弁理士の日々

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佐藤賢一著「英仏百年戦争」(2)

2013-09-19 20:56:37 | 歴史・社会
前回に続き、佐藤謙一著「英仏百年戦争 (集英社新書)」の2回目です。

シャルル王太子(シャルル七世)(アルマニャック派)は、ブールゴーニュ派によってパリを追い落とされ、ブールジュに本拠を構えていました。1929年、シャルルはシノンに滞在していました。このとき、3月6日、神の遣いを称する少女が、シャルルをシノンに訪ねてきました。自分はオルレアンを解放し、王太子殿下をランスで聖別させるよう、神に命じられているのだと、近々響く金切り声で叫びながら。
いわずと知れたフランスの救世主、ジャンヌ・ダルクの登場です。

私は今年7月、家内と二人でフランスのロワール地方とパリを旅してきました。シノン城はロワール川の支流であるヴィエンヌ川流域の山上に位置しています。私たちはこのシノン城も訪問しました。ヴィエンヌ川から見たシノン城の様子を、ウィキペディアに公開されている写真で紹介します。
Vue du chateau de Chinon de la rive gauche de la Vienne. On distingue a droite la tour de l'Horloge et a gauche la tour du moulin.
現在のシノン城は、城壁こそ立派に残っていますが、城内の施設はそのほとんどが廃墟と化しています。
城の受付から出て橋を渡るとすぐに城門です(下写真)。城門から場内に入ります。
 
城門

シノン城は高台にあるので、城からは旧市街とヴィエンヌ川を眼下に眺めることができます。
  
旧市街とヴィエンヌ川

さて、1429年、ジャンヌ・ダルクがはじめて王太子シャルル(シャルル7世)に謁見したのがこのシノン城です。ガイドブックには「その歴史的会見の後数世紀を経て、すっかり廃墟となったシノン城。ジャンヌを迎えた大広間も、今では暖炉を残すのみだ。」とあるのですが、私たちは暖炉が残された大広間を見落としてしまいました。
ところが、フランス ロワール古城めぐり―絢爛たるロマンと追憶に心解き放たれる (講談社カルチャーブックス)には「ジャンヌを迎えた部屋も今は壁の暖炉だけが残る」と記載され、その説明が示す写真は、私の左下の写真と一致していることが判明しました。この書物の通りだとすると、私は意識せずにジャンヌの謁見の跡を見ており、その場所の写真を撮影していたこととなります。左下写真の壁のマークを拡大し、コントラストを強調してみました(右下写真)。上の左右には「1429」とあってジャンヌがシノン城でシャルル七世に謁見した年であり、中央部の文字は「JEANNE DARC」と読み取ることができます。間違いなさそうです。
  
ジャンヌダルク会見場跡                     壁部分の拡大写真

城内にはジャンヌに因んだ展示がなされています。
  
ジャンヌダルク

城内には、シノン城がどのように変遷したかを示す模型が展示されています。1100年から合計5つの時期の模型が展示されていました。そのうちの1429年と現代の模型の写真を以下に示します。
  
城の模型 1429年                    現代

さて、佐藤謙一著「英仏百年戦争」に戻りましょう。

シノン城でシャルル七世に謁見したジャンヌは、そのまま軍勢を与えられてオルレアンに入城しました。このあとジャンヌは、オルレアンを包囲したイングランド王軍の砦を順に攻め落としていきました。対峙する英仏両軍とも持久戦の構えでしたが、ジャンヌが鼓舞したとたんにフランス側は短期決戦に一変してしまいました。
ジャンヌはこの勢いのまま、シャンパーニュの大司教座都市ランスまで北上し、ついにシャルル七世の戴冠式を実現させるのです。
古のフランク王クローヴィスがランスの地で洗礼を受けたときに天使が届けたとされる聖なる油がランスに保管されている、と広く認められており、それを全身各所に塗られた者は、たちまち神通力を得るとされていました。そのため、フランス王の戴冠式は伝統的にランスで行われていたのです。塗油のあと、シャルル王太子は晴れてシャルル七世となりました。

ところがこのあと、ジャンヌは振るいません。戦果を挙げることができず、とうとうコンピエーニュの戦いでブールゴーニュ軍の捕虜に取られてしまうのです。ブールゴーニュ軍ですからフランス軍です。そのブールゴーニュ軍が、ジャンヌの身柄を身代金と引き替えにイングランド軍に引き渡してしまいました。宗教裁判が開始され、31年にジャンヌは火刑に処されました。

ジャンヌはアルマニャック派とシャルル七世にとっては救世主であったはずですが、ジャンヌ救出のために動いた形跡は全くありません。フランス王シャルル七世はジャンヌを非情に切り捨てたのです。
ジャンヌ・ダルクは瞬く間に忘れ去られました。
これを発掘して大々的に広報したのが、かのナポレオン・ボナパルトでした。これにより、ジャンヌ・ダルクの人気は一気に爆発しました。カトリック教会も動き、ジャンヌは聖人となりました。

さて、英仏百年戦争はその後、1450年にシャルル七世がノルマンディに進軍し、イングランド王軍の最後の占領地であったノルマンディとアキテーヌを陥落させ、かくて英仏百年戦争は終わりを告げるのです。

以下次号
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