第1回に引き続き、阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ
」の2回目です。
1937(昭和12)年に起きた第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていませんでした。このブログでは、『上海での第百一師団(2007-08-28)』、『加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(2009-01-29)』において、第二次上海事変の戦線に送り込まれた日本軍兵士たちがどのような体験をしたのか、秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)
」の記述に基づいて言及しました。
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
・・・
ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」

101師団の加納連隊長は、同師団101連隊の連隊長で、9月11日に上海戦で戦死しています。(p208、ウィキ)日時からいって、大場鎮攻略に向けた激戦の中での戦死でしょう。
第3師団では、名古屋6連隊連隊長は戦死、岐阜68連隊と豊橋18連隊の連隊長は負傷しました。それに対して静岡34連隊の田上八郎連隊長に対しては、ほかの3人の連隊長が戦死傷しているのに、負傷もしていないのは、安全な後方で指揮を執っていて兵士に犠牲を強いていのではないか、といった無知な非難が上がり、連隊長の留守宅に投石する者も現れるようになりました。p212
田上連隊長の夫人が自殺する事件が起きたのは、このような状況があったからなのですね。
話は戻ります。
第2次上海事変が起きたのは、蒋介石が「日本軍と闘って日本を上海から追い落とす」という明確な意思を持っていたからです。それでは蒋介石は、どのような見通しのもとに対日戦を決意したのでしょうか。
ドイツに指導された強固な縦深陣地を、上海市を取り囲むように築き、同じくドイツ製の最新兵器で武装した精鋭部隊を配置しての戦闘開始でした。少なくとも上海で守備に就く日本海軍特別陸戦隊を殲滅する目標は有していました。その目標は達せられませんでしたが。
しかしもし、日本の特別陸戦隊を殲滅したとして、それで日本に勝利すると考えていたのでしょうか。日本がそれでおさまるはずはありません。当然に陸軍の大部隊を派遣し、上海を舞台とした大戦争が始まります。蒋介石はそこでも、重武装したトーチカ陣地で守りぬき、日本軍を撤退させうると考えていたのでしょうか。
普通の常識的な軍隊であれば、兵員の1/3が消耗するほどの激戦を闘えば、そこで戦闘を中止していたかもしれません。しかし日本軍はそのような行動を取りませんでした。いかに犠牲が大きくても前進し、目標を制圧するまで戦いを止めませんでした。
一部の説では、蒋介石は最初から日本軍を中国大陸奥地に誘い込んで長期戦に持ち込む考えであったと言われています。
しかし、蒋介石が上海戦に投入したのは、ドイツ製の武器で武装し訓練を積んだ最精鋭部隊です。その最精鋭部隊が、上海戦の結果として消滅してしまいました。最初から囮作戦を企図したのであれば、最精鋭部隊を消滅させるような配置は行わないでしょう。あくまで、上海において日本を屈服させる意図だったと思われます。
また、盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀だったのかどうか、という点について。
盧溝橋事件直後、中国軍の現地司令官(宋哲元)は日本と停戦協定を結びかけました。もし盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀であったなら、宋哲元もその内実を知っているはずで、そうであれば安易に日本との停戦協定締結には進まなかったはずです。その点から、盧溝橋事件そのものは日本軍の陰謀でも蒋介石の陰謀でもなく、偶発的なものだったと思われます。中国共産党軍の陰謀の可能性はありますが。
ただし、蒋介石が、盧溝橋事件を好機と捉えて対日開戦を決意したのは確かでしょう。一方、「日本軍を殲滅する」という観点では、蒋介石軍の準備が十分整う前の開戦であり、目的を達成できない理由となりました。
次にドイツ軍事顧問団は、なぜ蒋介石に日中戦をそそのかしたのでしょうか。日中戦が始まったとして、自分が応援する蒋介石軍にどのような勝算を持っていたのでしょうか。その点はこの本を読んでも不明のままです。
さらに上海戦前、日本はどのような戦略を有していたのでしょうか。
