弁理士の日々

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16世紀フランスとロワール古城

2013-09-22 11:35:50 | 歴史・社会
フランス王シャルル七世の時代に、英仏百年戦争はフランス勝利で終了しました(佐藤賢一著「英仏百年戦争」(2))。それから、ルイ十四世によって絶対王政が確立するまでのフランスの様子について記します。王朝の系図は以下の通りです。

(ヴァロア朝)
シャルル七世(1422-1461)  ジャンヌ・ダルク
  |
ルイ十一世(1461-1483)
  |
シャルル八世(1483-1498)  イタリア戦争
(ヴァロア・オルレアン家)
ルイ十二世(1498-1515)
(ヴァロア・アングレーム家)
フランソワ一世(1515-1547) イタリア戦争勝利
  |
アンリ二世(1547-1559)
  |  -(愛人)ディアーヌ・ド・ボアティエ
  |  -(王妃)カトリーヌ・ド・メディシス
フランソワ二世(1559-1560)
  シャルル九世(1560-1574)
    アンリ三世(1574-1589) 暗殺される
(ブルボン家)
アンリ四世(1589-1610)  ナントの勅令、暗殺される
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ルイ十三世(1610-1643)
  |
ルイ十四世(1643-1715)  ヴェルサイユ宮、絶対王政


百年戦争による荒廃からようやく立ち直ったフランス王シャルル八世は、イタリア支配の夢にとりつかれます。1494年にイタリアに出兵し、歴代の王がその志を継ぎ、ようやくフランソワ一世が1516年、教皇やスイスとノワイヨンの和議を結びました。北イタリアをフランス王、南イタリアをアラゴン王が支配することで決着しました。
イタリアのルネサンス芸術がフランスにもたらされ、ロワール川流域の華麗な城館に見られるフランス・ルネサンスを開花させるのは、フランソワ一世のイタリア出兵に負うところが大きいといいます。

フランソワ一世は、ロワール川流域の古城群に大きな足跡を残しています。
第1はシャンボール城です。
シャンポール城の全体的な構造は、ウィキペディアに掲載されていた空撮写真がわかりやすいので下に転載します。
Elementerre
下の写真は、私が今年7月に現地を訪問したときに、城の側面(空撮写真の左上方向)から撮影したものです。
 

シャンボールは、もともと王の狩猟用の離宮として考えられていました。ところが1519年、フランソワ一世はシャンボール城の膨大な建設工事に着手します。イタリアでルネッサンス様式の建築にふれた若き王は、フランスに帰国後、大きな野心と愛する狩猟のためにシャンボール城の建設に着手したのです。城はフランソワ一世の在世中には完成せず、アンリ二世とルイ十四世によって現在の姿に整えられました。
王の居城でも行政府でもない、単なる遊びのための城として、よくもこのような豪壮で絢爛な城を建設したものです。

ロワール川流域に、フランス王が居城とした城として、ブロワ城とアンボワーズ城が残っています。ブロワ城は、ブロワで生まれたルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間、フランス王の第1城だったそうです。またアンボワーズ城は、シャルル八世が7491年に結婚した直後にアンボワーズ城に移り住むことを決めたときからフランス王の居城となっているようです。
シャンボール城を作ったフランソワ一世は、ブロワ城にはフランソワ一世棟を建造し、アンボワーズ城にもフランソワ一世の棟を建造しています。ロワール川流域の古城群に及ぼしたフランソワ一世の影響力は絶大でした。
 
ブロワ城でもらった説明書の図面

 
③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)中央のらせん階段はフランソワ一世の階段と呼ばれている。

ロワール川からアンボワーズ城
 
 
王族の居住棟
直角につながった左側の棟はシャルル八世の棟(ゴシック様式)、右側の棟はフランソワ一世の棟(ルネッサンス様式)の屋根窓を持っている。

さて、フランソワ一世の息子がアンリ二世(在位1547-1559)。王妃はカトリーヌ・ド・メディシス、イタリアのメディチ家から嫁いできました。
ウィキペディアの「フランス料理」には、
『中世時代フランスで食べられていた料理は食材を焼いて大皿に乗せ、手づかみで食事を行うという非常にシンプルなものであったが現在のフランス料理の原型は、ルネサンス期のイタリアからやってきたカトリーヌ・ド・メディシス(当時フランスの王であったアンリ2世と婚姻した)とその専属料理人によってもたらされたと言われ、当初は粗野であったフランス料理に変革をもたらし、ブルボン王朝の最盛期に発達した。
それに伴い、ハプスブルク家により、ロシア、ドイツなどの宮廷に広まった。また、革命以後、宮廷から職を追われた料理人たちが街角でレストランを開き始めたことから、市民の口にも入るようになった。』
と書かれています。カトリーヌはまず、「フランス料理の母」として記憶されます。

