goo blog サービス終了のお知らせ 

酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「熊は、いない」~存在理由を懸けて闘うジャファル・バナビ

2023-10-03 21:31:28 | 映画、ドラマ
 グリーンズジャパンの友人に誘われ先日、「政治をかえる! 8区の会」キックオフ準備会(ふらっと阿佐ヶ谷)に参加した。中野区民の俺は8区の有権者ではないが、日本の政治を変える拠点は杉並区であると考えている。キーワードは岸本聡子区長が掲げるミニシュパリズムとコモンだ。残念ながら、若い参加者はいなかった。

 イラン映画「熊は、いない」(2022年、ジャファル・バナビ監督)を新宿武蔵野館で見た。ジャファルは前々稿で紹介した「君は行く先を知らない」のパナー・パナヒ監督の父で、両作のテーマはともに<国外脱出>だ。ジャファルは体制を批判して弾圧されており、「熊は、いない」撮影後にも収監された。

 前作「人生タクシー」(15年)は〝フェイクドキュメント〟で、タクシー運転手に扮したバナビ本人と乗客がイラン社会について論じ合っていた。「熊は、いない」も主演はバナビで、役柄はそのまま映画監督だ。国境の村に滞在し、リモートで助監督のレザに指示を送る。ロケ地はトルコの町だ。海外メディアとの接触だけでなく、映画製作を20年も禁じられているバナビは、ミニマムな映画作りを強いられている。

 偽造パスポートで国外脱出を図るパクティアールとザラのカップルをドキュメンタリータッチで撮影しているうちに、リアルとフィクションが混淆していく。バナビがレザに誘われ、国境付近を歩くシーンが印象的だった。「国境線はどこ」と尋ね、レザが「今、踏んでいるあたりです」と答えると、バナビは後ずさった。逮捕を恐れてではなく、<イランこそが自分の居場所>という強い思いが窺えた。

 現実とフィクションが螺旋状に絡み合うという点で本作と重なったのが「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年、バブマン・ゴバディ監督)だ。バナビは滞在する村で、愛し合うことが許されないカップルを撮影したと疑われ、真実を告白することを強制される。告白所に向かう途中、「熊が出ますよ」と仄めかされた。村人たちが集まっていたが全員が男で、イランにおける女性の立場の低さは明らかだ。

 村には<女の赤ん坊のへその緒は、未来の夫を決めてから切る>という理不尽なしきたりがあった。面白かったのは村人たちが必ずしもコーランに忠実ではなかったことだ。暗に〝適当に〟〝辻褄が合っていれば〟とバナビに囁く者さえいる。日本だって他国の人が見れば〝異常〟と映るしきたりがある。<史上最悪の少年への性加害がメディアの了解の下で黙認された>……。日本独特のしきたりが明るみになったのは外圧があったからだ。

 タイトルの「熊は、いない」は反語といっていい。熊とはイランでの弾圧、人々を縛るしきたりのメタファーだが、ラストでザラは死に、駆け落ちを試みた村のカップルは銃殺された。車でテヘランに向かったバナビを待ち受けていたのは収監である。熊は確かに存在する。だが、バナビは挫けない。再び創造するという希望が自身の存在理由だと語っているのだ。シリアスなテーマを掲げながら笑いを誘う場面もあるエンターテインメントを作り上げたバナビに拍手を送りたい。

 本作は確かに遠い国の物語だが、日本では自由の息吹が衰えている。バナビの腰を据えた闘いは、近未来の日本に向けた贈り物なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「君は行く先を知らない」~イランの荒野を往くロードムービー

2023-09-25 21:13:05 | 映画、ドラマ
 <悪の枢軸>というと、まずはアメリカで、その力を背景にイエメン空爆を主導するサウジアラビア、パレスチナへのアパルトヘイトを実行するイスラエルを継続するイスラエルを思い浮かべる。世間的には兵器で結び着くロシアと北朝鮮、そしてイランを<悪の枢軸>と見做す声は強い。イランの核開発を世界は注視しているが、最大の核保有国アメリカ、事実上の保有国イスラエルが進めるサウジでのウラン濃縮はスルーされている。

 民主主義、多様性について様々な問題を抱えるイランだが、映画の〝聖地〟といっていい国だ。イラン人監督は弾圧をかいくぐり、寓意によって物語を神話の領域に飛翔させる手法を身につけた。エンディングは時にミステリアスで、奇跡の煌めきを提示する。モフマン・マフバルバフは「イランが芸術性の高い映画を作り続けられたのは、ハリウッドの影響を受けなかったから」と分析していた。