孫氏の兵法に従うのであれば、「敵を知り己を知る」ことが重要です。蒋介石が上海の周辺に強固なトーチカ陣地を構築していること、その陣地及び蒋介石軍は、ドイツの指導とドイツからの輸入兵器によって強力な戦闘力を保持するに至ったことを、日本軍は知っていたのか知らなかったのか。阿羅健一著書によると、ドイツの指導及び陣地の構築を、日本軍はうすうすは感づいていたものの、その実力が非常に高いレベルに到達していたことには何ら気づいていなかったようです。
それまで日本軍は3倍の中国軍を相手に戦えるといわれていたようです。確かに、満州の匪賊相手の戦いではその通りでした。そのつもりで油断して日本陸軍を上陸させてみたら、上海の中国軍はすっかり精鋭部隊に変わっており、日本に勝る火力を手に、かつてなかった陣地を築いて待ち受けていました。日本軍は思いもしなかった重大な損害を受けました。1万人以上の戦死者と4万人以上の戦死傷者です。このあと日中戦争が9年間続きますが、このように甚大な犠牲を払った戦闘はこのときの上海だけのようです。
簡単に済むと思っていた上海戦でこのような苦戦を強いられたことは、日本を逆上させました。戦闘は上海で終わらなかったのです。
上海戦は最後、11月5日に日本の第10軍が杭州湾に上陸することによって大きく動きました。それまで闘ってきた日本の上海派遣軍は、大場鎮を攻め落としたものの、まだその先の強力なトーチカ群に拠る中国軍と対峙していました。ところがその中国軍は、杭州湾への日本軍上陸を知って一気に崩れたのです。中国軍は潰走しました。退却の途中にはヒンデンブルクラインと呼ばれた上海よりも強力な陣地があり、ここで日本軍を迎え撃つはずでした。しかし中国軍は、この陣地に止まることもなく敗走したのです。
杭州湾に上陸した第10軍司令官の柳川平助中将は、独断で南京攻略に進撃しようとします。その上の中支那方面軍司令官の松井石根大将ももともとは南京攻略論者でしたから、柳川中将に引きずられていきます。参謀本部は当初南京攻略に反対でしたが、結局は現地軍の意向に引きずられ、南京攻略を許可してしまいます。
このことがその後の、南京大虐殺、泥沼の日中戦争の端緒となりました。
こうして第二次上海事変をふり返ってみて、真珠湾攻撃との類似性にはたと気づきました。
《第二次上海事変》
①日本軍は、蒋介石軍がドイツの援助で強くなっていることに気づかず、油断しており、一撃で中国軍を圧倒できると思い込んでいた。
②蒋介石は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、日本に戦闘を仕掛けた。
③日本軍は被った多大な犠牲に逆上し、“暴支膺懲”のかけ声の下に中国奥地まで攻め入り、泥沼の日中戦争に突入していった。
《真珠湾攻撃》
①アメリカは、日本海軍が強くなっていることに気づかず、油断しており、たとえ日本軍が攻めてきても一撃で撃退できると思い込んでいた。
②日本は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、真珠湾攻撃を仕掛けた。
③米国民は真珠湾攻撃に逆上し、“Remember Pearl Harbor”を合い言葉に激烈な太平洋戦争に突入していった。
歴史とはこのようにして繰り返していくのでしょうか。
1937(昭和12)年に起きた第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていませんでした。このブログでは、『上海での第百一師団(2007-08-28)』、『加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(2009-01-29)』において、第二次上海事変の戦線に送り込まれた日本軍兵士たちがどのような体験をしたのか、秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
・・・
ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」

101師団の加納連隊長は、同師団101連隊の連隊長で、9月11日に上海戦で戦死しています。(p208、ウィキ)日時からいって、大場鎮攻略に向けた激戦の中での戦死でしょう。
第3師団では、名古屋6連隊連隊長は戦死、岐阜68連隊と豊橋18連隊の連隊長は負傷しました。それに対して静岡34連隊の田上八郎連隊長に対しては、ほかの3人の連隊長が戦死傷しているのに、負傷もしていないのは、安全な後方で指揮を執っていて兵士に犠牲を強いていのではないか、といった無知な非難が上がり、連隊長の留守宅に投石する者も現れるようになりました。p212
田上連隊長の夫人が自殺する事件が起きたのは、このような状況があったからなのですね。
話は戻ります。
第2次上海事変が起きたのは、蒋介石が「日本軍と闘って日本を上海から追い落とす」という明確な意思を持っていたからです。それでは蒋介石は、どのような見通しのもとに対日戦を決意したのでしょうか。
