電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【朝の曳航】
【朝の曳航】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 9 日の日記再掲)
平日に仕事を休んでの介護帰省が増えてきた。
車窓の景色を見ていると、大きくて即座に名前が言えるような川で竿を振る釣り人を見かけるのは当然のこととして、ごく小さな川でちょっとした気楽な釣りを楽しんでいる高齢者を見かけることがあってとても羨ましい。
朝の下り電車に乗り、東京では義父がデイサービスセンターに出掛ける時刻だなぁと思うとき、地方都市で暮らす人々にとって、身近な川はその地域が自然に備えるデイサービスセンターなのかもしれないと思ったりする。
マイクロバスによる送迎を受けるまでもなく、長靴を履き、麦わら帽子をかぶり、老妻が作ってくれたにぎり飯を持ち、竿を担いで、川に誘われるようにして岸辺に舫(もや)われる高齢者を想像して微笑ましい。なんと豊かな人生の余剰だろう。
郷里静岡県清水を流れる巴川沿いを歩くと、朝から竿を振る人の姿が見られ、それは毎日が日曜日となった年代の人であることが多く、ここもまた地域のデイサービスセンターになっている。
巴川は都市河川としては水質浄化が進んでいるように思い、それでもこの川で釣ったボラなどは食べられたものではない気がしてしまうが、清水港ではテロ対策とやらで、格好の釣り場になっていた港の岸壁への立ち入りが制限されていると聞く。その影響で巴川の釣り人が増えたのか、浄化が進んだ巴川が釣り場として見直されてきたのか、真相は分からないが帰省の度に釣り人の姿が目に付く。
巴川に架かる橋の上から見下ろすと、呆れるほどたくさんのボラが群れ泳ぎ、かつて「食べられっこないじゃん」などと言いながら橋上でボラ釣りをしている人を見たので、てっきり釣る手応えを楽しむことだけを目的にした遊びのボラ釣りかと思っていた。
巴川沿いを柳橋方面に向かって歩いていたら盛んに竿をしならせている釣り上手がいて、何が釣れているのかと足元のバケツを覗き込んだら形の良いハゼがたくさん釣れていた。
地元で暮らす人々にとっては周知の事実かもしれないが、柳橋あたりの巴川でハゼが釣れるとは知らなかったので驚き、東京で過ごした小学生時代、今東京ディズニーランドになっているあたりで、母の勤め先の社員旅行に同行してハゼ釣りをしたことを思い出す。
あの当時も、そして今ももちろん東京湾の汚れ方はひどく、それでもハゼやキスを釣って大喜びで食べていたりするわけで、それに比べたら驚くほどきれいな巴川でのハゼ釣りは、趣味と実益を兼ねているのかもしれないと、天ぷらにしたら美味しそうなハゼを見て思う。
写真小:稚児橋近く、旧東海道沿い。清水入江町『ヘアカットサロンヤマグチ』さん店頭のMorning Glory=朝の栄光=アサガオ(10月7日、午前8時22分)。
写真大:巴川製紙沿いの川辺に舫われた釣り人(10月7日、午前8時27分)。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]
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【駅弁は死なず】
【駅弁は死なず】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 8 日の日記再掲)
わが母の世代だと「他人や制度の世話になるなんてごめんだ」などと考えて生きてきた人が多いのではないだろうか。
母は少女時代から片肺であり、貧しい母子家庭だった僕の小学生時代には、障害者手帳をもらって生活保護を受けろと勧める人もあったけれど、「他人や制度の世話になりたくない、なんとか働いて自力でこの子を育てる」と答えるのが母の口癖だった。当時は被支援者に後ろ指をさすなどという世間の風潮もあったようだけれど、だからといって支援を頑なに拒むというのも今思えば差別を生む構造という面から見れば同根のような気がする。
大病を抱えて一人暮らしを再開するにあたって息子がつけた条件は、他人や制度の世話になりながら上手にひとり暮らしすること、だったのだけれど、勝手気ままな暮らしの中へ自分の気に入らない他人や制度に踏み込まれたくない人なので、口で言うほどそれは容易ではなかった。誰の世話にもならずに運命を恨んで死んで行くと言い張る様子には鬼気迫るものがあった。