 新宿武蔵野館で先日、イラン映画「君は行く先を知らない」(2021年)を見た。監督のパナー・パナヒは「人生タクシー」などで知られる巨匠ジャファル・バナビの長男である。ジャファル・バナビについては近日中に新作「熊は、いない」を観賞する予定なので、その感想を記す際に紹介したい。

 「君は行く先を知らない」はワゴンでイラン国境地帯を旅する家族のロードムービーだ。父(モハマド・ハッサン・マージュニ)、母(パンテア・パナヒハ)、長男(アミン・シミアル)、次男(ラヤン・サルアク)の4人家族に愛犬ジェシーが乗り込んでいる。ちなみに運転しているのは長男で、父は足を骨折してギプスをはめている。ジェシーは余命いくばくもないという設定だ。

 検閲を逃れるためか、イラン映画はメタファーを多用する。父の骨折は体制に縛られていることを表現しているように思えるし、ジェシーは死に瀕した自由の象徴なのだろう。ワゴンと接触した自転車選手を乗せて、正義について議論するが、その内容は社会の矛盾を剔出していた。ズルした選手は再び競技に合流するが、対照的に世間と折り合えないのが長男であることが明らかになっていく。

 君は行く先を知らない……。〝君〟とは次男で、天真爛漫な姿に「駆ける少年」(1985年、アミール・ナデリ監督)の主人公が重なった。同作が希求したのは自由で、生きる輝きが溢れていた。その次男だけが〝行く先を知らない。兄は結婚して遠くで暮らすと伝えられたが、実際は異なる。「旅人」の符合で呼ばれる長男は、国外脱出のため国境を目指している。父はワゴンがつけられていないか、前後左右に視線を送っていた。

 密出国の手配師と接触したが、目的の村に向かう分岐点を前に立ち止まった。家族の中にも迷いはある。長男が無事に出国しても再会出来る保証はない。仲介者に羊の皮を要求されたが、隠された意味はあるのだろうか。母には子供扱いされ、父との会話も噛み合わない長男だが、国外脱出を試みるぐらいだから信念はあるのだろう。

 音楽の使い方が効果的だった。次男が父のギプスに巻かれた包帯に描かれた鍵盤をなぞるとピアノの曲が流れる。ピアノが基調かと思ったら、ポップなイランの流行歌が流れ、助手席の母がアイドルのように口ずさむ。残された家族はこれからどのようにイランで息を潜めていくのだろう。閉塞から解き放たれる日が来ることを願ってやまない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あしたの少女」~二つの視界が韓国社会の矛盾を撃つ

2023-09-20 22:43:33 | 映画、ドラマ
 酷暑の夏、読書は進まず、録画したドラマをゴロゴロ見ている時間が長かった。出色だったのは「アストリッドとラファエル 文書係の事件録」(NHK総合)で、「レジデント・エイリアン~宇宙からの訪問者」(WOWOW)もユーモアと風刺が利いたコメディーだった。ともに次シーズンの放映を楽しみにしている。

 韓国映画「あしたの少女」(2022年、チョン・ジョリ監督)をシネマート新宿で見た。2部構成になっており、舞台は寒々とした全州で、実際に起きた事件をベースにしている。1部は女子高生のソヒ(キム・シウン)の主観で進行する。追い詰められたソヒは自殺し、2部ではユジン刑事(ペ・ドゥナ)が死の真相に迫っていく。

 冒頭でソヒはダンスしている。アイドルを目指しているわけでもないが、真剣さがあった。実はスタジオでソヒとユジンはすれ違っている。年上の女性たちの一団にいたのだが、さりげない設定に俺は気付かなかった。8年前のチョン・ジョリ監督のデビュー作「私の少女」で主演を務めていたのはペ・ドゥナで、役柄のヨンナム警視は同性愛が理由で左遷されたことが仄めかされている。本作のユジンも復職したという設定だった。

 「私の少女」でヨンナムが目に留めたドヒ(キム・セロン)は幼い顔に悪魔を覗かせていたが、本作のソヒは孤独と絶望を心に秘めた無垢でナチュラルな印象だ。中学時代にぐれていたソヒは実業系の高校に進学する。韓国の教育制度には疎いが、映画「不思議の国の数学者」には進学校の実情が描かれていた。本作は成績が下位の生徒が通う学校と企業の癒着を暴いていた。

 ソヒは担任教師の口添えで、大手通信会社の下請けであるコールセンターに派遣された。フロアにいたのは全て若い女性で、仕事の内容は顧客からの解約の申し出を阻止することだ。会社は厳しいノルマを課して実習生同士の競争を煽り、残業続きのソヒは、親友との約束も守れない。保証していた成果給も理由をつけて払わない実態に「自動車絶望工場」(鎌田慧著)を重ねていた。理解を示していたチーム長の自殺で、ソヒの心は擦り切れていく。