ドイツに指導された強固な縦深陣地を、上海市を取り囲むように築き、同じくドイツ製の最新兵器で武装した精鋭部隊を配置しての戦闘開始でした。少なくとも上海で守備に就く日本海軍特別陸戦隊を殲滅する目標は有していました。その目標は達せられませんでしたが。
しかしもし、日本の特別陸戦隊を殲滅したとして、それで日本に勝利すると考えていたのでしょうか。日本がそれでおさまるはずはありません。当然に陸軍の大部隊を派遣し、上海を舞台とした大戦争が始まります。蒋介石はそこでも、重武装したトーチカ陣地で守りぬき、日本軍を撤退させうると考えていたのでしょうか。
普通の常識的な軍隊であれば、兵員の1/3が消耗するほどの激戦を闘えば、そこで戦闘を中止していたかもしれません。しかし日本軍はそのような行動を取りませんでした。いかに犠牲が大きくても前進し、目標を制圧するまで戦いを止めませんでした。
一部の説では、蒋介石は最初から日本軍を中国大陸奥地に誘い込んで長期戦に持ち込む考えであったと言われています。
しかし、蒋介石が上海戦に投入したのは、ドイツ製の武器で武装し訓練を積んだ最精鋭部隊です。その最精鋭部隊が、上海戦の結果として消滅してしまいました。最初から囮作戦を企図したのであれば、最精鋭部隊を消滅させるような配置は行わないでしょう。あくまで、上海において日本を屈服させる意図だったと思われます。
また、盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀だったのかどうか、という点について。
盧溝橋事件直後、中国軍の現地司令官(宋哲元)は日本と停戦協定を結びかけました。もし盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀であったなら、宋哲元もその内実を知っているはずで、そうであれば安易に日本との停戦協定締結には進まなかったはずです。その点から、盧溝橋事件そのものは日本軍の陰謀でも蒋介石の陰謀でもなく、偶発的なものだったと思われます。中国共産党軍の陰謀の可能性はありますが。
ただし、蒋介石が、盧溝橋事件を好機と捉えて対日開戦を決意したのは確かでしょう。一方、「日本軍を殲滅する」という観点では、蒋介石軍の準備が十分整う前の開戦であり、目的を達成できない理由となりました。
次にドイツ軍事顧問団は、なぜ蒋介石に日中戦をそそのかしたのでしょうか。日中戦が始まったとして、自分が応援する蒋介石軍にどのような勝算を持っていたのでしょうか。その点はこの本を読んでも不明のままです。
さらに上海戦前、日本はどのような戦略を有していたのでしょうか。
孫氏の兵法に従うのであれば、「敵を知り己を知る」ことが重要です。蒋介石が上海の周辺に強固なトーチカ陣地を構築していること、その陣地及び蒋介石軍は、ドイツの指導とドイツからの輸入兵器によって強力な戦闘力を保持するに至ったことを、日本軍は知っていたのか知らなかったのか。阿羅健一著書によると、ドイツの指導及び陣地の構築を、日本軍はうすうすは感づいていたものの、その実力が非常に高いレベルに到達していたことには何ら気づいていなかったようです。
それまで日本軍は3倍の中国軍を相手に戦えるといわれていたようです。確かに、満州の匪賊相手の戦いではその通りでした。そのつもりで油断して日本陸軍を上陸させてみたら、上海の中国軍はすっかり精鋭部隊に変わっており、日本に勝る火力を手に、かつてなかった陣地を築いて待ち受けていました。日本軍は思いもしなかった重大な損害を受けました。1万人以上の戦死者と4万人以上の戦死傷者です。このあと日中戦争が9年間続きますが、このように甚大な犠牲を払った戦闘はこのときの上海だけのようです。
簡単に済むと思っていた上海戦でこのような苦戦を強いられたことは、日本を逆上させました。戦闘は上海で終わらなかったのです。
上海戦は最後、11月5日に日本の第10軍が杭州湾に上陸することによって大きく動きました。それまで闘ってきた日本の上海派遣軍は、大場鎮を攻め落としたものの、まだその先の強力なトーチカ群に拠る中国軍と対峙していました。ところがその中国軍は、杭州湾への日本軍上陸を知って一気に崩れたのです。中国軍は潰走しました。退却の途中にはヒンデンブルクラインと呼ばれた上海よりも強力な陣地があり、ここで日本軍を迎え撃つはずでした。しかし中国軍は、この陣地に止まることもなく敗走したのです。
杭州湾に上陸した第10軍司令官の柳川平助中将は、独断で南京攻略に進撃しようとします。その上の中支那方面軍司令官の松井石根大将ももともとは南京攻略論者でしたから、柳川中将に引きずられていきます。参謀本部は当初南京攻略に反対でしたが、結局は現地軍の意向に引きずられ、南京攻略を許可してしまいます。
このことがその後の、南京大虐殺、泥沼の日中戦争の端緒となりました。
こうして第二次上海事変をふり返ってみて、真珠湾攻撃との類似性にはたと気づきました。
《第二次上海事変》
①日本軍は、蒋介石軍がドイツの援助で強くなっていることに気づかず、油断しており、一撃で中国軍を圧倒できると思い込んでいた。
