電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【西日の似合う季節】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 10 月 4 日の日記再掲)
久能海岸から久能山東照宮の石段に向かう道の右側に徳音院という小さな寺がある。
東京都台東区谷中に観音寺という寺があり、寺の周囲には土を盛り上げて塀にし屋根を葺いたいわゆる築地塀(ついじべい)があるのだけれど、土を盛るときに間に古い屋根瓦を重層的に挟み込んでおり、そういう塀を瓦塀(かわらべい)という。京都だと大徳寺、天竜寺などの禅寺の土塀にこの形式が見られるらしい。
瓦塀というのはたいそう美しく、谷中の観音寺の瓦塀前は時代劇撮影の背景に使われることが多く、テレビを見ていると呆れるほど頻繁に出てくるので笑ってしまう。
久能山徳音院前にも見事な瓦塀があるけれど痛みが激しく、このまま放置したらいずれは土に還ってしまうのではないかと心配になる。
谷中の観音寺もそうだけれど瓦塀というのは寺院が移転などで取り壊された際に屋根瓦を捨てずに再利用したものであることが多く、久能山徳音院の瓦塀はどこから持ってきたのだろうかと気になった。
境内に徳川の紋が用いられた小さな本堂がありそこに縁起が書かれていた。
なんと徳音院の開祖は家康以来三代将軍に仕えた南光坊天海(慈顔大師)なのだという。天海という人は仰天するほど長生きで生年が 1536 年で没年が 1643 年というから 100 歳以上( 108 歳で入寂説が有力)も生きたことになる。隆慶一郎の『影武者徳川家康』では天海は明智光秀だったことになっており、「天海=光秀説」というのは江戸時代からあり、非常に謎の多い人物である。
Data:RICOH Caplio R1
天海創建による久能山徳音院は江戸時代にはたいそう栄えたらしい。それがどうしてこんなに寂れてしまったのだろうと縁起を読んでいたらこんな風に書かれていた。
「家光の代には久能山にも社殿及び寺院ができ、徳音院はその学頭として江戸時代は栄えておりました。ところが明治になって山上の寺院は取り壊されて、麓の徳音院だけが元三、慈眼両大師堂として残されました」
瓦塀の瓦は取り壊された山上の寺院のものかもしれなくて、何とも無念の思いが込められているようなすっきりしない文章である。
***
清水の街を歩いているとあちらこちらに彼岸花の赤が目に痛い季節である。
入院した母を静岡県立総合病院に見舞う道すがら、駿府城のお堀端に真っ赤な彼岸花が咲いているのを見て溜息をついたのが 2003 年の秋であり、県立静岡がんセンターに母を連れて行く自動車を借りるため宮加三に向かう柳宮通り大橋川端で彼岸花を見たのが 2004 年の秋である。
そして 2005 年の秋が来て、母の骨を納める墓が出来上がったので清水大内の保蟹寺に見に行ったら墓地の脇にも彼岸花が咲いていた。
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美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に向かうため、柳宮通りを歩いていたら梅田町の商家店先に貼り紙があった。
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「長い間氷を買っていただきありがとうございました」
閉店の挨拶というのは切ないものだけれど、この最初のひと言に万感の思いが込められているようで胸に迫るものがある。
西日が眩しくて夕暮れに気づくようになり、ちょっとしたことで胸と目頭が熱くなる、困った季節の始まりである。
【清水駅】
清水駅は見事に真西に向いている。
興津を発車した東海道線は袖師を過ぎるあたりまで南西に走り藍染川を渡ったところで左にカーブし真南に進路を変えて清水駅ホームに入線する。
エスカレーターを上って清水を立ち去る者は背中に、エスカレーターを下って清水に帰ってきた者は真正面に西日を受ける季節になった。
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10 月 1 日、日帰りで帰省して用事を済ませ清水駅ホームへ向かうためエスカレーターに乗りながら、とんぼ返りに西日はよく似合う、と妙に可笑しかった。
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