 本作で肝になっていたのは水と雪だ。ソヒは初雪を楽しみにしていたし、サンダル履きで待ち合わせの店に行ったが、先輩は現れず、瓶ビール2本を飲み干して凍てつく貯水池に向かう。捜査を担当したのはユジンだった。時空がカットバックし、異なる時系列でユジンはソヒの苦悩を追体験していく。

 会社の同僚、学校関係者を聴取するうち、ユジンは恒常的な腐蝕の構造を知る。実習生を送り込むことが学校や教育機関の評価に繋がるが、個々の生徒の勤務状況はチェックされない。会社と学校にとって、生徒はただの数字でしかない。チーム長が自殺した際、会社は遺書を家族に渡さず、労働者の弔問を禁じたが、ソヒだけが訪れた。

 ソヒの自殺にも言い逃れする会社にユジンは怒りを募らせたが、非人道的な対応は警察も一緒だった。敵はどんどん固く膨らみ、ユジンの表情は翳ってくる。見つかったソヒの携帯に唯一残されていたのがダンススタジオで踊るソヒの映像だった。両親に見せるためだったかもしれないが、冒頭よりスムーズで、ソヒの顔にも笑みが浮かんでいた。ユジンの、そして俺の頬にも涙が伝った。

 もがきながら自分を解き放ちたい……。ソヒはそんな風に感じていたのかもしれない。ソヒが見ていた世界をユジンも見ている。二人の孤独が混じって、憂色が濃くなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福田村事件」が抉るSNS社会の不毛

2023-09-11 23:05:06 | 映画、ドラマ
 今年も月3~4本のペースで映画館に足を運んだ。「怪物」(是枝裕和監督)を超える作品に出合えないと思っていたが、〝強敵〟が現れた。新宿で先日見た「福田村事件」(森達也監督)は史実をベースにしており、衝撃度は「怪物」に匹敵する内容だった。両作には共通点がある。第一は監督がドキュメンタリーでキャリアを積んだこと。第二は永山瑛太が重要な役柄を演じていることだ。

 背景にあるのは1923年9月1日に発生した関東大震災直後に起きた朝鮮人、社会主義者虐殺で、福田村(現野田市)でも凄惨な事件が起きる。冒頭で澤田智一(井浦新)が妻の静子(田中麗奈)を連れ、ソウルから生まれ故郷の福田村に帰郷する。智一は三・一独立運動の際、ソウルで日本軍による虐殺を目の当たりにしていた。

 列車に乗り合わせていたのはシベリア出兵で戦死した夫の遺骨を抱く咲江(コムアイ)だった。駅前で咲江を迎える一団の中に、智一の同窓生である田向(豊浦功補)と長谷川(水道橋博士)がいた。田向は大正デモクラシーに共感する村長、長谷川は国家主義者として在郷軍人会分会長を務めている。咲江と不倫関係にあった船頭の倉蔵(東出昌大)は村八分状態だった。

 村の中、接近中の沼部新助(永山瑛太)をリーダーにする薬の行商団、東京で労働運動に携わっていた劇作家の平澤計七(実在の人物、カトウシンスケ)の三つの視点で物語は進行する。大震災直後、「朝鮮人が井戸に毒をまいている」「主義者が暴動を起こしている」といった流言飛語が流れた。平澤は亀戸署の刑事が一般人を装い、噂を流している様子を目撃する。朝鮮人暴動のフェイクニュースを流したのは、警察官僚の正力松太郞(後の読売新聞社主)だった。戒厳令が敷かれ、朝鮮人だけでなく平澤、大杉栄、伊藤野枝ら社会主義者、アナキストも殺害される。真実を伝えようとした恩田記者(木竜麻生)に望月記者が重なった。

 田向が自重を説く中、村でも自警団が結成された。5日後、千葉県福田村(現野田市)に現れた行商団15人のうち10人(妊婦のお腹にいた胎児を含め)が殺害される。その経緯を描いたラスト30分の緊迫感に息をのんだ。良き父、良き夫が中国戦線で見せた振る舞いは消しようがない。〝善人〟は集団の中で悪魔に変わるのだ。

本作を観賞して感じたことを挙げたい。第一はシナリオの素晴らしさだ。荒井晴彦、佐伯俊道、井上淳一がクレジットされていることからも、史実が丹念にチェックされ、複眼的思考で書き上げられたことは明らかだ。劇映画は初めての森だが、余韻を残してカットを繋げているのはシナリオのたまものだろう。

部落差別も本作の背景だが、さほど言及されていない。行商団は「穢多(えた)」と自称しているように被差別部落民である。「部落は朝鮮より上か」など話す仲間を新助は諫めていた。それどころか、朝鮮飴を売っている少女から大量に買い上げ、お礼に扇子をもらっていた。少女と扇子は後半に繋がっている。惨劇のさなか、行商団のメンバーが水平社創立宣言を暗唱している姿が印象的だった。