いよいよあの世行きかという先週末のどたばたを契機にして、医師と看護師の定期的訪問看護やヘルパーさんの訪問を大幅に強化し、大型介護機器も入れられ、大量の支援が導入されてみると、その快適さにころっと感動している母であり、
「息子さんが帰ってきてくれて元気になれて良かったね」
などと声をかけられ、
「いいえ、みんなが良くしてくれるおかげです」
などと答えている。結果的に、雨降って地固まる、だったと思う。
「もう助けを求めるコツはわかったから大丈夫」
と言い、
「明日の朝 9:02 清水駅発の東海 2 号で東京に戻って仕事をしろ」
などと他人を仕切るようにまでなり、それは母が元気な証拠なので、指示に従って指定の列車に乗る。
小学生時代、清水駅から列車に乗るときは駅前にある『やすい軒』の駅弁を買って食べるのが楽しみだった。
その当時から郷土愛に燃える少年だったので、「静岡駅東海軒の駅弁より、清水駅やすい軒の駅弁の方が美味い」などと言いふらしたりしていたものだった(今もネット上で同じようなことをしている)。
2 時間 10 分の列車の旅なのに東海 2 号には車内販売もないので、駅弁でも買おうと思ったけれど見あたらない。
「(そうか、清水は駅弁もないローカル駅になっちゃったんだなぁ)」と心寂しく、改札脇の売店で缶ビールを買い、サンドイッチを手にとり「(清水で作ってるのかな)」と裏をみたら製造場所は京都だった。京都で作ったサンドイッチが清水の朝食用に並ぶのであり、すごい時代になったものだ。
サンドイッチを棚に戻しておにぎりの隣をみたら小さな折り詰めがあり、なんと清水江尻東『末広鮨』謹製の桜エビ寿司だった。可愛らしい汽車の絵が描かれ名前は NOZOMI(のぞみ)という。清水から駅弁文化のともしびが消えていなかったことに感謝し、しみじみと感動する。
先日の帰省では東海1号の海側に座ったので、今回は内陸側に座ってみたが、民家の軒先をかすめるように進む朝の列車の旅は、民の竈から立ち上る煙を眺めるような旅である。
「(そうだよ、人間は助け合って生きなくちゃ)」と心の中でつぶやきながら、おいしい清水の桜エビ寿司を食べつつ由比の町を通過する。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]
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【清水富岳百景】
【清水富岳百景】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 6 日の日記再掲)
定年退職後は自宅にいて働く奥様の銃後の備えとなり、主夫業に専念している編集者の友人がいるが、母の世話をしてみて主夫業というのもやりごたえのある仕事なんだなぁとつくづく思う。
昨夜は清水美濃輪町の友人からいただいた鯛を塩焼きにして大好評であり、その中骨に身の残ったものをとっておいてだしをとり、今朝は鯛雑炊にしたら美味しいと好評で、母は茶碗一杯を完食した。
母は風呂とトイレは自立しているので助かるが、愛犬イビが風呂もトイレも要介護なので、シモの始末が一苦労であり母とイビをあわせて一人の老人と見なして介護認定の度数もあげてくれればなぁと思う。ペット用介護保険なんていうのはどうだろう。
食事を終え、台所の洗い物を済ませ、湯たんぽの湯を交換し、枕元の水筒にほうじ茶を満たし、洗濯物をしつつシャワーを浴び、二階ベランダに洗濯物を干し、家中のゴミをまとめゴミ出しにでる。
今日は清水のゴミ収集日である。
町内かなり細かく収集場所があり、それが隣組という単位になっている。隣組の組長が何年ぶりかで回ってくるのだが、その組長役の最中に母はガンで倒れて清水を離れることになり、謝して組長を辞するまでが大変だった。
「ガンでもがんばって隣組の役目を果たしている者だっている」と抗議され、母は「自分は末期なのだ、もって半年と言われたのだ」と説得するが、「元気そうに自転車に乗っていたではないか」などと言われたりして辛かったらしい。
再び清水に戻るに当たって町内会長をお訪ねして話を聞いたが、
「まぁ、隣組ってのは強制的に入らなくちゃならないわけではないけど、ゴミのこととかあるもんでね……」
などという話になる。日本中どこでもそうだけれど、ゴミの分別収集のルール遵守は厳しく、隣組もそのしばりのひとつになっているし、収集後の片づけなども隣組で行う。隣組の仕事というのも聞いてみるといろいろあって大変だ。
