<3710> 余聞 余話 「渡り鳥の帰るの意について」
燕(つばくろ)の帰り来たりて飛ぶ水辺帰り行く鴨急き立てるごと
大伴家持は「帰る雁を見る歌二首」の題詞によって、一首目「燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)思ひつつ雲隠り鳴く」(『万葉集』巻十九 ・4144番)、二首目「春まけてかく帰るとも秋風に黄葉(もみぢ)の山を越え来ざらめや」(同・4145番)と詠んでいる。日付が見え、天平勝宝二年三月二日とある。西暦では七五〇年で、一二七二年前に詠まれたということになる。カリの姿はいま大和地方では見ないが、カリがカモでも話は通じよう。
カリもカモも冬の渡り鳥で、日本には秋に渡って来て越冬し、春になると繁殖地の北国に帰る。つまり、家持のこの二首は帰り行くカリを見て詠んだ歌である。つまり、帰雁、帰り行く認識において詠んでいる。そして、一首目のツバメであるが、ツバメは越冬地の南方から来て、カリやカモと入れ代わって夏を避暑地の日本で繁殖期を過ごし、子育てをする。
この渡り鳥の様子をうかがうに、渡り鳥の「帰る」と「来る」、即ち、「帰り行く」と「帰り来る」の基準は繁殖地を基点とするもので、子育ての地によると考えられる。これは生まれ故郷という捉え方によるものであろう。言わば、カリやカモのような冬の渡り鳥とツバメやイワツバメのような夏の渡り鳥では「帰る」と「来る」が逆さになる。
つまり、冬の渡り鳥のカリやカモの「帰る」は「帰り行く」意であり、夏の渡り鳥のツバメやイワツバメの「帰る」は「帰り来る」意となる。こういう捉え方から見れば、よく古歌に詠まれている夏の渡り鳥であるホトトギスも日本で繁殖し、生まれ故郷が日本ということになるから、どちらかと言えば、「帰り来る」渡り鳥ということになる。南方の地でも繁殖し、子育てをしているのであれば、この限りではないが。
もちろん、この渡り鳥に対する「帰り行く」と「帰り来る」の捉え方は、我々人間の感じ方によるということに相違なく、人それぞれということかも知れないと思えたりもする。 写真は帰り行く日が近く、活発に泳ぐヒドリガモ(左)と帰り行くカモを急き立てるように元気よく池上を飛びまわるツバメ(右)。