酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「消滅世界」~村田沙耶香が突き進む人跡未踏の曠野

2021-01-28 23:19:45 | 読書
 前々稿の冒頭にも記したが、新型コロナは心身に深甚な影響を与えるウイルスだ。肺の細胞表面にあるACE2の突起に付着して血管に入り込み、全身を駆け巡る。疾患は脳にも及び、認知障害、記憶力減退、倦怠感の原因になる。その事実を知ってか知らずか、欧米では規制反対デモが吹き荒れている。オランダでは先日、夜間外出禁止令に抗議する市民が暴徒化し、200人以上が逮捕された。

 翻って、日本はどうか。補償を伴わない規制に塗炭の苦しみを味わっている飲食店関係者、歌舞伎町の住人、リストラされた会社員、〝板子一枚下は地獄〟に怯える非正規労働者が街に繰り出す気配はない。憤懣は徐々に広がり、2009年のように〝沈黙の叛乱〟が起きる予兆を感じている。

 <世界で注目される日本人女性作家>という記事をネットで読んだ。「献灯使」、「JR上野駅公園口」でそれぞれ「全米図書賞」を受賞した多和田葉子と柳美里、発表後25年を経て「密やかな結晶」が「ブッカー国際賞」にノミネートされた小川洋子……。キャリアを誇る3人に加え、村田沙耶香の名前が挙がっていた。ちなみに村田は小川の「琥珀のまたたき」を愛読書に挙げている。

 村田の「消滅世界」(15年、河出文庫)を読了した。作品を紹介するのは芥川賞受賞作「コンビニ人間」(16年)、「地球星人」(18年)に次いで3度目である。「コンビニ人間」を紹介した稿のサブタイトルは<底に潜むカフカ的テーマ>だった。「消滅世界」で提示された<アイデンティティーの追求>は「コンビニ人間」へ、<公認セクシュアリティーへの疑義>は「地球星人」に引き継がれている。

 「消滅世界」を読み進めるうち、刺激的な設定と台詞で脳が痺れているのを覚を覚えた。人工授精が妊娠の唯一の手段で、男は精通、女は初潮を迎えると体内に避妊装置を埋め込まれる。<性欲・恋愛・結婚・出産・家族>の流れは否定されている世界が舞台だ。

 主人公の雨音(あまね)は両親のセックスによって誕生した。夫婦のセックスを〝近親相姦〟と唾棄する世界で、「ヒト同士の愛あるセックス」を説く母に嫌悪感を抱く雨音だが、〝清潔〟なキャラとセックス(自慰)に耽るだけでなく、〝汚い〟ヒトとのセックスにもいそしむ。ヒトの男もキャラとのセックスに夢中で、雨音との交わりを拒むようになる。

 雨音は価値観の近い朔と再婚したが、結婚は欲望と切り離されている。独占欲と嫉妬とは無縁の夫婦は、パートナーが恋人(ヒト)とデートするのを奨励する。私たちの目に異常と映るが、現在とどれほど違うのだろう。自然な恋愛は成立しにくくなり、SNSが交際(結婚)へのメインツールになりつつある。セックスレスと少子化には解消の手立てがない。「消滅世界」に描かれる〝洗脳の連鎖〟は遠くない現実ともいえる。

 恋と欲望に疲れ果てた雨音と朔は、家族が否定された千葉の実験都市「楽園」に移住する。決まった日に人工授精が施され、新しい生命が一斉に生まれるというキャベツ畑さながらの光景だ。全ての大人が男女を問わず「おかあさん」、全ての子供が「子供ちゃん」と呼ばれ、「おかあさん」は公平に愛情を注ぐ。卵子は雨音のものだったが、朔は人工子宮で出産した最初の男性として有名になるが、子供は<私たちの家族>にならない。

 「コンビニ人間」で主人公は<コンビニで初めて世界の部品である>と認識し、仲間とファッションまで似てくる。「消滅世界」では、「子供ちゃん」も「おかあさん」も表情、所作、話し方まで均一化されていく。楽園に同化していく雨音だが、後半に進むにつれ、<正常と狂気>がテーマであるに気付く。雨音は千葉を訪ねた母親に「その世界で一番適した狂い方で、発狂するのがいちばん楽なのに」と問いかける。

 <母と娘>が物語の芯であることが浮き彫りになる。セックスの方法を忘れた雨音は、自分の中で消えているものに思い当たる。それは母親が説いていた<正常な価値観>だ。折に触れて登場する母親は、雨音にとって対峙する存在であり、自らが正気を保つための救いだったともいえる。「地球星人」のカタストロフィーとは異なるが、「消滅世界」の衝撃のラストにも瞠目させられた。

 世間の価値観に支配されている者にとって「消滅世界」はディストピア小説だが、ユートピア小説と感じる女性もいるはずだ。村田はインタビューで<同時代にも複数の価値観は存在するのに、自分の狭い世界の正義をひたすら信じて、それで誰かを平然と裁くことに対して恐怖を感じる>と語っていた。彼女は闘っている。笑みを浮かべながら……。
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