智一と静子の夫婦関係は、智一が自身の体験を伝えたことで和らいだ。静子は村民から行商団を守ろうと思い切った行動に出る。ラストで夫婦は利根川に舟を出す。「どこに行こうか」という智一の言葉が、日本の行く末を暗示しているようだった。不毛なSNS社会の今、当時と似たような風潮が日本を覆っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「高野豆腐店の春」~ヒューマンドラマを紡ぐ放射能の糸

2023-08-28 21:58:56 | 映画、ドラマ
 福島第一原発の処理水海洋放出が決行された。世論は肯定的だが、小出裕章氏(元京大原子炉実験所助教)は<敷地内の130㌧の処理水とは、浄化処理を施しても取り去ることが出来ない放射能(トリチウム)が残った水。トリチウムの半減期は10年で、深層に流せば表層に出てくるまで1000年かかるが、国と東電は表層に放出しようとしている>と警鐘を鳴らしていた。

 日本政府はIAEA(国際原子力機関)に、<第一原発事故で大気中に放出されたセシウム137は広島原爆の168発分>と報告している。放射能は五感で感じられず、広島でも投下後、何十年経っても原爆症を発症する人が後を絶たない。日本人が核兵器、原子力の悪魔の貌を忘れていることを、映画「高野豆腐店の春」(2023年、三原光尋監督)を見て実感する。

 高野は〝こうや〟ではなく、主人公の名前の〝たかの〟だ。時代は平成後半で、「東京物語」(小津安二郎)、「尾道3部作」(大林宣彦)などのロケ地で知られる尾道が舞台だ。<父と娘が織り成す温かなヒューマンドラマ>というのは半分当たっているが、物語が進むにつれて浮き彫りになるポイントは後半に記したい。

 高野豆腐店は辰雄(藤竜也)と春(麻生久美子)の父娘で営まれている。大豆、水、にがりの微妙な組み合わせで作られる豆腐の味を、辰雄は守り続けてきた。作業場での豆腐作りの工程が本作の肝といえる。淡々と細部にこだわる辰雄の職人技を支えるのは春だが、〝豆腐の人格〟を決めるにがりを投入する作業は辰雄の役割だ。

 心臓に不安を抱える辰雄は、理髪店店主の繁(徳井優)、定食屋の一歩(菅原大吉)ら気の置けない商店街の仲間に、春の再婚相手探しを頼む。浮上したのはイタリア料理店を経営するイケメンシェフの村上(小林且弥)で、豆腐を洋食にアレンジしたいと考えていた春と意気投合する。だが、春には意中の男がいた。

 辰雄は頑固な人で、納入先のスーパーの担当者が販路拡大を提案しても一切耳を貸さず、「ちんちくりん」と心の中で罵っている。だが、春が結婚を前提に付き合っていると紹介し男がちんちくりんこと西田(桂やまと)だった。〝世界の納豆〟を説くだけでなく、巨人ファンと知って喧嘩腰になる。辰雄は熱烈なカープファンだった。春は家を出ていった。

 辰雄にも出会いがあった。スーパーで清掃員をしているふみえ(中村久美)は辰雄と同じ病院の患者で、ペースメーカーを入れていた。親しく言葉を交わすようになり、ふみえも演奏するピアノコンサートに誘われたが、ふみえの体調悪化で叶わなかった。

 辰雄とふみえの穏やかな老いらくの恋の成り行きに引き込まれた。1945年8月6日、すなわち原爆投下による甚大な影響が2人の会話から明らかになる。尾道でも多くの人々が原爆症で苦しんだ。辰雄は亡き親友の妻と結婚したが、原爆症で亡くなった。春は連れ子で辰雄の実子ではない。春が東京で離婚したのも、条件が揃い過ぎている村上との結婚を拒んだのも、原爆症の遺伝子を恐れていたからではないか。

 そしてふみえもまた、原爆症患者だった。心臓だけでなく、乳がんを再発して入院する。辰雄は覚悟と勇気をもってふみえに寄り添う。ラストで「街角ピアノ」さながら、快復したふみえは街頭でピアノを弾く。メンデルスゾーンの「歌の翼に」で、♪歌の翼で愛しい人よ、私はきみを運ぶ……で始まるメルヘンチックな愛の歌だ。

 奇跡の愛に出会った辰雄は優しく物事に肯定的になる。春と一緒に豆腐を作る最後の日、にがりを投入する作業を娘に任せる。今年82歳になった藤竜也と麻生久美子の名演が温かい余韻を残してくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「青春神話」~行き詰まりの青春に未来はあるか

