾り付けと太鼓の練習が続きます。そのようすを待ちかねたように近所のお年寄りが孫を連れて見に来られました。
 太鼓は地域の伝統文化です。世代をこえて承け継がれる上組の太鼓屋台。「よーいとさのね」「そーれ」「どっこいせー、どっこいせー、どっこいせ」のかけ声と太鼓の音が秋の夜に響いていきます。
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上組-太鼓藏開き

2006年09月25日 05時49分17秒 | Weblog
担ぎ棒などを新調

 今日9月24日、平成18年の佐保神社秋祭(10月14.15日)に向けて社上組の太鼓屋台の藏開きが行われました。
 今年は担ぎ棒や柱などを新調する大きな修理を行い、先日完成して藏に納められたばかりで、今日の藏開きがいわばお披露目になりました。
 爽やかな秋晴れの下、新調された白木の担ぎ棒がまばゆいばかりに光っていました。神事が終わると、早速保存会の若者がてきぱきと太鼓屋台の飾り付けの作業に取り掛かりました。これからお祭りまで、毎晩太鼓の練習や飾り付けが行われます。このブログでもその過程を紹介していくつもりです。
 
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昭和12年-女学校で開催された学芸展覧会

2006年09月24日 06時07分05秒 | Weblog
展示会場の図

昭和12年(1937)、県立社高等女学校(社高等学校の前身)で開催された学芸展覧会の案内が手元にあります。内容は、次の通りです。

とき 2月27日(土)、28日(日)午前9時より午後4時迄

どなた様もぜひご覧下さい。お待ちいたします。

一、裁縫・手芸・バザー    (生徒作品)
二、習字・図画        (生徒作品)
三、博物・図芸        (生徒作品及参考品)
四、家事           (衣・食・住・看護・育児・衛生)
五、生花
六、四郡小学校 書方・図画
七、映画実験
八、食堂

 六の四郡小学校書方図画展はこの学芸展覧会に併設して展示されたようです。四郡とは、加東・加西・多可・美嚢の四郡のことでしょうか。

 案内図(写真)がつけられているので、女学校の校舎配置がよくわかります。
 昭和12年といえば、7月に盧溝橋事件が起こり、中国での戦争が拡大していった年でした。女学校らしい展覧会の内容ですが、なかでも四の「家事」は、内容が「衣・食・住・看護・育児・衛生」と、今の時代にも大切な生活の基本であることに変わりありません。タイムスリップして見学してみたくなりませんか。
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清水寺の思い出

2006年09月23日 05時02分10秒 | Weblog
大塔から瀬戸内の海を見た

 この写真を見て下さい。手前は御獄山の山頂にある清水寺の根本中堂です。その向こうの奥の階段の上に塔の屋根が写っています。これが清水寺の大塔です。今はもうありませんが、とても大きく立派な堂々とした塔でした。

 私が社小学校の5年か6年生の頃でした(昭和40年か41年頃)。夕方から父と一緒にバスで平木まで行き、暗くなってから清水寺に登りました。今のような自動車道はもちろんなく、懐中電灯で道を照らしながら歩いて登ったのです。
 途中で蹴躓いて転けそうになりました。石に蹴躓いたのだと思って電灯で照らすと、なんと見たこともない大きなヒキガエルがそこにいたのです。

 清水寺の宿坊に泊まりました。翌朝、小坊主さんに案内してもらって、大塔に登りました。大塔の二階からの景色は今でも鮮明に覚えています。山並みのずうっと向こうに朝日にきらきら光る海、瀬戸内海が見えました。

 境内の井戸のところで、井戸の木枠が壊れていました。「猪が落ちています」という小坊主さんの声におそるおそる近づいて中をのぞき込むと、小さなウリ子が数匹死んでいました。親の姿はありません。猪は親が先頭に立ち、ウリ子がそのあとを一直線に走っていたのでしょう。親が井戸に落ちると次々とウリ子も井戸の中に転落していったのです。しかし、ジャンプ力のある親は井戸の木枠を壊しながら脱出していったのです。悲しいかな、ウリ子を助けることはできなかったのです。

 清水寺の大塔は高野山金剛峯寺や根来寺の大塔とともに日本三大塔といわれていたそうです。清水寺は大正2年(1913)の全山大火事で堂塔伽藍ことごとく焼けてしましました。その後、次々と再建され、大塔も大正12年に再建されました。しかし、昭和40年(1965)に台風のために大きな被害を受け、さらに昭和48年には落雷を受けました。そして昭和50年には解体されました。

  
 