②蒋介石は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、日本に戦闘を仕掛けた。
③日本軍は被った多大な犠牲に逆上し、“暴支膺懲”のかけ声の下に中国奥地まで攻め入り、泥沼の日中戦争に突入していった。
《真珠湾攻撃》
①アメリカは、日本海軍が強くなっていることに気づかず、油断しており、たとえ日本軍が攻めてきても一撃で撃退できると思い込んでいた。
②日本は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、真珠湾攻撃を仕掛けた。
③米国民は真珠湾攻撃に逆上し、“Remember Pearl Harbor”を合い言葉に激烈な太平洋戦争に突入していった。
歴史とはこのようにして繰り返していくのでしょうか。
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◎昭和天皇の船津工作についての発言(嶋田繁太郎大将無題備忘録)
8月6日、支那沿岸および揚子江方面に於ける用兵関係にて上奏。(軍令部総長)
「近衛首相の話によれは船津が上海にて内面交渉を行う由なるが、うまく行けば宜しいが、
若しこの条件にて支那が同意せさるなれは寧ろこれを公表し、
日本がかく公明正大の条件を出したるに支那同意せさるなりとせば、各国の世論も帝国に同情すへし。
出来るだけ交渉を行い纏らされは止むを得ず戦うの外なし。
先日参謀本部の話に、長引く時に露を考慮するの必要上、支那に大兵力を用い得ずとの事なるがやれる丈けやるの外なし。
陸軍も困ったものなるも、海軍のみにてもしっかりやる様に」
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◎渡洋爆撃隊の作戦行動
ttp://www.shimousa.net/kaigunkichi/kisaradu.html
日中戦争開始直後の7月11日、戦火拡大に備え、日本海軍中央は即応準備令を発し、木更津空・鹿屋空の中攻主力で第一連合航空隊を編成し、司令部を木更津に置いた(16日に鹿屋空に転進)。
司令部の要員については、司令官として館山航空隊司令戸塚道太郎大佐をあて、先任参謀には菊池朝三中佐が起用された。
8月1日の陣容は木更津本隊は、館山空の中攻を編入し、中攻20機。司令:竹中龍造大佐、准士官以上39名、兵員573名。
残留隊は中攻数機、大攻6機で荒木啓吉中佐を指揮官とし、准士官以上15,6名、兵員200名。
鹿屋空隊は中攻18機で司令は石井芸江大佐。
かくして、8月8日木更津本隊は大村基地へ、司令部と鹿空隊は台北松山基地に進出完了した。
そして第一連合航空隊は、第三艦隊司令長官(長谷川清中将)の指揮下にはいった。
当初8月8日の移動と同時に、作戦行動を起こす予定だったらしいが、折からの台風の影響で、それは数日延期されることとなった。
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◎揚子江流域の居留民の引き上げ
ttp://binder.gozaru.jp/044-choukou.htm
何時第二、第三の通州事件が起るかも知れず、延いては事変の全支波及をさへ憂慮せらるゝに至つた。
斯の如き情勢となつたので、事端の発生を未然に防止し、且又支那側の挑戦的動向に鑑み、
万一事変が全支に拡大する様なことになつた場合のことも考へ、急速収容困難なる長江筋上流の居留民を一先づ引揚げさぜることに決定し、
重慶、宜昌(ぎしやう)、沙市(しやし)は八月一日日清汽船会社船に収容、
我が軍艦護衝の下に漢口(ハンカオ)経由上海に向け下江したのを始めとして、
長沙(ちやうさ)は八月四日発下江、漢口居留民は八月六日頃から事態が急に逼迫して来たので急遽引揚を開始し、
八月七日午後、日清汽舶の鳳陽丸、信陽丸に収容、我が軍艦三隻の護衛の下に、
続いて八月八日九江(きうかう)居留民は瑞陽丸で、大冶(たいや)、蕪湖(ウーフー)の居留民は襄陽丸で、南京、鎮江(ちんかう)居留民は洛陽丸で、夫々我が軍艦護衛の下に引揚げ、これ等の居留民は八月九日午後恙なく上海に到著した。
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◎第三艦隊作戦計画内案
ttp://www.kaikosha.or.jp/_userdata/kin-6.pdf#search='%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E8%BB%8D+kin6.pdf'
『昭和12年度、第三艦隊作戦計画内安』(上海方面に配備された艦隊)
1.作戦目的
支那艦隊を撃滅すると共に、外征陸軍と協力し要地を攻略似て、支那を屈服せしむ.
2.作戦方針
第一期(作戦開始より陸軍主力揚陸まで)
開戦冒頭、全航空兵力を以て敵航空基地を撃滅し、敵首都を空襲す.
