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佐藤賢一著「英仏百年戦争」

2013-09-16 22:32:33 | 歴史・社会
英仏百年戦争 (集英社新書)
佐藤賢一
集英社

「英仏百年戦争」といえば、1337年から1453年にかけて、イギリス国とフランス国の間でフランスの地を舞台として戦われた戦争であると理解されています。前半はイギリスの黒太子エドワードが活躍してイギリス優位で展開し、後半にフランスのジャンヌ・ダルクが活躍してフランスか勝ちをおさめた、というストーリーです。
ただし、現代のイギリスでは、結論が異なって理解されているそうです。イギリスが勝利したところで百年戦争は終結します。シェイクスピアが強く影響しているようです。

佐藤謙一著「英仏百年戦争」は、この戦争を以下のように紐解いています。

《百年戦争開始の頃》
○ フランスは国としてのまとまりが不十分であり、各地を諸侯が支配していた。フランス王(カペー朝)はパリ近郊のイール・ド・フランスを支配しているに留まり、フランス王の地位というのは、諸侯から臣下の礼を受ける契約をしていたに過ぎない。
○ イギリスはまだ、イングランド、スコットランド、アイルランドに分裂しており、英仏百年戦争の一方はイングランドであった。(ウェールズはイングランドの版図に入っていた)
○ イングランド王は、当時のフランスにおけるノルマンディー公がつとめていた。当時のイングランドは、ノルマンディー公が支配する植民地に過ぎなかった。
○ 英仏百年戦争の実態は、カペー朝フランス王と、ノルマンディー公が勢力拡大したプランタデュネ家(イギリス王を兼ねる)との間の戦争、即ちフランス諸侯間の戦争であった。

《英仏百年戦争の結果》
○ フランスは戦争を戦う過程で、フランス国家としての体裁を整えていった。フランス国が成立したといっていい。
○ イングランド王は、戦争開始当時はフランスの自分の領地に居を構え、フランス語で会話していた。植民地イングランドの王を兼務する状況である。戦争終了時には英語で会話し、イギリス王に専念することとなった。


フランスの有力豪族であるノルマンディ公のギョームがイングランドを征服し(1087)、ウィリアム一世を名乗ります。世にいうノルマンディ公ウィリアムです。
ウィリアムの子孫は男系が絶え、孫娘のマチルドがノルマンディ(及びイングランド)の女相続人となりました。このマチルドがフランスの有力豪族アンジュー伯ジョフロワと結婚します。そして生まれたのがアンリ・ダンジュー、またの名をアンリ・ド・プランタジュネです。
このアンリが、アリエノール・ダキテーヌと結婚します(1153)。アリエノールはフランス王ルイ七世の妃でしたが、性格の不一致を理由に離婚し、その2ヶ月後にアンリと再婚したのです。このアリエノールが、アキテーヌ公の女相続人だったのです。
こうして2組の結婚の結果として、アンジュー家は、アンジュー公、ノルマンディ公(イングランド王を兼ねる)、アキテーヌ公にまたがるフランスの超巨大な豪族に成長しました。フランス王を名乗るカペー朝の直轄地を遙かに上回ります。

後世のイギリスから見ると、「プランタジネット朝イギリス王は、フランスに広大な領地を有していた」となりますが、実態は、「フランスにおいてプランタジュネ公は広大な領地(アンジュー帝国)を有し、イングランド王を兼ねていた」です。

ところが、アンリの4人の息子はどら息子達であり、領地の相続争いが勃発しました。それに乗じたのがカペー朝フランス王のフィリップ二世であり、アンジュー帝国を吸収してしまいました。アンジュー家はフランスの領土を失い、イングランド王の地位のみが残されました。これが「第一次英仏百年戦争」の実態です。

フランスのカペー朝はもともと弱小王家でしたが、10世紀のユーグ・カペーから13世紀のフィリップ三世まで、歴代の王は後継者となる男子を必ずもうけており、これが理由で勢力を増大してきました。
ところが、フィリップ四世の息子達は直系男子を残さずに早世してしまいます。ここでフィリップ四世の甥であるブァロア伯フィリップがフィリップ四世として即位し、ヴァロア朝が成立しました。
一方、フィリップ四世の娘であるイザベルはイングランド王エドワード二世と結婚しており、その息子がエドワード三世です。エドワード三世は、「我こそはフランス王である」と名乗るのです。
1337年にエドワード三世は(ヴァロア朝)フィリップ六世に宣戦布告し、「第二次英仏百年戦争」が幕を開けたのです。実態は、フランスのブァロア家対プランタジュネ家(イングランド王を兼ねる)の戦争でした。
1346年、フランスのクレシーで両軍が対決します。人数で劣るイングランド王軍が大勝するのですが、勝因の一つは「長弓(long bow)」の採用でした。6000人の弓兵が合計50万発の矢を放ったといいます。
次のボワティエの戦い(1355)でもフランス王軍が敗れ、フランス王ジャン二世は捕虜となりました。このあと、フランス王シャルル五世は、ジャン二世の莫大な身代金を支払うため、フランス全土に対して課税することに決めました。シャルル五世は「税金の父」と呼ばれているそうです。

シャルル六世(シャルル五世の息子)は1392年に発作を起こし、それ以降は精神異常状態となりました。これを機に、フランス王国で内紛が勃発し、ブールゴーニュ派とオルレアン派とに別れて権力闘争が始まりました。オルレアン派がアルマニャック派と名前を変え、両派ともにイングランドに援軍を頼みました。
イングランド王ヘンリー五世はフランスに進軍しました。アザンクールの戦いでフランス軍(アルマニャック派)は惨敗しました。
フランスの王太子シャルル(シャルル七世)(シャルル六世の息子)(アルマニャック派)は、ブールゴーニュ派によってパリから追い落とされ、ブールジュに本拠を置いていました。このシャルル本人が、本当にシャルル六世の息子であるか自信が持てず、優柔不断だったようです。

1428年、イングランド軍はオルレアンを包囲しました。もしオルレアンが陥落すれば、アルマニャック派の命運は風前の灯となり、シャルル七世には亡命しかなくなってしまうでしょう。

ここで、有名なジャンヌ・ダルクが登場します。以下次号

なお、この間のフランス王朝の系図を書いておきます。
(カペー朝)
  ├-------------------┐
フィリップ三世(1270-1285)         後のブルボン家
  ├-----------------┐
フィリップ四世(1285-1314) カペーの奇跡
  |
ルイ十世(1314-1316)
  フィリップ五世(1316-1322)
    シャルル四世(1322-1328)
  ┌-----------------┘
(ヴァロア朝)   英仏百年戦争の始まり
フィリップ六世(1328-1350)
  |
ジャン二世(1350-1364)
  |
シャルル五世(1364-1380)
  ├----------------┬┐
シャルル六世(1380-1422)        後のオルレアン家、アングレーム家
  |
シャルル七世(1422-1461)  ジャンヌ・ダルク

                         続く
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