佐藤允さんが亡くなっていたことが明らかになった。佐藤さんといえば俺の中では岡本喜八作品で、記憶に鮮明に残っているのは「独立愚連隊」と「独立愚連隊西へ」だ。野性味溢れた名優の死を心から悼みたい。
昨日は鈴本演芸場で初笑いと相成った。お目当ては柳家小三治と柳家権太楼だったが、脇を固める匠の芸も素晴らしい。2度目になる紙切りの林家正楽のクリエイティブな手さばきに、またも瞠目させられる。無形文化財に相応しいアートだと思う。
星野智幸が今年の読書始めだった。年明けから「目覚めよと人魚は歌う」(00年、新潮文庫)と「毒身」(02年、講談社文庫)を続けて読んだ。当ブログで何度も星野ワールドを紹介してきたが、この2作でも浸潤するアイデンティティーを描いている。基調になっているのは南米への憧れで、「目覚めよ――」では、ペルーから移住した青年ヒヨが重要な役割を演じている。「毒身」では劇中劇というべき架空のメキシコ映画「母の総て」が滑車になってドラマを回転させていた。
星野はスポーツ紙でコラムを担当するほどのサッカーファンで、自身もファンタジスタの作家だ。アウトサイダーの憤怒と喘ぎを手繰り寄せ、そっとマッチを擦る。星野はきっと、焔の彼方に聳える自由を夢想しているのだ。
「目覚めよと人魚は歌う」では、血縁や法律を超越した家族が描かれている。ガイアナを訪れたことがある丸越、糖子と息子の密生が暮らす奇妙な家に、逃亡中のヒヨとその恋人あなが身を潜める。丸越と糖子は共生者だ。「義務も強制も我慢もいらない緩やかなつながりの家族もどきもいいもんですよ」の丸越の言葉に同意して、糖子が引っ越してきたのだ。
丸越が志向する<疑似家族>に、ヒヨとあなも馴染んでいく。外界と温度や湿度が異なる空間ではサルサが大音量で流れ、みんな思い思いに踊って刺激し合う。各自の来し方と現在の心情が会話とモノローグで明かされるのと同時進行で、外の世界が忍び寄ってくる。
「毒身」は「毒身帰属」「毒身温泉」「ブラジルの毒身」の3編からなる。ここではメーンというべき「毒身温泉」を中心に記したい。「目覚めよ――」における丸越の役割をより積極的に果たすのがシキシマだ。「毒身帰属」にも登場するシキシマは、<独身者は自分のアイデンティティを自分で支えているから、ときどき自家中毒を起こす。その意味で独身は毒身なのだ>と記し、「毒身帰属の会」の会員を募る。
「毒身温泉」でシキシマはある計画を友人のワタナベに告げる。シキシマが住むアパートに独身者を集め、共同生活するというプランだ。ワタナベは家族のしがらみを振り切って同意し、テンコ、ヨシノ、ウエカワが集まってくる。堅く秩序だった日本社会で生きづらさを覚えている面々だ。庭のハンモッグがブラックホールで、その上で寝そべっているうち、真面目だったワタナベに変化が訪れる。価値観が顛倒し、欠勤が続くようになる。自生するマンゴーの甘い実は、<日本的>の解毒剤なのだろう。
重層的でシュールなアイデンティティーを追求する星野は、セクシュアリティーの深淵にも迫っている。「目覚めよ――」ではバイセクシュアルや性が介在しない愛の形が提示され、「毒身温泉」では女性たちの柔らかな三角関係が描かれる。人々がアプリオリに信じている価値や習慣に、星野は疑義を呈している。
俺は別稿で<純文学について書くとアクセスが急降下する>と記した。その最たるものが星野智幸で、ミクシィのコミュニティのメンバーはたったの202人である。かつて石川淳は<私は数千人の読者のために身を削っている>(趣旨)と記したが、星野の気持ちも同じかもしれない。石川は80歳で最高傑作「狂風記」を著わしたが、星野はまだ47歳。秘めているマグマがいずれ噴き出すような予感がする。