(以下略)
第二期(陸軍主力揚陸以降、南京攻略迄)
航空兵力はその大部分を以て陸戦に協力、その一部を以て首都空襲並びに、.....(鉄道沿線の)各要点を破壊す.
(以下略)
第三期(南京攻略以降)
南京を確保する
8月12日、第三艦隊司令長官長谷川清中将は、事態の急迫に伴い、「この際、速やかに陸軍派兵の促進緊要なりと認む」と東京に打電します。陸軍側は、派兵要員として第11、第3、第14の3師団を準備していますが、不拡大の意見もあって、事態の推移を見守っていました。
米内光政海相は、陸軍派兵要請を受けると四相会議の開催を求めます。ここで陸軍派兵が決定し、翌13日の閣議で上海派兵が正式決定されます。
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◎天皇の勅語(スキャン原稿を文字認識ソフトで処理しているので文字化けあり)
大本営設置せらる
陸軍省新聞班
上海方面に作戦中なる陸軍将兵に対し
十一月二十日、午後二時三十分幕僚長の宮殿下を召させられ優渥なる勅語を下賜あらせられた。
勅 語
上海方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ、克ク海軍卜協力シ障礙ト抵抗トヲ擠排シ、敵前上陸ヲ敢行シ
交錯セル深濠連続セル堅塁ノ間ニ、勇戦激闘果敢力攻寡兵能ク敵ノ大軍ヲ撃砕シ、
以テ皇威ヲ中外ニ宣揚セイ、朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ミス
其ノ敵弾ニ殪レ病瘴ニ仆レタル者ニ、思ヒ及へハ惻愴殊ニ深シ、
惟フニ、派兵ノ目的ヲ達シ、東洋長久ノ平和ヲ確立セムコト、前途尚遼遠ナリ
爾等益々志気ヲ淬?冱シ、艱難ヲ克服シ以テ、朕ノ信倚ニ対へヨ
私も、2008年に記事にした「石射猪太郎日記(2)」
http://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/5cb8eb64e528375dec6faaa32efabe76
で再確認しました。
あの当時は、盧溝橋での発砲事件の対応として内地3ケ師団を動員する議論がされ(7月20日)、戦闘が再開し(7月26日)、その後の船津工作開始(8月3日)、上海で大山中尉殺害(8月9日)、海軍が派遣した1千名の陸戦隊増援部隊上海着(8月10日)と続きました。
このような推移の中で、海軍が事変拡大に備えて中攻部隊の派遣を準備したとしても不思議ではありません。
盧溝橋事件は共産党が仕掛けたと周恩来が共産党の誕生の際、述べています。
>ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。
著者は南京虐殺を日本軍の仕業だと考える世界遺産登録派でしょうか。毛沢東は7000万人も文化革命で殺していますが、一度も日本を南京事件で批判していません。南京事件の証拠として出されているものは、通州事件で強姦され殺された女性が足袋を穿いているものや全く無関係な夏の風景や国民軍の帽子を被った兵士が処刑をしているのに日本の兵士とされていたりします。南京陥落時にの人口は20万人、一か月後には25万人に増えています。それなのに中国共産党は30万人の犠牲者と主張しています。単純に考えても連合軍もその後の中国もオカシイ。
盧溝橋事件と共産軍との関係についてウィキで確認しました。現在でも諸説があるようですね。
>ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。
申し訳ありません。この部分は「日中戦争はドイツが仕組んだ」ではなく、秦郁彦著「南京事件」の記述(p64)でした。誤解を与える記述でした。
なお、私も南京アトローシティ犠牲者の数30万人はオーバーと思いますが、2~3万人は犠牲になっているだろうと思っています。
投降した支那兵の殺害、便衣狩りで市内から集めた人たちの殺害、その他市民の殺害の合計です。
ただし、すべて状況証拠に基づく推論であって、今となっては真実を解き明かすことは困難でしょう。
Marco Polo Bridge事件を中国共産党が仕組んだ
と発言しているのは周恩来です。
南京事件ですが、日本が南京を陥落させる前に
中国人による虐殺、略奪、強姦が起きています。
蒋介石が日本軍に責任転嫁を図ったと蒋介石自身が
画策したことが台湾にあると読みました。
たとえ中国人による虐殺、略奪、強姦が起きていたとしても、それとは別に日本兵による問題行為があれば、そこはきちんと把握する必要があります。
日本兵による、投降した支那兵の殺害、便衣狩りで市内から集めた人たちの殺害、その他市民の殺害があったことは、その数は諸説あるとしても否定できないと思われます。
また、石射猪太郎日記
http://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/7d6e564732ecd8b4bd2f0989b21c7bc4
には、以下の記述があります。
『昭和13年1月6日
○上海から来電,南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ。』