アンリ二世には20歳年上の愛人、ディアーヌ・ド・ボアティエがいました。アンリ二世は愛人ディアーヌにシュノンソー城を与えました。城はシェール川の岸に建てられていました。
 
ディアーヌ・ド・ポワティエはアーチ型の橋を建設し、城をシェール川の向こう岸と結びました。ところが、アンリ2世が1559年に死ぬと、王妃であるカトリーヌは次の王の摂政となるとともに、シュノンソー城からディアーヌを追い出し、カトリーヌがこの城の主となったのです。
カトリーヌは、ディアーヌの橋の上に建物(ギャラリー)を建造した。これによって、現在のシュノンソー城の外形ができあがりました。
カトリーヌが1589年に死ぬと、城はアンリ3世の妻のルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンが相続しました。アンリ三世は暗殺され、王家はアンリ四世のブルボン朝に移行するのですが、このあと、ルイーズはシュノンソー城に引き籠もり、白い喪服を着てこの城で過ごしたといいます。

  
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋             カトリーヌの肖像画
城内には、この城にまつわる人々の部屋が並んでいます。左上の写真はディアーヌの部屋です。なぜかその左上(暖炉の上)には、カトリーヌの肖像画がかかっています(右上写真)。

  
カトリーヌ・ド・メディシスの庭園            ディアーヌ・ド・ポワティエの庭園
カトリーヌとディアーヌの名がつけられた庭園が、シュノンソー城の前に広がっています(上の2枚の写真)。


カトリーヌ・ド・メディシスは摂政としての顔を持っています。夫王のアンリ二世が馬上槍試合での事故で若くして死亡し、幼い息子達がフランソワ二世(1559-1560)、シャルル九世(1560-1574)、アンリ三世(1574-1589)として即位した際、摂政を務めたのです。
当時フランスでは、カトリック派とプロテスタント派の間で宗教抗争(ユグノー戦争)が勃発していました。ギーズ公がカトリック派、ブルボン家がプロテスタント派です。シャルル九世の摂政としてカトリーヌは、両派のバランスの上に立とうとしました。
しかし事態が急変したのは有名な「サン-バルテルミの虐殺」です。ブルボン家のナヴァール公アンリの婚儀のためにパリに集まっていた多くのプロテスタント派貴族を、カトリーヌがギーズ公アンリと共謀して大量虐殺したのです。
展開はめまぐるしく変化します。王位への野心を抱くギーズ公アンリはカトリック同盟を結成してパリを支配しましたが、パリから逃亡したアンリ三世にブロワ城にまねきよせられて暗殺されました。

ブロワ城
  
アンリ三世時の国王の居室(ギーズ公暗殺の場所)         ギーズ公暗殺の絵画

ギーズ公暗殺の翌年にはアンリ三世も暗殺されます。この結果、ナヴァール公アンリがアンリ四世として即位し、ブルボン王朝がはじまるのです。
アンリ四世はプロテスタント派でしたが、カトリックに改宗し、1598年に「ナントの勅令」を発して宗教戦争に終止符を打ちました。アンリ四世は、その行動力、洞察力、人柄の点で、歴代の王の中ではいまでもフランス国民に最も人気があるそうです。しかしそのアンリ四世も、1610年にパリの路上で暗殺されてしまいます。

こうして、フランソワ一世(1515-1547)からアンリ四世(1589-1610)にいたるフランス王家の歴史と対比しつつ、ロワール川流域の古城との関連を見てきました。
普通だったら全く接することのないフランス史の一小断面ですが、ロワール川流域の古城めぐりをする上では必須の知識となるのです。
コメント (2)
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