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昭和13年-国民精神総動員

2006年09月22日 10時09分06秒 | Weblog
約70年前の国民生活

 今から69年前の昭和12年(1937)、盧溝橋事件が起こり、日本と中国の間に戦争状態が始まりました。10月には国民精神総動員中央連盟が設立され、さらに翌13年4月には国家総動員法が公布され、わが国は戦時体制へと突入していきました。
 ここに13年7月1日付で、国民精神総動員中央連盟が出したビラがあります(写真はその一部)。内容は、「家庭報国三綱領」、「実践十三要目」の2つから成り立っています。その要点を拾い上げてみましょう。

家庭報国三綱領

 第一 健全なる家風の作興
 第二 適正なる生活の実行
 第三 皇民としての子女の養育

実践十三要目

一  毎朝 皇大神宮を拝し、高湿の御安泰をお祈り致しませう。
二  祝祭日には国旗を正しく掲げませう。
三  毎日神仏を礼拝し又長幼の礼を正しくし家族の和合に努めませう。
四  予算生活現金買天引貯金を励行し又進んで国債に応じませう。
五  服装は質素簡単を旨とし、髪容は徒らに外来の風を模倣することを避けませ   う。
六  婚礼葬儀その他の家庭的行事は質素厳粛に行ひませう。
七  朝寝夜更しの悪風を改め、時間の活用に努めませう。
八  金物、毛織物、木綿物、紙、燃料等を節約し、廃物及死蔵物の利用を図りま   せう。
九  火災その他の災害防止に努め、且つ空襲に備えませう。
十  児童の訓練と栄養とに注意し、心も体も丈夫に育てませう。
十一 徒歩を励行し毎日体操その他の運動を行ひ、心身の鍛練に努めませう。
十二 禁酒又は節酒を励行し未成年の禁酒禁煙を堅く守りませう。
十三 常に隣近所と相親しみ互に扶け合ひませう。

  昭和十三年七月一日

     国民精神総動員中央連盟
       ( 社 町 )


 印刷物の実践要目では、各項で解説がありますが、省略しました。挙げられている項目を今風に読み替えてみると、今でも大事なことは基本的にあまり変わらないように思います。
 ただ、時代の違いはあります。ビラに大きく書かれた「家は国の礎」という基本は、戦後は「家」が否定され、「個人が社会の基本」とでもいうように変化してしまいました。また、一、二、三には、天皇・皇室への尊崇、敬神崇祖、国旗の尊重などが掲げられていますが、こうした精神や態度も今では薄くなってしまいました。みなさんは、これを読んでみてどう思われますか?


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銃後の便り-2

2006年09月21日 05時52分01秒 | Weblog
小国民のふるさと便り

 昨日に続いて、「銃後の便り」に掲載されている「小国民より」と題した小学生から戦地の兵隊さんへの便りを掲載します。

        初等科第六学年一組    中嶋邦夫

 暑くも寒くもないこの季節。内地は、今、猫の子の手もかりたい程いそがしい稲刈の真最中。どこを歩いてもざっくざっくといふ稲を刈る音。この稲を刈る音が少し静かになり、稲をこく音が聞こえる時分は、我々少年団の世の中である。
 小さい少年少女戦士が鉄砲の替りに、「チョノガ」をもって出征兵士の家のかぶきりを手伝ひに行くのである。去年、かぶきりの手伝ひをしてあげると、百姓さんたちは非常に喜ばれた。其の喜ばれる顔が今でもまざまざと僕の心にきざみこまれている。
 ある日の朝、新聞がミシンの台の上にのせてあった。新聞を見ていると、父が起きてきて「新聞を持って来なさい」と言はれた。だが僕は持って行かなかった。父がもう一度「お前は新聞がきらいぢゃないか」「すきだ」「ほー、何時の間にすきになったのかな」と不思議がられたことをおぼえている。
 それはそうだ。此の頃の新聞は我が無敵陸軍がどこを占領したとか、海軍が何々海戦で戦艦や巡洋艦を何隻撃沈したとかいふ痛快な記事が記してあるからです。此の新聞によって戦線の様子がわかるのである。
 戦線はよいが銃後はどうであろうか。我々銃後国民は銃後奉公の誓をよく守り、物を大切にし、進んで貯蓄をし、この国難に勝ち抜ける体をねり鍛へ、戦線も銃後も一致して、ますます日本の国威を全世界へ記しませう。
 どうか銃後は御心配なく。御身を大切に。さようなら。


 この便り(作文)を書いた中嶋邦夫さんがご健在なら、70歳代半ばに達しておられるはず。稲刈りの頃に小学生がチョノガを持って手の足りない家をまわってかぶきりの奉仕作業をしていたことを知りました。今の子ども達は田圃に行って稲刈りさへすることもほとんどありません。自然体験が不足している子どもたちのためにさまざまな体験イベントが企画され、子ども達はわざわざそこに参加して川遊び、山遊び、そして田圃仕事を体験するようになっています。
 時代が違えば子ども達の生活や意識もこんなに違ってしまうのかと思ってしまいますね。