2023-08-23 18:52:39 | 映画、ドラマ
 夏の甲子園準決勝(21日)当日、中華屋で昼飯を食っていると、日焼けした作業着姿の若者3人が隣の席でテレビを見ながらがっついていた。アンチ慶応らしく、土浦日大に肩入れしていた。〝あんたらは勝ち組なんだから、野球ぐらい遠慮しろよ〟が本音だろう。エリートへの生理的反感なのか、スタンドの盛り上がりにも忌避感を覚えていたようだが、決勝では慶応が8対2で快勝し、仙台育英の夏連覇を阻止した。

 彼らと同じ年の頃、俺は〝東京砂漠で野垂れ死に〟の確率が高い引きこもりのフリーターだった。その時、俺はどんな風に感じていたのかを、最近になって思い知らされている。というのも、年を取って眠りが浅くなり、当時の閉塞状況そのものの悪夢で目覚めることが何度かあった。人生とは不思議なもので、60代と青春時代がリンクしてしまった。

 自身の20代の鬱屈と重なる映画「青春神話」(原題「青春哪吒」/1992年、ツァイ・ミンリャン監督)を新宿ケイズシネマで見た。<台湾巨匠傑作選2023>と銘打たれた企画で上映された27本のうちの一作で、候孝賢と楊德昌の次世代に当たるツァイ・ミンリャンのデビュー作である。

 1987年の戒厳令解除から96年の正副総統選実施までの間、台湾は日本ブームだったようで、本作にもゲームセンターやテレクラが登場する。主人公のシャオカン(リー・カンション)は予備校生だが、勉強に身が入らず惰性に流され、暴力への衝動にも駆られていた。台北の街でシャオカンは窃盗常習犯のアザー(チェン・チャオロン)とアビー(レン・チャンピン)と交錯する。アザーは兄と付き合っているアクイ(ワン・ユーウェン)をバイクに乗せ、街を疾走していた。

 シャオカンの父(ミャオ・ティエン)はタクシードライバーだ。父が運転するタクシーに乗っている時、トラブルに見舞われる。その際、バイクを走らせていたアザーにサイドミラーを壊された。様子をうかがっていたシャオカンはアザーとアビー、そしてアクイに付きまとうようになる。予備校を退学し、払い戻した授業料でピストルを買い、ストーカーのように彼らの行動をチェックする。

 現在の台湾では女性の地位が向上しているが、シャオカン一家では父が支配権を握っていた。占い師の元を訪ねた母は「シャオカンは哪吒(ナタ)の生まれ変わり」とのお告げを得る。ナタとは台湾で多くの信者を持つ道教で崇められる少年神で、父と軋轢を抱えている。シャオカンはナタのように踊って父の不興を買った。シャオカンは家出して台北を彷徨うが、後半には父の許しも描かれていた。

 本作はシャオカンとアザーの心の闇を表現するためなのか、夜景のシーンが多かった。さらに、繰り返し雨が降っていた。雨は憂鬱の象徴、それとも再生への希望? その両方かもしれない。俺がアザーの真意を理解出来なかったシーンがある。排水口に布を詰め、フロアを意識的に水浸しにしていた。自身の停滞や澱みを直視していたのだろうか。

 夜景、雨とコントラストをなすのが、眩しい光と音楽だった。ロケ地は今も台北の流行の先端をいく地域だ。青春は孤独、夢、ときめき、屈折に彩られている。50代になったシャオカンとアザーは、どんな風に生きているのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「パルプ・フィクション」~映画で遊ぶタランティーノ

2023-08-15 22:38:27 | 映画、ドラマ
 藤井聡太竜王への挑戦者が同じ年生まれの伊藤匠七段に決まった。合わせて41歳のタイトル戦で、棋界は世代交代が進みそうだ。伊藤は小学生の頃、藤井を負かしたことがあり、その時に藤井が号泣したのは有名なエピソードだ。20歳前後の有望棋士も多く、棋界は上げ潮に乗っている。朝日杯では三井住友トラストグループが特別協賛に名乗りを上げた。

 世間だけでなく、俺の中でも戦争は風化している。俺が生まれた1956年の「経済白書」は<もはや戦後ではない>で結ばれた。経済復興をもたらしたのは朝鮮戦争勃発による<朝鮮特需>と、産業構造の変化による<神武景気>である。隣国での戦争に加え、1960年代の<ベトナム戦争特需>も高度成長に寄与した。きょうは79回目の敗戦の日だが、岸田政権は殺傷兵器の輸出解禁に向けた議論を加速させている。日本は戦争と縁が深い国のようだ。

