弁理士の日々

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高橋洋一「さらば財務省!」(2)

2009-08-28 19:48:47 | 歴史・社会
前回に続き、高橋洋一著「さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白」の2回目です。

高橋氏は大蔵省内で財投改革をやり遂げた後、1998年7月、政府から客員研究員としてアメリカのプリンストン大学に派遣されます。
プリンストン大学は金融政策研究では世界一で、アラン・ブラインダー、ポール・クルーグマン、・・・、ベン・バーナンキらの超一流の教授陣を擁していました。
現在FRB議長のバーナンキ氏は、当時プリンストン大学経済学部長の肩書きしかなく、日本では無名同然でした。

その錚々たる学者たちはこぞって、当時「日本の金融政策はバカだ」と指摘していました。

留学は2年の予定でした。帰国したら本省の課長ポストが用意されています。しかし高橋氏はプリンストンでの刺激的な学究生活に未練があり、1年延長を願い出ます。しかし大蔵省の暗黙のルールで、上が決めた人事をけるのは御法度です。秘書課長は「認めはするが覚悟していろよ」と捨てぜりふを吐きました。
2001年、3年の留学を終えて帰国した高橋氏を待っていたのは、国土交通省の特別調整課長のポストでした。

高橋氏が帰国する3ヶ月前の2001年4月、日本では小泉政権が誕生し、竹中さんは小泉総理によって経済財政政策担当の大臣に任命されました。
当時、竹中さんは大変な状況に置かれていました。スタート直後の経済財政諮問会議において、「骨太の方針」策定の段階でボロボロと新聞に情報が漏れます。事実は、諮問会議の事務方である内閣府の中に、竹中潰しを狙って新聞にリークする人たちがいたのです。
一部の官僚たちから揺さぶられないように、外部から遮断された竹中チームをつくり、大臣の方針を固めてから諮問会議に諮るようにしよう、そのような構想が出ていたときに高橋氏がちょうど現れました。

高橋氏は竹中氏と会った後、諮問会議に入っていた大阪大学教授の本間正明氏とも会います。高橋氏と本間氏とは一緒に勉強した学者仲間でした。「よく来たね。誰も手伝ってくれないからたいへんなんだよ。高橋君は当然手伝ってくれるよね」「いいですよ」

日を置かずして、竹中さんの政務秘書官、真柄明宏氏から電話が入ります。以降、高橋氏は竹中氏を手伝うようになりました。

高橋氏はそれよりも前、大蔵省大臣官房金融検査部で不良債権処理問題を担当しました。不良債権処理については専門書を1994年に出しています。

小泉政権発足の頃、東京地検は破綻した日本長期信用銀行の旧経営陣を刑事告発していました。不良債権に対する十分な引当金を積まず、粉飾決算をしたことが、証券取引法違反と商法違反にあたるという容疑です。東京地検はこのとき、高橋氏が書いた上記専門書に注目しました。高橋氏は東京地検から証人になるよう要請を受けます。高橋氏は東京地検に何度か足を運び、証人として法廷にも立ちます。そして東京地裁は、高橋氏の証言をことごとく取り入れて判決を下しました。

「東京地検に足を踏み入れることは一生ないと思っていたので、いい社会見学になった。」
その後の高橋氏自身による窃盗事件を考えると何とも皮肉なことです。

2001年の暮れ、竹中さんから初めてまとまった仕事を頼まれました。政策金融改革です。そのときは、財務省御用学者の「今は財政金融改革に着手すべき時期ではない。」との声が大勢を占め、政策金融改革は先送りになりました。
このとき高橋氏は閣議提出用の後始末の文書のドラフトに「今は手をつけないが次にやる」といった趣旨の文言をさりげなく紛れ込ませました。これが、郵政選挙後、政策金融改革を再開することに効いてきました。

以下次号
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