隣組の方々の顔もよく知らないので、回覧板が届くと「こんにちは~」と大声で挨拶し家の中まで挨拶して入って自己紹介してみるが、高齢だったり病気を持たれているような方が多く、どの家庭も大変なんだなぁと思う。助け合うというより、足を引っ張り合い、牽制し、叱咤しながらひとかたまりとなり、歯を食いしばって生きることによって保たれるものこそが、富士山のような心(どんな心だ?)で見れば良い意味で小さな地域社会の本質なのかもしれないと思ったりする。
ゴミを出し終えて空を見上げると抜けるような青空なので、入江岡跨線橋まで上ってみる。
清水駅の向こうに遠くの山並みが美しい。心まで洗われるような、僕の『清水富岳百景』のひとつである。静岡駅入江岡ホームに新静岡行きの列車が入り、ファインダ越しに「行ってらっしゃい」と見知らぬ乗客に声をかけて主夫業に戻る。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]
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【月曜日の時計】
【月曜日の時計】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 5 日の日記再掲)
月曜日午前 9 時ちょっと前、実家に電話して母の生存を確かめ、午前9時半過ぎ、郷里にある看護・介護ステーションに電話してケアマネージャに緊急の訪問看護・介護をお願いする。
午前 10 時過ぎ、部屋の中で寝ていた母をかかりつけの医院に運んで点滴中だとの電話がケアマネージャから入ってひと安心。母に確認したら本人の意志は入院せずにあくまで在宅なので、これから毎日医師と看護師が訪問して看護する手はずを整え、できる限りの手段を講じて手助けをするけれど、これからは寝ている時間の重要性が増すので手始めに介護用の電動ベッドを入れたらどうかという話になり、是非お願いしたいと答える。
今週は仕事を休んで郷里清水に長期滞在で介護をすると宣言したので、得意先や友人にメールを書き、納品すべきものの手配を済ませ、大学病院までタクシーを走らせ、午後一番で難病の検査入院のため上京する郷里の従妹に付き添い、入院即始まった検査に立ち会う。
一刻も早く家族と話したいという医師の話を廊下で聞き、叔母が気を失うように倒れ、ナースステーション脇で看護師の応急処置を受ける。「老いたりとはいえ叔母さんはまだ一家の太陽なのだから、家族の真ん中で一番希望を持って生きる人じゃなきゃだめだ」と体をさすりながら話しかけていたら泣きたくなった。両親の不仲、両親の勤め先の倒産、貧しい暮らしの中、小学校入学間際になっても学用品もそろわなかった僕に、希望を持って生きろと励ましてくれた叔母なのだ。
午後4時、郷里にとんぼ返りする従弟と叔父夫妻の車に同乗して東名高速を清水に向かう。湾岸方面の首都高から東名に入るのは初めてであり激動の一日の閉幕に見る美しい夕景が胸にしみる。激しい雨の中、実家に帰り着いたら午後 7 時ちょうどになっていた。
部屋の明かりもつけずに寝ていた母だが、明かりをつけてみると真新しい立派な介護用ベッドに寝ていて驚く。食卓には見事な介護食も用意され、ヘルパーさんたちがやってきてあり合わせの材料も使ってあっという間に用意してくれたのだという。食器も料理道具もどうして在処がわかるのだろうと感心したという。
それでも食事に手をつけておらず、「食べよう、少しでも食べないと体力がもたないよ」と声をかけると「食べられないだよ…」と泣かれて逆効果なので、ベッド脇に座り一人缶ビールを 3 本取り出し、叔母がサービスエリアで買ってくれた甘くて大きなメロンパン 2 個を食べながら平らげ、自分の健康さに感謝しつつ、飲食の喜びをデモンストレーションする。秋葉原駅前の実演販売みたいだ。
豪放な健康さのオーラが達したのか、「お母さんもご飯を食べて薬を飲むよ」と電動ベッドの背もたれを器用に操作して起き出す母は、介護ベッドのコマーシャルで「パラマうんと元気」になっている老人タレントのようであり、これはまだまだ生きられるな、と確信する。
激動の一日が終わり、夜が更けるにつれ雨脚も強まり、それぞれの人間が目を閉じる深夜となる。そこにあるのは安堵であったり、絶望であったり、虚無感であったり、徒労感であったりし、生きられる残された時間を計るために時計があるなら、きっとそれぞれに回転する速さが違っている。
