惰性で刑事ドラマを見ているが、警察に拭い難い反感を抱いているリベラル、左派の知人にはそんな話をしない。呆れられるに決まっているからだ。描かれる事件の殆どは殺人で、犯人かどうかはともかく、「大事な人を奪っておいて死刑にもならず、娑婆に出てくるなんて許せない」なんて台詞が流れると、死刑反対派の俺は複雑な気分になる。
一方で俺は、<戦争法に反対する人が、なぜ死刑を肯定するのか>と疑問を呈してきた。実際、リベラルや左派の多くが死刑存置派だ。俺の死刑反対の礎になっているのは辺見庸と森達也で、両者の著書や講演については当ブログで何度も紹介してきた。辺見は<人間=時間的連続性で、その連続性を絶つのが死刑制度。死刑こそ国家暴力の母型。戦争というスペクタクルの最小単位の顕示>とし、死刑と戦争を同一の視座で捉えていた。
森達也は<被害者家族の気持ちを考えろ>の厳罰を求める世論に、<当事者ではないのに、なぜ正義を振りかざせるのか>と問い返し、<自分の想像など遺族の悲しみに絶対及ばない>ことを自覚しなければ言葉は空虚になると記していた。辺見と森に加え、死刑について考えるテキストを読了する。「死刑について」(2022年、平野啓一郎著/岩波書店)だ。
平野が2度の講演会の内容に加筆修正して発刊された。柔らかな切り口で、作家デビュー前から現在まで、死刑存置派から廃止派に変化した経緯を明かしている。平野は京大法学部時代、死刑反対派の級友(女性)と議論したことがあった。当時、存置派だった平野は、彼女が三人称の死を勉強した通りに語っていると感じた。
死刑を語る俺の言葉は、理論武装しただけの薄っぺらなもので、<国際標準>という物差しを頻繁に用いる。死刑存置だけでなく選挙制度、冤罪を生む警察の取り調べ、代用監獄・刑務所・入管の前近代的な仕組みと、日本の現状は先進国と程遠い。EU加入の条件は死刑廃止で、平野はフランスに1年間滞在した際、死刑について疑問を抱いた。小泉政権以降、<自己責任論>が死刑存置とリンクしているのではないかと考え始める。
平野は<なぜ人を殺してはいけないのか>と自問する過程で、基本的人権を重視する憲法を学び、同時に作家として被害者(家族を含め)に焦点を定めた小説「決壊」を発表する。同作のために平野は冤罪を生みやすい捜査の実態を調査し、被害者家族、メディア、法曹関係者を取材する。書き上げた後、<死刑制度はあるべきではない>と確信し、主人公の兄に語らせた。
辺見は3・11以後、<夥しい死と喪失が進行し、明日にでも崩壊する社会で死刑判決を下すことは、英明だろうか>と問い、死刑を支えているのは、<死を生に織り込む>日本人のセンチメント(情緒)と指摘した。その点では平野も同様で、メディアは勧善懲悪の空気に乗り、現政権は時に死刑執行を政治日程に組み込んで世間の<厳罰主義=死刑肯定>を味方につけている。
平野は被害者に寄り添うだけでなく、加害者を生んだ劣悪な生育環境に目を向ける。格差が拡大し、社会は分断されている。行政は果たして、弱者に対して正しく対応しているのか。平野は犯罪を生む理由に<根本的な解決を怠る行政と立法の不作為>と<人権教育の失敗>を挙げていた。死刑制度が殺人の抑止力になっているというのは事実に反しており、<死刑になりたい>が動機になった事件の数々を平野は挙げている。
被害者感情と死刑を同一線上で論じることは誤っているが、死刑廃止を訴えるなら森達也の著書のタイトル「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」に自分なりの答えを出すことが必要だ。平野はハンナ・アーレントの言葉を示し、憎しみに終止符を打つには、「罰」を超えた「ゆるし」が意味を持つと強調する。
死刑復活を掲げる極右の台頭で状況は変わっているかもしれないが、廃止決定直前の死刑支持率はイギリス81%、フランス62%、フィリピン80%だった。リーダーの政治判断で廃止されたことになる。制度的な問題だけでなく、社会に渦巻く憎しみから優しさを軸に据えた共同体に日本を変えていくべきと平野は結論付けた。その思いを記した小説「ある男」の映画版は来月公開される。感想はブログに記したい。
一方で俺は、<戦争法に反対する人が、なぜ死刑を肯定するのか>と疑問を呈してきた。実際、リベラルや左派の多くが死刑存置派だ。俺の死刑反対の礎になっているのは辺見庸と森達也で、両者の著書や講演については当ブログで何度も紹介してきた。辺見は<人間=時間的連続性で、その連続性を絶つのが死刑制度。死刑こそ国家暴力の母型。戦争というスペクタクルの最小単位の顕示>とし、死刑と戦争を同一の視座で捉えていた。
森達也は<被害者家族の気持ちを考えろ>の厳罰を求める世論に、<当事者ではないのに、なぜ正義を振りかざせるのか>と問い返し、<自分の想像など遺族の悲しみに絶対及ばない>ことを自覚しなければ言葉は空虚になると記していた。辺見と森に加え、死刑について考えるテキストを読了する。「死刑について」(2022年、平野啓一郎著/岩波書店)だ。
平野が2度の講演会の内容に加筆修正して発刊された。柔らかな切り口で、作家デビュー前から現在まで、死刑存置派から廃止派に変化した経緯を明かしている。平野は京大法学部時代、死刑反対派の級友(女性)と議論したことがあった。当時、存置派だった平野は、彼女が三人称の死を勉強した通りに語っていると感じた。
死刑を語る俺の言葉は、理論武装しただけの薄っぺらなもので、<国際標準>という物差しを頻繁に用いる。死刑存置だけでなく選挙制度、冤罪を生む警察の取り調べ、代用監獄・刑務所・入管の前近代的な仕組みと、日本の現状は先進国と程遠い。EU加入の条件は死刑廃止で、平野はフランスに1年間滞在した際、死刑について疑問を抱いた。小泉政権以降、<自己責任論>が死刑存置とリンクしているのではないかと考え始める。
平野は<なぜ人を殺してはいけないのか>と自問する過程で、基本的人権を重視する憲法を学び、同時に作家として被害者(家族を含め)に焦点を定めた小説「決壊」を発表する。同作のために平野は冤罪を生みやすい捜査の実態を調査し、被害者家族、メディア、法曹関係者を取材する。書き上げた後、<死刑制度はあるべきではない>と確信し、主人公の兄に語らせた。
辺見は3・11以後、<夥しい死と喪失が進行し、明日にでも崩壊する社会で死刑判決を下すことは、英明だろうか>と問い、死刑を支えているのは、<死を生に織り込む>日本人のセンチメント(情緒)と指摘した。その点では平野も同様で、メディアは勧善懲悪の空気に乗り、現政権は時に死刑執行を政治日程に組み込んで世間の<厳罰主義=死刑肯定>を味方につけている。
平野は被害者に寄り添うだけでなく、加害者を生んだ劣悪な生育環境に目を向ける。格差が拡大し、社会は分断されている。行政は果たして、弱者に対して正しく対応しているのか。平野は犯罪を生む理由に<根本的な解決を怠る行政と立法の不作為>と<人権教育の失敗>を挙げていた。死刑制度が殺人の抑止力になっているというのは事実に反しており、<死刑になりたい>が動機になった事件の数々を平野は挙げている。
被害者感情と死刑を同一線上で論じることは誤っているが、死刑廃止を訴えるなら森達也の著書のタイトル「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」に自分なりの答えを出すことが必要だ。平野はハンナ・アーレントの言葉を示し、憎しみに終止符を打つには、「罰」を超えた「ゆるし」が意味を持つと強調する。
死刑復活を掲げる極右の台頭で状況は変わっているかもしれないが、廃止決定直前の死刑支持率はイギリス81%、フランス62%、フィリピン80%だった。リーダーの政治判断で廃止されたことになる。制度的な問題だけでなく、社会に渦巻く憎しみから優しさを軸に据えた共同体に日本を変えていくべきと平野は結論付けた。その思いを記した小説「ある男」の映画版は来月公開される。感想はブログに記したい。