弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

高橋洋一「さらば財務省!」

2009-08-27 19:25:19 | 歴史・社会
書籍は基本的に、単行本の段階では購入せず、文庫本が発売されてからそれを購入して読むようにしています。読んだ本はどうしても手元に置いておきたいという希望があります。手元に置いて必要なときに読み返せる状態に置かないと、どうしても記憶が定着しないという感覚があるためです。日経新聞の「私の履歴書」がその最たるものです。一方で自宅の書棚スペースに限りがあるので、購入するのは文庫と新書に限定しています。
高橋洋一氏の「さらば財務省!」も文庫本が出てから読むつもりにしていたのですが、高橋氏があんなことになってしまい、この本も文庫本になるのかどうか不明です。やむを得ず、図書館から借りて読むことにしました。
しかし図書館では人気のようです。渋谷区立図書館の管内に合計6冊も収蔵されているのに、全部貸し出し中で、私が予約したときには6人待ち程度になっていました。

ようやく順番が回ってきて借りることができました。
さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白
高橋 洋一
講談社

このアイテムの詳細を見る

何とも痛快な本でした。
「高橋洋一武勇伝」と名付けていいでしょう。

このブログでも、高橋洋一氏がやってきたことについて何回も紹介しています(高橋洋一氏と小泉構造改革高橋洋一氏と小泉構造改革(2) 高橋洋一氏とはどんな人?霞が関の埋蔵金とは 高橋洋一氏と埋蔵金文藝春秋の高橋洋一論文 文藝春秋の高橋洋一論文(2) 文藝春秋の高橋洋一論文(3))。霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」 (文春新書)については、5回に分けて記事にしました()。

そこで、これらで紹介した記事との重複をなるべく避けつつ、「さらば財務省!」の内容を紹介します。

《大蔵省の「変人枠」》
高橋氏は1978年に東大理学部の数学科を出た後、文部省の統計数理研究所に就職するつもりで通っていました。ただし正式採用ではありません。ところがその内々定が取り消されてしまいます。
一方、慎重な高橋氏は、数学科の卒業とともに学士入学で東大経済学部に入り、籍だけ置いていました。そこで再びキャンパスに戻った頃、公務員試験が近々あることを知ります。軽い気持ちで受けてみたらとおってしまいました。
大蔵省は話題作りのために二年に一人くらいの割合で、変わった経歴の人間を採ります。高橋氏はその「変人枠」で採用されたようです。

入省3年目に竹中平蔵さんと邂逅した点については以前書きました。

入省5年目の大蔵省キャリアは各地の税務署長として1年間勤務します。高橋氏は1985年に四国香川県の観音寺税務署長を勤めました。このとき、暇でしょうがないので、金融工学を勉強し直そうと竹中さんに告げると、アメリカ金融工学の最新理論をまとめた本が送られてきました。高橋氏は税務署長時代にそれを翻訳し、出版しました。

《大蔵省での財投改革》
1980年代、アメリカではS&L(貯蓄貸付組合)の倒産騒動がありました。このとき、リスク管理のソリューションとしてALM(Asset Liability Management=資産・負債の総合管理)が開発され、金融自由化が本格化した1990年代初めに多くの金融機関で導入されました。高橋氏は個人的に研究して「ALM」という本まで出版しました。
高橋氏は1991年当時、資金運用部にいたので、財投のリスク管理に自然に目が行きます。これが惨憺たるもの。想像を絶する大きなリスクを抱えたままでした。この時点でALMを導入していなかった大蔵省は、どんぶり勘定に近い状態で金融業務をやっていました。預託の期間はお金を持ち込む担当省庁任せ。一方、特殊法人や政策金融機関への貸出期間も、向こうのいうがまま。リスクなど全く考慮に入れられていないシステムです。
高橋氏は取り急ぎ上司に報告しますが、上司は高橋氏の言っていることを理解できません。間もなく高橋氏は理財局から銀行局検査部に異動になります。理財局では、離れるときに論文を提出する慣わしがあり、大蔵省資金運用部の定量的な金利リスクと危機的状況について書き残しました。
その論文を、次の次の理財局長の田波耕治氏の目にとまり、1994年7月、再び高橋氏は理財局に戻されます。そしてALMプロジェクトの全権が委任されます。
当時、大蔵省と日銀は金融政策の主導権争いを続けていました。そして日銀は、大蔵省のリスク管理の甘さに目をつけます。ここが大蔵省の弱点とみて、総攻撃をかけるべく準備をしていました。
大蔵省側もその動きを察知し、急遽ALMを導入することにしたのです。

ALMシステムの構築は、外注すれば2~3年で10~20億円のコストがかかります。しかしこのときは、秘密保持のため外注が許されず、高橋氏のチームが内部でわずか3ヶ月で構築しました。高橋氏は2年前にすでに、興味半分であらかたシステムの原型を組み上げていたのです。
システムができてほどなく、日銀が乗り込んできました。しかし時すでに遅し、日銀は大蔵省がALMをやっていないという前提で計算しています。

こうして、大蔵省を死に至らしめかねない財投の金利リスクを解消した高橋氏は、省内では大蔵省「中興の祖」と持ち上げられました。

ALM導入で民間金融機関並みに金利リスクは小さくなったとはいえ、預託制度の下では完全にリスクを解消できません。そこで高橋氏は財投債の発行を考えました。
しかしこの案は、大蔵省の権限を放棄することであるとして、省内から猛反対を受けました。しかし高橋氏は大蔵省「中興の祖」と評判が立っていたので、「あいつのいうことを聞いておかないと危ない」と思って素直に耳を傾けてくれる幹部もいました。1996年に理財局長に就任した伏屋和彦さんもそのひとりで、高橋氏の案を受け入れ、財投債の導入を決断、官邸に進言して財投改革の根回しを始めました。
これが1997年に実現した橋本財投改革の舞台裏です。

《小泉総理なしでも郵政民営化は必然》
従来、郵政省が集めた郵貯のカネは大蔵省に持っていかれ、自分たちで運用することができませんでした。ところが大蔵省自ら預託を放棄し、郵貯百年の悲願であった自主運営が棚ぼたで転がり込んできました。
しかし高橋氏に言わせれば、自主運用に切り替われば、郵政は民営化せざるを得ないのです。
郵政公社は、公的性格ゆえに原則として国債しか運用できない決まりになっていました。国債は金利が低いので、国債以外の運用手段を与えてリスクを多少取らせるようにしないと経営が成り立ちません。
従来は財投が郵貯から預託を受け入れるときに、通常より高い割高金利を払って「ミルク補給」をしていたので経営が成り立っていたのです。
大蔵省が財投改革を行った結果として、郵貯は市場に放り出されます。しかも官営のままでは、国債以外の有利な金融機関に手が出せません。損失が出たときに税金を投入したのでは国民が納得しないでしょう。ですから、組織そのものが責任を取れるようにするには、民営化という選択肢しかなかったのです。
「大蔵省が預託から財投債に換えただけで、従来のシステムは崩れる。たとえ、郵政民営化論者の小泉さんが総理にならなくとも、郵政は民営化しないと生き残れない運命にあった。事実上、このときに郵政は民営化への道を歩み始めたといえるだろう。」

民主党政権が生まれた場合、郵政民営化をどのように手直ししようとしているのでしょうか。上記の議論から推測すると、郵便局については見直しが可能としても、郵貯と簡保については民営化の方向しかあり得ないようです。

以下次号
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 上杉隆「民主党政権は日本を... | トップ | 高橋洋一「さらば財務省!」(2) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・社会」カテゴリの最新記事