 リバイバル上映された「パルプ・フィクション」(1994年、クエンティン・タランティーノ監督)を新宿ピカデリーで見た。約30年ぶりの再会である。上映初日でもあり、フルハウスの盛況だった。「CSI:科学捜査班シーズン5」24&25話、脚本を担当した「トゥルー・ロマンス」を含め10作近く見ているが、最も印象に残るのが「パルプ・フィクション」だ。

 公開当時、暴力シーン満載、時系列をシャッフルした作りが斬新と騒がれたが、現在は自然に入り込める。W主演はヴィンセント(ジョン・トラボルタ)とジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)の殺し屋コンビだ。2人のボスで、LAの闇社会を取り仕切るマーセルズ(ヴィング・レイムス)は愛妻ミア(ユマ・サーマン)の接待をヴィンセントに依頼する。

 タランティーノの作品の魅力のひとつは台詞だ。ユーモアと品のなさが特徴で、本作ではヴィンセントとジュールスの会話が回転軸になっている。ギャングたちを色めき立たせる事件が起きた。落ち目のボクサーのブッチ(ブルース・ウィルス)がマーセルズの八百長の指示を拒み、相手を殺して賭け金を奪ってしまう。ブッチを逃がす女性タクシー運転手(アンジェラ・ジョーンズ)の個性が際立っていた。

 ご覧になった方はおわかりだと思うが、真面目に批評するのは相応しくない。タランティーノは映画で遊ぶインディーズの初心を忘れず、カンヌとハリウッドを席巻した。冒頭とラストに登場する不良カップルの青年パンプキンを演じたティム・ロスはタランティーノの盟友だし、サミュエル・L・ジャクソンは次作「ジャッキー・ブラウン」の助演男優だ。ユマ・サーマンは「キル・ビル」2作の主演女優である。〝身内で楽しもう〟が基本精神で、その辺りは公開中のドキュメンタリー「クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男」に描かれているかもしれない。

 タランティーノはクイズを出すような気分で映画を撮っているのだろう。本作に限らず、作品はLA観光案内の趣がある。それぞれのシークエンスにもタランティーノのサービス精神がちりばめられており、ヴィンセントとミアが踊るシーンには誰しもトラボルタが一世を風靡した「サタデー・ナイト・フィーバー」を重ねてしまう。ブッチの回想シーンに登場するクーンツ大尉はハノイで抑留されていたという設定だが、演じたのがクリストファー・ウォーケンとくれば「ディア・ハンター」を思い浮かべるのは当然だ。

 ヴィンセントが手にしている大衆向けの犯罪小説(パルプ・フィクション)だ。一方でジュールスは殺人前に旧約聖書エゼキエル書25章17節と引用元を明かした上で、正しき者、悪しき者、迷える子羊うんぬんと警句を発する。ジュールスは奇跡的に相手の弾を食らわなかったことで悟りを開いたかと思ったが、実は千葉真一主演作のアメリカ版冒頭からパクったというのが真相らしい。

 タランティーノは日本映画オタクとして知られるが、「パルプ・フィクション」でもブッチが日本刀を振り回すシーンに嗜好が現れている。俺が気付かない伏線やトリックもたくさんあるはずで、音楽の使い方など映画の楽しみ方を教えてくれる作品だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シモーヌ」~世界を変えた崇高な意志

2023-08-06 19:03:29 | 映画、ドラマ
 藤井聡太七冠と豊島将之九段による王座戦挑戦者決定戦は159手で藤井が制し、永瀬拓矢王座に挑む。1分将棋が続き、いずれにもチャンスがあった二転三転の大熱戦で、AI、いや人知を超えた神局と称賛されている。終局後、笑みを時折浮かべながら長時間の感想戦を行った両者に、将棋への純で熱い思いが窺えた。

 今年になってフランス関連の小説と映画を3作紹介してきた。キーワードは<女性の権利>である。アニー・エルノー著「事件」の主人公は熟年の大学教員で、彼女が大学生だった1960年代に経験した中絶の一部始終が記されている。「パリタクシー」でシャルルが乗せたマドレーヌは女性解放のアイコンとして名を刻む女性だった。そして、妊娠したアフリカ系女性の葛藤を描いた前稿の「サントメール ある被告」である。

 新宿で先日観賞した「シモーヌ フランスに最も愛された女性」(2022年、オリヴィエ・ダアン監督)は1974年、人工妊娠中絶の合法化を可決にこぎつけたシモーヌ・ヴェイユの生涯に迫った伝記映画で、上記3作と密接にリンクしている。フランスというと〝民主主義の象徴〟というイメージがあるが、1960年代のフランスはカトリック教会の絶対的支配の下、中絶はおろか避妊でさえ禁じられていた。国会議員だけでなく、シモーヌにとってエリート層の男性たちが〝抵抗勢力〟だった。