昨日は鈴本演芸場で初笑いと相成った。お目当ては柳家小三治と柳家権太楼だったが、脇を固める匠の芸も素晴らしい。2度目になる紙切りの林家正楽のクリエイティブな手さばきに、またも瞠目させられる。無形文化財に相応しいアートだと思う。
星野智幸が今年の読書始めだった。年明けから「目覚めよと人魚は歌う」(00年、新潮文庫)と「毒身」(02年、講談社文庫)を続けて読んだ。当ブログで何度も星野ワールドを紹介してきたが、この2作でも浸潤するアイデンティティーを描いている。基調になっているのは南米への憧れで、「目覚めよ――」では、ペルーから移住した青年ヒヨが重要な役割を演じている。「毒身」では劇中劇というべき架空のメキシコ映画「母の総て」が滑車になってドラマを回転させていた。
星野はスポーツ紙でコラムを担当するほどのサッカーファンで、自身もファンタジスタの作家だ。アウトサイダーの憤怒と喘ぎを手繰り寄せ、そっとマッチを擦る。星野はきっと、焔の彼方に聳える自由を夢想しているのだ。
「目覚めよと人魚は歌う」では、血縁や法律を超越した家族が描かれている。ガイアナを訪れたことがある丸越、糖子と息子の密生が暮らす奇妙な家に、逃亡中のヒヨとその恋人あなが身を潜める。丸越と糖子は共生者だ。「義務も強制も我慢もいらない緩やかなつながりの家族もどきもいいもんですよ」の丸越の言葉に同意して、糖子が引っ越してきたのだ。
丸越が志向する<疑似家族>に、ヒヨとあなも馴染んでいく。外界と温度や湿度が異なる空間ではサルサが大音量で流れ、みんな思い思いに踊って刺激し合う。各自の来し方と現在の心情が会話とモノローグで明かされるのと同時進行で、外の世界が忍び寄ってくる。
「毒身」は「毒身帰属」「毒身温泉」「ブラジルの毒身」の3編からなる。ここではメーンというべき「毒身温泉」を中心に記したい。「目覚めよ――」における丸越の役割をより積極的に果たすのがシキシマだ。「毒身帰属」にも登場するシキシマは、<独身者は自分のアイデンティティを自分で支えているから、ときどき自家中毒を起こす。その意味で独身は毒身なのだ>と記し、「毒身帰属の会」の会員を募る。
「毒身温泉」でシキシマはある計画を友人のワタナベに告げる。シキシマが住むアパートに独身者を集め、共同生活するというプランだ。ワタナベは家族のしがらみを振り切って同意し、テンコ、ヨシノ、ウエカワが集まってくる。堅く秩序だった日本社会で生きづらさを覚えている面々だ。庭のハンモッグがブラックホールで、その上で寝そべっているうち、真面目だったワタナベに変化が訪れる。価値観が顛倒し、欠勤が続くようになる。自生するマンゴーの甘い実は、<日本的>の解毒剤なのだろう。
重層的でシュールなアイデンティティーを追求する星野は、セクシュアリティーの深淵にも迫っている。「目覚めよ――」ではバイセクシュアルや性が介在しない愛の形が提示され、「毒身温泉」では女性たちの柔らかな三角関係が描かれる。人々がアプリオリに信じている価値や習慣に、星野は疑義を呈している。
俺は別稿で<純文学について書くとアクセスが急降下する>と記した。その最たるものが星野智幸で、ミクシィのコミュニティのメンバーはたったの202人である。かつて石川淳は<私は数千人の読者のために身を削っている>(趣旨)と記したが、星野の気持ちも同じかもしれない。石川は80歳で最高傑作「狂風記」を著わしたが、星野はまだ47歳。秘めているマグマがいずれ噴き出すような予感がする。