夜が明け、母はしっかり食事を取り、ケアマネージャの訪問を受け、叔父の見舞いを受け、医師と看護師の訪問看護を受け、大分調子が出て来た。清水は終日雨であり、革靴では外出もままならない。母の友人の久保山さんは頻繁に母を見舞ってくれるが、親戚でもないのに同じ苗字なので靴は入江商店会の「クボヤマ靴店」と決めているという。よい話に感動したので「しみずフードセンター」に買い物に出たついでにスニーカーを一足買ってみた。「すぐに履くですか」と聞くので「はい」と答えたら箱を捨ててくれた。清水のゴミ事情に通じたサービスが暖かい。
「クボヤマ靴店」向かいの「いちろんさんのでっころぼう」さん店頭にはいかにも地元農家が栽培したらしい鄙びていて滋味のありそうな野菜や果実が並んでいて楽しい。手前は「極早生」奥は「ぬき柿」。
[Data:MINOLTA DiMAGE X20]
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【再度往復】
【再度往復】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 4 日の日記再掲)
残暑もおさまり、めっきり秋らしくなり、清水総合運動場近くの日曜朝市も再開されると聞き、自転車に乗って行ってみたいなどと母が言い出してびっくりしたが、残念ながら激しい雨の朝である。
雨音に混じって携帯電話の呼び出し音が鳴り、同じ屋根の下、母の携帯からの着信であり、湯たんぽのお湯を替えて欲しいという。母の調子がひどく悪く、もう駄目だと思ったら自分で救急車を呼んで入院する、でもいざという時まで入院はしたくないと言い、
「わかった、東京に戻って仕事の手配をしてすぐに戻るからそれまで頑張って」
と言って、後ろ髪を引かれつつリュックを背負って雨の街に出る。
休日の上り東海号は2号が8:54発、4号が17:23発であり乗るなら4号だが、その発車時刻と所要時間が切なくて静岡まで出て新幹線ひかり号に乗る。首に紐を付けてでも無理矢理緊急入院させる選択肢もあるが、それが最も母の嫌う事であり、それが嫌だから最も自己責任の重いひとり暮らしを選んだのだ……と自分の心に言い聞かせて列車に乗り込む。ともかくこれが最も手っ取り早く東京に戻る手段であり、これしかないと諦めがつくという点で、新幹線は哀しく合理的で便利である。
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清水南岡町4丁目。次郎長通りから矢通りを抜け旧久能道との丁字路に向かって緩やかな坂を上ると、右手に森富商店という駄菓子屋がある。
美濃輪町の魚屋で買い物をした帰りに必ず店の前を通るのだが、そのまま店舗ごと博物館に収めたいほどに昭和正統派の佇まいを残した店である。
幼い頃から、東京の駄菓子屋と清水の駄菓子屋で売られている商品の違いを興味深く思っていた。紙にニッキを塗りつけたものをしゃぶるなどという奇妙なお菓子も清水っ子同士では懐かしく思い出話に花が咲くが、他地域の友人に話すと大笑いされたりする。
清水では紙芝居のおじさんが持ってくる当てものなども変わっていて、麦藁の中にジュースの粉を詰めて固めてあり、固まった粉末ジュース棒の周りの藁を丁寧に剥がし、折らずに取り出すと賞品が貰えたりした。東京だと粉末ジュースを固めた板を買い、彫刻刀で丸い穴を掘り、割らずに穴を開けて持っていくとその穴を通ったコインが貰えたりし、最も高額だったのは当時最も直径の大きかった50円玉だった。
駄菓子屋店頭にいるとそんな思い出が次々に甦り、新たな興味がどんどん湧いてきて、時の経つのも忘れてしまう。麩菓子につけられた『梅ぼく』の名の由来は何なのだろう、『ビニールふうせん』30 円はわかるけれど、50 円の『水ふうせん』というのはどういうものなのだろう。懐かしい『クッピーラムネ』のとなりにある『パンチガム』100 円というのは何だろう。『鈴当て』とか『スーパーボール』の当てものがあり「当たり券を持ち帰ると無効です」という注意書きがあるのが面白い。昭和の時代にも見た注意書きである。
天気が良くて、朝市が開催され、母も自転車に乗れれば、必ず通ったはずの道であり、二人でこの駄菓子屋を覗いてみようかと思ったりしていたのだ。
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夜が明け、母の入院していた東京の大学病院に、難病になった清水の従妹が入院するのに付き添い、検査に入るのを見届けたら再び清水に戻る。一部仕事も断ったし、やりかけの仕事も持っての長期滞在になりそうである。