 10代後半から30代までのシモーヌはレベッカ・マルデール、それ以降はエルザ・ジルベルスタインが演じている。ユダヤ人のシモーヌにとってアウシュビッツの体験は決定的だった。16歳で収容所に送られ、両親と兄を失う。戦後はパリ政治学院でアントワーヌと出会って結婚するが、卒業後の男女格差は歴然だった。シモーヌは夫を支えることを強制され、学んだことを社会に還元することは許されなかった。

 女性の社会進出を妨げる風潮に立ち向かい、シモーヌは司法試験に合格し、司法官に就任する。最初に手掛けたのは、フランスからの独立のために戦ったアルジェリア兵、現地の民衆の扱いを改善することだった。刑務所はその国の民主度を測る物差しだが、アルジェリア人は劣悪な環境下で収容されていた。弱者の側に立つシモーヌは、後にエイズ患者、薬物中毒者にも温かい手を差し伸べる。国民的人気を誇る政治家になるのは当然だった。

 本作に感じたのは、フランスと日本の共通点だ。日本では戦争を主導した保守派が戦後も力を保持したが、フランスでもナチス協力者が断罪されることはなかった。ユダヤ人への偏見も収まらず、シモーヌが国民を前に自身の収容所体験を明かすのは2004年のことだった。終盤は現在と収容所時代の回想がカットバックして進行する。

 アウシュビッツでの体験、ナチスの犠牲になった家族への思いが描かれる。弱者に寄り添うシモーヌの原点であることは言うまでもなく、観賞した方が感動するのは当然だ。だが、たった1%の例外がある。俺はイスラエルによるパレスチナ弾圧を、ツツ大主教やケン・ローチ監督の言葉を借りて、<現在のアパルトヘイト、ジェノサイド>と批判してきた。反ユダヤ主義に警鐘を鳴らすシモーヌのモノローグに違和感を覚えてしまう。

 シモーヌの崇高な意志には感銘を覚えたが、興行界を牛耳るユダヤ系の〝国策〟を感じてしまったのはへそ曲がりゆえか。66歳にもなると、心に様々な錆びが染みついていることを実感させられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「サントメール ある被告」~曖昧な境界に迷い込む法廷劇

2023-08-01 22:21:05 | 映画、ドラマ
 4年ぶりに開催された隅田川花火大会に足を運んだ。知人が申し込んだ有料席で満喫した至高のページェントは冥土の土産かもしれない……。そんな風に考えてしまったのは理由がある。混雑を避けるため三ノ輪駅から会場まで歩いて往復したが、帰り道、前に進まなくなった。腰が痛くなり、バランスが崩れてフラフラする。脳梗塞と熱中症が重なったのか、駅や道で何度も休憩しながら思い出していたのは父である。

 花火マニアの父は毎夏、いくつもの花火大会をはしごしていた。仕事に遊びにアクティブに取り組むバイタリティーに感心していたが、今の俺と同じ年の頃(60代半ば)に母と所用で上京した際、衰えを痛感する。ゆっくり歩いて何度も休み、結局タクシーを拾ってホテルに向かった。4年後に召されたが、俺にも遠からず〝その日〟が来るかもしれない。

 確執というほどではないが、父と理解し合っていたとはいえなかった。俺の生き方が父の期待から大きく外れていたことが大きかったと思う。父と息子ではないが、移民社会を背景に、母と娘の距離を描いたフランス映画「サントメール ある被告」(2022年、アリス・ディオップ監督)を渋谷で見た。法廷をメインに描かれていたが、裁判官と弁護士は女性、検事が男性という設定に製作側の意図を感じる。ちなみにフランスの法曹界は女性が多数を占めているという。

 移民社会フランスの実情を知らない男にとって、「サントメール ある被告」は難解な作品だった。白人男性との子供をみごもったアフリカ系の2人の女性の視点から描かれている。実際に起きた事件とその裁判がベースで、裁かれているのは生後15カ月の娘を海岸に置き去りにし、死に至らしめたセネガル人の若い女性ロランス(ガスラジー・マランダ)だ。茶色の肌に茶色の服を纏い、法廷の茶色の壁に同化したロランスは感情を面に出さず、視線を斜めにやっている。

 傍聴に訪れたのは同じくセネガル系だが、フランスで育った作家のラマ(カイジ・カガメ)だ。妊娠中のラマは冒頭、マルグリット・デュラス原作の映画「二十四時間の情事」(原題「ヒロシマ・モナムール」)をテーマに大学で講義している。ナチス将校と恋仲だった女性が髪を切られて引き回されるシーンが印象的で、後半には嬰児殺しが描かれた「王女メディア」のカットが挿入されていた。