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銃後の守り-小国民のふるさとだより

2006年09月20日 06時05分59秒 | Weblog
「銃後の便り」-社町銃後奉公会- 昭和17年10月

 昭和17年に発行された「銃後の便り 十月」社町銃後奉公会、なる印刷物が手元にあります。大東亜戦争開戦後1年近く経った頃のものです。わら半紙に青インクの謄写版印刷されたもので、B4判紙を2つ折りして5ページに仕立ててあります。小さなガリ版硬筆文字がびっしり書き込まれています。
 記事の見出しを拾ってみましょう。

○感激            会長
○小国民より         初等科3年男子、6年男子
○産業組合の概況       社信用販売購買利用組合
○社区銃後団の活動
○町の近況
 ・役場日誌ヨリ
 ・十月の町常会
 ・今秋靖国神社合祀者
 ・米ノ収穫予想
 ・国民貯蓄表彰
 ・社町ノ人口動態
 ・金属回収
 ・町内伝染病
 ・県立嬉野学徒錬成場
 ・今年徴集ノ現役兵
 ・
○俳句
○団体の動き
 ・在郷軍人分会
 ・青年団
 ・社町壮年団
 ・社町嚢会
 ・社町商工会
○国民学校便り
○社町授産場
○後記

 以上です。今日は、このうち、「小国民より」(小学生から兵隊さんへの便り)を紹介します。

                     初等科第三学年  松本陽平

 兵隊さんお元気ですか。長い間暑い時も、また寒いときも一生けんめい勝ちぬいて下さいまして、まことにありがとうございます。
 こちらもみんな、秋の取りいれに毎日毎日、働いております。ぼくも、お父さんの手つだひをしております。穂は一面こがね色になって、ほんとうにきれいです。それを刈り取るのは大へんおもしろく、また、楽しいものです。たんぼへ、おべんたうを持って行き、たんぼのあぜで食べます時は、なんともいへぬおいしいものです。
 町の東方の山のひら地(嬉野)にグライダー場が出来まして、あちこちの中学生や青年がかはるがはる来てけいこをしています。ぼくも大きくなったら、海のあらわしになってうんとお国のためにつくすつもりです。
 兵隊さんごくろうさんですが、なんでも戦争に勝って下さい。僕のお願ひです。寒くなりますから、体を大切にして下さい。


 この「銃後の便り」を戦地の兵隊さんはどんな思いで読んだのだろうかと考えながら打ち込みました。最近の若者の中には60余年前に日本がアメリカをはじめイギリスや中国などを相手に戦争をしたことさえ知らない人がいる、ということが報じられています。まして、「銃後」という言葉など知るよしもないかもしれません。



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兵庫陶芸美術館に行ってきました

2006年09月18日 17時50分23秒 | Weblog
特別展 「人間国宝 松井康成の全貌」

 立杭といえば、日本六古窯の一つに数えられる丹波立杭焼の里で知られています。合併によって今では、篠山市今田町となっています。

 さて、この立杭に県立の兵庫陶芸美術館があります。去年の10月にオープンしたとのことですが、この9月に初めて友人に誘われて訪れました。
 そして、今日、再び今度は妻と二人で行ってきました。その施設の素晴らしさもさることながら、特別展「人間国宝 松井康成の全貌」に感銘を受けたからです。

 立杭には学校の遠足や陶芸体験学習などで「陶の里」に何度か訪れたことがあるのですが、その隣りに美術館ができたらしいということは聞いていましたが、こんなに素晴らしいものだとはまったく知りませんでした。

 陶芸に詳しい方、関心をお持ちの方はご存知だったでしょうが、私は松井康成という名前も、「練上」(ねりあげ)という技法も今回初めて知りました。
 その作品の前に立ったとき、焼物とは、ろくろを回して作ったものという私の持っている浅薄な陶芸の知識では、どう考えても理解出来ないそれらの美しい文様や表面の状態に混乱し、或いはそれを理解しようと作業工程を必死で考えていました。
 幸い、展示室の廊下で松井さんが粘土を練り上げる過程がビデオ放映されていたので基本的な工程ぐらいは理解出来ました。しかし、色の具合、焼きの具合等、あまりに想像を超える作品ばかりで、ただただ圧倒され、引き込まれるばかりでした。

 美術館には、研修施設やレストラン、茶室、ショップなどもあり、なかでも傾斜を利用したオープンデッキは広々としていて、京都の清水寺の舞台を思わせます。レストランの方が、向かいの山を見ながら、もう少し秋が深まったら紅葉が美しいですよ、と案内してくれました。これはもう一度来たくなってしまいました。

 播磨と丹波の国境に加東市と篠山市が接しています。社から車で30分かからない距離のところに全国的に見ても高水準の陶芸美術館があることが意外に知られていないのではないでしょうか。それとも私が知らなかっただけでしょうか。いずれにせよ、ぜひ、これから深まっていく秋にこの兵庫陶芸美術館に足を運んでみられてはいかがでしょう。
 
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硬貨もお国のために・・・

2006年09月17日 04時22分37秒 | Weblog
硬貨の引換で戦争を勝ち抜く!