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【特急東海1号】
【特急東海1号】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 3 日の日記再掲)
久しぶりに東京発清水行きの電車に乗って帰省してみた。
JR東海道在来線を走る特急東海1号は、東京駅 7:18 発清水駅 9:28 着であり、東京・静岡間を新幹線こだま号で移動する所要時間の倍くらいかかるけれど、新幹線で静岡駅に着き、東海道在来線に乗り継ぎ清水まで上り方向へ引き返すための時間を入れると意外にも 30 分くらい遅いだけである。
東京駅を発車し、多摩川の鉄橋を渡ると鉄道マニアが土手にずらりとカメラを並べて撮影中であり、「(そうか、彼らはこんなに朝早くからやってきてわが特急東海1号の雄姿を撮りたいのか)」と嬉しくなったけれど、実家についてテレビをつけたら、この日は特急つばめの復刻版が東海道を走ったらしい。
幼い頃の東海道線の旅で楽しみにしており、今でも思い出として印象的なのは、国府津を出て熱海に至るまで相模湾に面した海岸線を走る区間であり、根府川とか早川とかの駅名を聞いただけで胸にぐっとくる。
車窓をかすめる海の風景は昔と変わらないし、変わりようがないほど東海道在来線のこの区間は難所のままである。輝く海が美しく、沖の漁船は時の流れが止まって沖合に釘付けになっているかのように、幼い頃の思い出と寸分違わない場所にある。
丹那トンネルも昔はもっと長かったような気がするけれど、トンネルが伸縮するはずもないわけで、当時乗っていた東海道線はせいぜい準急だったので特急が早い分そう感じるのかもしれない。あっという間に函南に出る。
三島、沼津のプラットホームには、懐かしい昭和の旅愁がまだ残っていて、停車時間が 10 分くらいあれば、おでんで生ビールでも飲みたくなるし、ホームにある年代物の鏡付き流し場では、蒸気機関やディーゼルエンジンの煤煙で顔をすすけさせての旅ではなくなったが、それでも顔を洗ってさっぱりしたくなる。
蒲原・由比・興津と進むともう一つの難所があり、列車は再び海岸線を進む。徒歩で旅した時代には親不知子不知(おやしらすこしらず)と呼ばれたこともあり、今でも東名高速を清水方面に走行すると、高波の時には速度制限が実施され、波しぶきがフロントガラスにかかることもある。
幸か不幸か沖合側に東名高速道路や国道一号線バイパスが作られ、たくさんのテトラポッドも積まれてしまったので海が遠くなったけれど、かつては東海道本線をゆく車両の窓に波しぶきがとどくこともあり、通過するのが家庭の事情により決まって夕暮れだったりしたので、清水への厳しくも劇的な空間をゆく花道となっていた。
清水駅ホームに直接特急列車から降り立つというのはちょっと晴れがましく、早朝であるのも清々しい。清々しいので駅前銀座商店街アーケードに入り、商店街会長の友人に「おはよう」の挨拶をしようと思ったらシャッターが降りていた。「おはようございます!」と特急東海1号を歓迎する横断幕を張って東京から客を呼ぶくらいの気概がないと、脱旧静岡市を達成しての地域発展は難しいと言ってやりたい。なにしろ駅から 5 分歩けば黒鯛が釣れる町なのである。
東京発清水行きはいい。
新幹線だと東京静岡間の乗車券を買わされてしまい、在来線なら清水で途中下車もできるところを静岡駅まで連れて行かれてしまい、その上、清水まで引き返すのに在来線の追加料金を取られるのである。これはおかしい。清水で降りたいのに鉄道会社の都合で清水を通過するわけで、「金返せ!」「ここで降ろせ!」と暴れたいところを、穏和な清水っ子は耐えているのであり、30 分ちょっと清水駅到着が遅いだけで屈辱的な不条理に屈することもなく、筋の通った帰省ができる特急東海号を極力利用しようと、あの世の次郎長さんに誓う。
写真小上:東京駅ホーム乗車駅と多摩川鉄橋わきの鉄道マニア。
写真大上:相模湾。
写真大下:沼津駅ホームと興津近くの海岸線。
写真小下:9:28に降り立った清水駅ホームと乗ってきた列車。
[Data:KONIKA MINOLTA DiMAGE Xg]
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