酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「善良な町長の物語」~愛と癒やしに溢れた寓話

2010-09-22 00:30:17 | 読書
 月曜8時は習慣でWOWOW「エキサイトマッチ」を見ているが、一昨日は内山高志の世界戦にチャンネルを合わせた。内山はパンチ力、ディフェンス、ハートとすべて世界標準のボクサーだが、もうすぐ31歳。渡米して能力に相応しいビッグマネーを手にするべきだと思う。

 ボクシング同様、勝者と敗者の明暗がくっきり分かれるのは恋だ。前稿に続き、恋に惑う中年男を主人公に据えた作品を紹介したい。「善良な町長の物語」(アンドリュー・ニコル/白水社)は、愛と癒やし、浮遊感と喪失感に溢れた寓話だった。

 舞台はバルト海沿岸の架空の町トッドだ。短い夏と厳しい冬、ロシアとの距離感、港町、路面電車、文化の薫り……。俺が本作に溶け込めた理由の一つは、トッドのイメージが函館に近いことだ。

 主人公は町長を20年務めるティボ・クロビッチだ。タイトル通り人格者のティボは独身で、日本の町長のように利権絡みの会合を開くこともない。裁判官も兼ね、路面電車トラムで通勤する庶民派だ。

 そんなティボが人妻に恋をした。プレーボーイで鳴らしたティボが、初心な少年になる。相手は秘書のアガーテで、ブコウスキー風に言えば〝町でいちばんの美女〟だ。幼い娘を亡くしたことで夫との間に埋め難い溝ができ、冷めた日々を過ごしている。ティボとアガーテの孤独な魂は次第に相寄り、めくるめく予感におののくようになる。恋する女性の五感が精緻に描写され、息が詰まるほど官能的な表現がちりばめられている。

 帯電した二つの心身が重なり合ってショートし、稲光がした刹那、恋の雷鳴が町中に響き渡る……。幸せの爆発が迫るにつれ、俺の中の下卑た虫が疼いてきた。「不倫がこれほどうまく進むはずがない。町のみんなも気付いてるんだろ。もっと騒げよ」と囁きかけるのだ。

 予兆はあった。帯に「マジックリアリズムがこの物語に起伏をもたらした」と記されているように、本作には仕掛けが施されている。ティボ、アガーテ以外に現れる一人称は町の守護神ヴァルブルニアのモノローグで、大聖堂から俯瞰の目で語っている。

 予知能力を秘めるママ・セザールは、アガーテを気遣いつつ助言を与える。訴訟の件でティボと敵対した異形のイェムコ弁護士は、別世界の案内人というべき存在で、状況をすべて把握した上で新たな生き方を提示する。

 たったの1日……。ティボとアガーテの思いが臨界点に達するわずかな時間差が、ほろ苦い悲恋への転調をもたらした。時機を逸して失くした恋、臆病さゆえに消えた恋……。皆さんにもティボと似た経験があるはずだ。ティボは絶望の淵に落ちたが、〝衝動という決断〟に身を委ね、夫以上に質の悪い男に縛られたアガーテも後戻りはできない。

 ティボはひたすら耐え、アガーテは崩れていく。悔恨と罪の意識に加え、思いがけぬ災難に襲われたアガーテは意志を放棄し、犬として振る舞うようになる。イェムコの尽力の下、再生と救済への逃避行が始まる。行き着いたのは、ふたりにとって約束の土地だった……。

 読書の秋、内外問わず多くの小説をリストアップしている。20代前半の新鮮な好奇心が甦ったのは嬉しい限りだ。


コメント
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