酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「楽園への道」~限りない自由を希求した祖母と孫の物語

2009-07-17 03:13:09 | 読書
 カズオ・イシグロと高村薫が現役日本人作家の2トップで、次代を担うのが平野啓一郎と考えている。イシグロの「夜想曲集」、平野の「ドーン」を先日購入し、高村の新作「太陽を曳く馬」が24日に発刊される。ヒートアイランドより暑い〝読書の夏〟になりそうだ。

 同条件で世界最高の作家を挙げるならバルガス・リョサだ。フロベールの全体小説のテーゼ、ドストエフスキーのスケール、フォークナーの手法を継承した上で〝マジックレアリズム〟を構築したリョサは、ガルシア・マルケスとともに南米文学の巨峰である。

 リョサの最新邦訳「楽園への道」(河出書房新社)を読了した。前衛的かつ高密度の作品群の中では最も読みやすい部類といえる。「スカートをはいた扇動者」フローラ・トリスタン、「芸術の殉教者」ポール・ゴーギャン……。祖母と孫が孤独な死に至る晩年が描かれている。

 淡々とした筆致は「世界終末戦争」を想起させるが、リョサらしい工夫も凝らされている。フローラを「アンダルシア女」、ゴーギャンを「コケ」など幾つもの愛称で呼ぶ語り部(作者自身)の声を織り交ぜたことで、作品に遠近法が加わった。20㌻ごとのカットバックで稿を進めたことで、祖母と孫の人生が交錯し、複層的な構造を獲得している。

 「ゴーギャン展」(東京国立近代美術館)に展示されている代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の制作過程も丹念に綴られていた。「月と六ペンス」のモデルであり、死後1世紀を経ても評価は褪せることはない。一方の祖母フローラについては、本書で初めて知った。アンチ男性優位を声高に叫んだ最初の女性だが、フェミニズム正史からも抹殺された無名の存在といえる。

 前々稿で記した「重力ピエロ」のキーワードは、<人間の行動を決めるのはDNAか環境か>だった。絶対的自由を希求し、既成概念と闘った祖母と孫の強烈な生き様に触れる限り、本書に示された〝解答〟は明らかにDNAだ。

 祖母と孫の<第1の共通点>は性的魅力だ。フローラは死を迎える直前(享年41歳)まで男たちを惑わしたが、すべての申し出を拒否する。対照的に孫のゴーギャンは<欲望こそ制作の原点>を実践していた。

 分野を問わず革命家は、性的モラルを逸脱するケースが多い。結婚生活で経験した性的隷属への嫌悪から男性とのセックスを忌避したフローラは、自身のレズビアン的傾向に気付く。ゴーギャンが強度のロリータコンプレックスだったことは、本書につぶさに描かれていた。

 晩成型が<第2の共通点>だ。フローラは不幸な結婚と男性に有利な法制度から逃れるためにパリを離れ、英国とペルーで流浪生活を余儀なくされる。アカデミスムや諸党派と距離を置きつつ牙を磨き、女性の地位向上を唱えて論陣を張るが、男性優位に囚われた他の運動体と摩擦が生じる。激情に駆られたフローラを周囲は「怒りんぼう夫人」と呼んだ。

 本書には19世紀ヨーロッパの社会主義、共産主義の萌芽が記されている。無数のグループが覇を競ったが、フローラの死後4年、1848年に出版された「共産党宣言」(マルクス&エンゲルス)の独り勝ちになる。本書にはフローラがマルクスの拙いフランス語をやり込めるエピソ-ドが記されているが、マルクスは<女性と労働者の同時解放>というフローラの主張を高く評価していたという。

 ゴーギャンが自らの才能に気付いたのは35歳で、ブルジョワとしての生活と妻子を捨て、芸術家の道を歩み始める。画壇から手ひどい評価を受け、ゴッホとの共同生活が悲劇的結末を迎えたゴーギャンは、タヒチに生の原点と癒しを見いだした。キリスト教と西洋的倫理観を全否定したゴーギャンの精神は、作品に深く刻印されている。

 <第3の共通点>は肉体に宿痾を抱えていたことだ。フローラの体には妻を所有物とみなす夫――21世紀の日本にも散見するが――から受けた銃弾が埋まっていた。死の床に伏すフローラの最期を看取った男の正体を知り、愛の深さと救いを覚えた。

 奔放さと引き換えに梅毒に蝕まれたゴーギャンは、画家として何より大切な視力を奪われていく。朦朧とする意識の中、ゴーギャンが夢見た最後の楽園は日本だった。本書にはゴーギャンの版画に対する限りない敬意が描かれている。

 「楽園への道」のタイトルは、キリスト教圏の子供の遊びから取られている。日本でいえば鬼ごっこみたいなものだろう。楽園とはきっと、限りない自由を希求して飛翔する魂の中にのみ存在する土地なのだ。



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