 「二十四時間の情事」は広島への原爆投下が描かれており、「王女メディア」には長唄が使われるなど、日本と縁のある2本の映画が「サントメール ある被告」と深くリンクしていた。ロランスが〝完璧なフランス語を話す〟のは両親の教育方針の反映だが、期待に沿えなかったことで疎遠になる。<フランス語が完璧=アイデンティティーの喪失>で、決定的な孤独に苛まれたロランスは30歳も年上の男と付き合うようになる。

 裁判で罪状を問われたロランスは「私は本当に娘を殺したんでしょうか。教えて下さい」と答えた。子供を消して元の自分に戻りたい、あるいは海が本来あるべき場所に子供を送ってくれるという感覚に陥っていたのだろうか。善悪、罪と罰、ジェンダー、母娘、白人とアフリカ系……。見る側は境界が次第に曖昧になるのを感じ、複眼的に真実を見据えることが求められる。ロランスが囚われた呪術的風習、弁護士が終盤で示したマイクロキメリズムも、物語を重層的な世界に導いていた。

 妊娠中している母親と胎児の関係など、俺が理解出来るはずもない。ハードルが高く、感想を述べることさえはばかられる作品だった。次に観賞するのもフランス映画だが、本作と比べてわかりやすい気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「告白、あるいは完璧な弁護」~人間の深淵に迫る凍えた迷路

2023-07-22 16:33:47 | 映画、ドラマ
 電車の中の風景が大きく変わった。20年前、座っている人の多くは新聞、雑誌、本を読んでいたが現在、殆どの人はスマホを手にしている。人々の思考が単純化されたことを象徴する言葉が<炎上>だ。想像力を失った人たちが匿名性に隠れ、事実と異なる思い込み(幻想)に基づき他者を攻撃する。

 読書の習慣が廃れたことで、リテラシー(正しく理解して表現する力)の欠落が蔓延している。泉谷しげるは映画「軍旗はためく下に」(深作欣二監督)にインスパイアされ1973年に「国旗はためく下」を発表した。日本軍の蛮行への怒りを背景に、同調圧力に弱く、たやすく集団化してしまう日本人を批判した曲を、〝自らへの応援歌〟と勘違いした安倍元首相支持者がいたという。

 「告白、あるいは完璧な弁護」(2022年、ユン・ジョンソク監督)をシネマート新宿で見た。今年に入ってスクリーンで韓国映画に接するのは「不思議の国の数学者」に次いで2作目になる。WOWOWでは「犯罪都市」第1作、藤井道人監督によって今年リメークされた「最後まで行く」を見た。タイプは異なるが、それぞれ韓国映画の底力を感じさせる作品だった。

 「告白、あるいは完璧な弁護」はスペイン映画「インビジブル・ゲスト 悪魔の証明」(17年)のリメークである。サスペンス用語として用いられる<ツイスト>は予想外の展開、ひねり、どんでん返しを指すが、本作はまさに<ツイスト>の連続で、カットバックしたシーンで主観が変われば、真実も時に真逆になる。

 作品を紹介する前にガラガラだった館内について。評判に違わぬ傑作だったのに、キャパ330でともに観賞したのは10人弱だった。新宿で映画を見るケースが多いが、こんなケースは稀だ。以前にも感じたことはあるが、シネマート新宿は営業が不得手なのかもしれない。

 さて、本作の紹介を。冒頭でIT企業社長ユ・ミンホ(ソ・ジソブ)が釈放される。不倫相手のキム・セヒ(ナナ)がホテルの密室で殺害された事件の第一容疑者で、疑いが晴れたわけではない。別荘にこもったミンホを訪ねたのは敏腕弁護士のヤン・シネ(キム・ユンジン)だ。韓国を代表する男女トップ俳優が見せる虚々実々の駆け引きに加え、二つの相反するキャラクターを表現したナナの存在感が光っていた。

 本作に引き込まれた理由のひとつは極寒のロケ地かもしれない。ミンホの別荘は豪雪地帯で、シネも難儀して着いた。暗く寒々とした光景と登場人物が抱える闇が相乗効果になって、物語の奥行きを広げていく。ミンホとセヒが別荘からソウルに向かう脇道で起きたアクシデントで、青年が行方不明になる。殺人事件と失踪事件が並行して走る回転軸になってストーリーを穿っていくのだ。

 時間が行きつ戻りつし、主要な登場人物は異なる主観でキャラが変わる。ミンホもシネも<信用出来ない語り部>で、終盤でその実体が明かされる。スリル満点のジェットコースターに振り落とされないようにしがみついていた2時間弱だった。酷暑だったので汗まみれ状態で館内に入ったので、冷房が効き過ぎて芯まで冷えた。クライマックスの氷が張った湖のシーンに、心まで凍るのを覚えた。自信を持ってお薦め出来る秀逸なサスペンスだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする