酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

笑いに身を削った桂枝雀の生きざま

2013-12-14 23:37:28 | カルチャー
 みんなの党を離党した江田憲司衆院議員らに、維新の橋下派、民主の細野グループが合流する。護憲と脱原発を掲げるわけでもなく、俺が期待するリベラル連合と程遠い有象無象の野合といえる。

 前兆はあったが左膝内側が悲鳴を上げ、接骨院で施療を受けた。その甲斐あって一昨日(12日)、柳家小三治の独演会(銀座ブロッサム)に参加することができた。同会場で開催された「花緑と三三の2人会」のほぼ倍の観客で、その人気に陰りはない。

 10月に鈴本演芸場で見た折、俺の目(耳)にも小三治は不調と映ったが、今回は表情豊かに「青菜」と「初天神」を演じていた。間とテンポは抜群で、時を忘れて聞き惚れてしまう。ちなみに枕は「青菜」が2分ほど、「初天神」はなしと、〝枕の小三治〟にしては珍しく、予定より15分ほど早く終演する。体調を案じる声が周囲で上がっていた。

 小三治は〝遅れてきた噺家〟かもしれない。立川談志は1936年生まれ、古今亭志ん朝は38年生まれ、桂枝雀は小三治と同じく39年生まれと、同世代には綺羅星の如く才能が揃っていたが、いずれも鬼籍に入った。その中のひとりである枝雀の生きざまを、周囲の証言を織り交ぜて追った「君は桂枝雀を知っているか」(13年)がBS朝日で放映された。このドキュメンタリーを見て、枝雀の人気が桁外れだったことを再認識する。

 小米時代、枝雀は師匠である米朝の影響もあり、古典をレパートリーにする正統派だった。同時に襲名した桂福団治と、「落語とは額縁芸能で、枠内でどう個性を出すかが勝負」(要旨)と語り合っていたそうだ。ところが枝雀襲名後、大きなアクションとコミカルな表情でファンの笑いを取るようになる。最初の鬱病で死と向き合ったことを、福団治は変貌の理由に挙げていた。

 枝雀は落語界のパンクなのか。俺が親しんでいる江戸落語は〝額縁〟の中で芸を磨くのが当たり前で、異端児と呼ばれた談志も当初、枝雀に否定的だったという。「父は決して明るい人ではなかった」と息子が証言していたように、枝雀は内向的な性格だった。だから「笑顔の稽古をし、笑顔の仮面を着ける続けることを目指した」(落語作家の小佐田氏)。笑顔が芸風の変化の第一歩だった。

 枝雀は<緊張と緩和>を掲げ、実践する。変化と進化を自らに課し、時に過去の自分をも壊す。小佐田氏によると、一度受けても同じ流れを繰り返さないと決めていたらしい。笑いの性質を13に分類して噺に導入したり、綿密な構成を用意して高座に臨んだりと、理詰めで笑いを追求していた。ざこば(弟弟子)は対談で、人生について滔々と語る枝雀に「そこまで考えたらしんどいやろ」と返していた。枝雀は人生、そして笑いについて徹底的に向き合っていた。一方で、米朝ら一門の噺家や家族が紹介するエピソードの数々に噴き出してしまった。

 枝雀は奥さんや息子に意見を求め、噺に取り入れたこともあった。子供のように純粋で、上から目線と無縁に、誰の声にも耳を傾けていた。自らの高座や出演したドラマを楽しそうに見ていた枝雀について、「父は客観と主観を切り分けて自らを眺めていた」と次男が語っている。

 ざこばは大受けして戻ってきた枝雀が、「あかんかった」と洩らしたことに衝撃を受けた。本作を締めた南光(一番弟子)の言葉が印象的だった。枝雀が最後の鬱を克服して存命だったら、「すべての鎧を脱ぎ捨て、シンプルかつコンパクトな語り口の噺家になっていたのでは」(要旨)と話していた。

 ギャグとポップは創り手を蝕む……。俺は当ブログでこう記したことがある。身を削って笑いを追求した枝雀の苦悩がいかほどか、落語初級者かつ超凡人の俺に理解できるはずもない。

 最後に朝日杯の予想を。③アトムと⑭ウインフルブルームを軸に、⑧ニシノデンジャラスと⑬プレイアンドリアルを絡めた馬連と3連単を買うつもりだ。POG指名馬ハイアーレートは現在ブービー人気で、結果も似たようなものだろう。〝肉親の情〟で、上記4頭とのワイドを100円ずつ購入することにする。
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