 またもや一枚のビラを紹介しましょう。昭和17年末に出されたものですが、軍需資材の確保のために、政府は銅やアルミなどの金属でつくられた硬貨を回収しようとしたものです。
 ビラは、銅貨、白銅貨、ニッケル貨の引換えを呼び掛けています。方法は硬貨を銀行などに持って行き、紙幣と引き換えるというものです。供出者には手数料が支払われます。
 当時流通していた硬貨だけではなく、いわゆる古銭も引き換えられました。
例えば、寛永通宝四文銭は2厘、天保通宝は1銭、一円銀貨は1円などとなっています。

 戦争の時代にはこうして軍需資材として金属が回収され、現代では環境保護のためにアルミが回収される・・・。
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昭和18年-貯蓄で勝利をめざせ!

2006年09月16日 06時55分40秒 | Weblog
270億貯蓄総進軍-加東郡北部大会のビラより

 昭和18年7月15日、「270億貯蓄総進軍加東郡北部大会」が開かれました。その時のビラがあります。(写真)
 表は加東地方事務所長から加東郡民への呼び掛けが、表はスローガンと隣保回覧認印欄が印刷されています。

 17年6月にはミッドウェー海戦で敗れ、18年にはガダルカナル島を撤退、アッツ島の守備隊が全滅するなど、戦局は苦しくなっていた頃です。
 ビラには「貯蓄なくして勝利なし」「先づ貯蓄の増加」のスローガンも書かれています。裏の文を紹介しましょう。


米英撃滅

わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄(くろがね)の艦(ふね)となり
  南海の敵を撃つ。
わが積みしそこばくの金
  けふも銀翼となり
  大東亜の空に飛び立つ
撃ちてし止まむ
  この暮しなほゆとりあり
  否 ゆとりなくとも

 小さな節約が大きな戦力に!

日本の大人が一人一反の衣料を節約すれば?

爆撃機なれば   500機
戦車なれば   5290台
野砲弾なれば  3473万発
木造船なれば   770隻

となります。

と、戦費の調達、生産力の増強のために国民挙げて貯蓄目標を達成するように呼び掛けています。国の目標が270億円、兵庫県が17億円、そして加東郡の目標は1465万円となっています。これは一戸平均で1308円になると書いてあります。現在の貨幣価値に換算するといくらになるのでしょうか。

 60余年前の日本の緊迫した雰囲気が伝わってきます。
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八志路幼稚園

2006年09月15日 04時51分17秒 | Weblog
八志路幼稚園

 八志路幼稚園は大正時代に設立され、昭和53年まで続いた清水寺の経営する私立幼稚園です。
 この写真は昭和前期の頃のもので、今はない懐かしい園舎が写っています。
 幼稚園があった場所は、田町から社小学校へと延びる学校道の中間点あたりを少し東に入ったところで、現在はその跡地には4階建てのマンションになっています。
 八志路幼稚園は、大正3年(1914)、社町有志が御大典記念事業として創立したものだそうです。はじめは三階旅館を借りて園舎とし、佐保神社の境内を遊び場として始まったのだということです。写真の園舎が上町に建築されたのは、大正7年のことでした。
 私は社保育園に行きましたが、家から八志路幼稚園が田圃ごしに見える場所にあり、夏には蝉取りなどによく遊びに行ったことをおぼえています。
 大学を卒業して社に帰ってきてすぐの頃だったでしょうか。火事が起きて園舎が燃えたことも記憶に残っています。



 
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道池の道標

2006年09月14日 06時15分02秒 | Weblog
今は地蔵さんの門柱

 社の田町通りの東端にある法蓮寺のすぐ東隣に道池地蔵尊があります。その門柱をよく見ると道標であることがわかります。
 「左 きよみず道」「右 大さかみち」と刻まれています。高さは1メートル余りのこの道標は、もとは道池があったころ、田町から道池の土手に上がり、道が分かれるところに立てられていたということです。
 左に行けば、木梨から三草、鴨川を経て京都方面に通じる京街道へ。そして右に行けば、土手にそって中三昧の墓地を抜け、大阪方面に通じる大阪街道へとつながっていたのでしょう。
  
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