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Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

部活問題に思う

2022年03月09日 | Weblog

「若者の声を政策に反映させようと活動する「日本若者協議会」は9日、中学や高校の部活動に関し、生徒の意思に反して強制加入させるケースがあるとして、部活動は任意加入であることの周知徹底や実態調査を求める要望書をスポーツ庁に提出した。」(共同通信)

部活動はやった方が良いと思うことも多々あります。身体を鍛えたり、チームワークを学んだり、リーダーシップを学んだり、文化的な素養を身につけたりと、色々な良い面があります。

ただし、無理矢理入らされるという状況だと、良い所も身につかず、苦痛を感じることもあると思います。しかし、無理矢理入ることになったけれども、多くの苦難を経て、たくさんの学びを手に入れられたということもあると思います。だから、これはなかなか難しい問題です。

かつて、学校週五日制が始まり、ゆとり教育ということが叫ばれた時に、私は反対論者でした。なぜなら、ゆとりの出来た時間に、塾や予備校に行って、受験競争に拍車がかかることは目に見えていたからです。

しかし、今、私が思うことは、バッカーズ寺子屋のような学び舎も選択肢の一つとして全国にあれば、ゆとり教育も、それはそれで良いのではないかということです。

ただ、部活にせよ、何にせよ、そこで教える人間が本気で何かを伝えようとしていることが大切ですし、人間は一人一人違うのですから、それを見極める人間力と、剛と柔のバランス感覚の良さが、指導者に求められるのだと思います。

今の教育現場では、先生方の仕事が多すぎて、部活までは無理というのも理解できます。だからといって、外部の指導者に任せきりになるのも、本当に教育的かどうか悩ましいところです。

いずれにせよ、新たな制度設計をしていかなければならない時代になったと思います。しかし、そこには、深く考え抜いた、教育理念、教育哲学といったものがなければならないのだと思います。

 

 

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身土不二

2022年03月07日 | Weblog

1912年(明治45年)、食養会理事で陸軍騎兵大佐の西端学が、陸軍薬剤監の石塚左玄を会長として発足した食養会の提唱していた、「その土地、その季節の食物がいい」という考えを一般化するために出来たのが「身土不二」という言葉のようです。仏典に言うところの「身土不二(しんどふに)」という言葉を由来として、西端は以降この説を「身土不二(じ)」と呼び、食養会独自の大原則として広めたということです。(Wikipedia参考)

最近、山口や大分に行くと、必ず萩や玖珠の野菜を買って帰ります。瑞々しさも味も香りも、近くのスーパーで買うものとは全然違うからです。そして、安い!!

特に、私は必ず葱を買いたいと思うのですが、土味の影響が強いものは、本当に美味しいものが都市部では手に入りにくくなっているからです。香りが全くダメなのです。

また、キャベツなどの葉物も、水分量が全然違います。スライサーでキャベツを千切りにしていると、目に見えてわかります。

人間も自然の一部です。自然環境を破壊していけば、当然、食べるものもおかしくなっていきます。おかしくなったものを食べ続けていれば、人間もおかしくならないわけがないと思います。

食の問題を考えるとき、「身土不二」という考えの大切さと、土を育てることの大切さ、また、誤魔化しのない育て方をする大切さを思います。

豊かな食とは、お金をかけた食事ではないと思います。美しい自然と、素材の命を感じられる、豊かな食を楽しみたいと思います。

 

 

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出会いについて思ったこと

2022年03月06日 | Weblog

萩に行き、改めて「出会い」というものについて考えさせられました。

新しい出会いによって、新しいことが始まります。まずは、そのことが出会いの意味であり、価値であると思います。

今、私は新しい出会いをいただき、新しい教育事業を生み出していこうとしています。(無論、それは今までの延長線上にあるものですが。)

一つの出会いによってもたらされたご縁が、順調に続くこともあれば、切れることもあります。一見、切れたように見えて、再び繋がり、続いていくこともあります。

また、意見が対立する人との出会いは、一見、良くなかったと感じることもありますが、自分の考えを省み、視野を広げる良い機会をいただくことでもあります。

その結果、自分の考えを改めることもあれば、その反対に、自分の信念が益々強固なものに鍛えられたりと、いずれにせよ大切な意味を持ちます。

だから、全ての出会いには意味があり、大いに感謝すべきことでもあるのだと思います。

 

 

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自由な教育

2022年03月02日 | Weblog

私が教師を辞めて良かったと思うのは、何者にも縛られない、自由な教育をさせていただいているからです。

学校にいれば、学習指導要領や試験範囲や、その学校の価値観に縛られます。また、何らかの団体に属すれば、その団体の価値観や思想に縛られます。

無論、教育というものは、共に学んでくださる方がいて、はじめて成り立つものですから、必然的に多くの方に支えられてのものになります。

そこで結果を出し続けなければ、次のチャンスはありません。だから、学び続けなければならない。ということは、組織に属しているよりも、よほど厳しい求道者であり続けねばならないということだと感じています。

しかし、それが教師にとって大切な生き方なのだと思います。

そして、これからの時代の教育に大切なことは、立派な建物を建てることでもなく、制度を整えることでもなく、教える人間がいかに生きるかということだと思っています。

だから、次の森信三先生の言葉は、今に新しい言葉だと思います。また、教育の課題の本質を鋭く指摘した言葉だと思います。

「教育がいわゆる型通りの紋切のものに終わって、相手の心に迫る力を持たないということは、実は教師自身が、一つの型にはまりこんで、その活力を失った結果というべきでしょう。実際はわが国の教育で、現在何が一番欠けているかと言えば、それは制度でもなければ設備でもなく、実に人的要素としての教師の自覚いかんの問題だと言うべきでしょう。

 もちろん問題は、ひとり教師の側のみにとどまらず、生徒の側から言っても、現在の学校制度では、生徒が教師を尊敬する点においても、大いに欠けていることは事実です。しかしながらこの問題も、教師の立場からはやはり一切の責任は、教師としての自分にあるとしなければならぬでしょう。

 かくして今日教育の無力性は、これを他の方面から申せば結局「志」という根本の眼目が欠けているということでしょう。なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、また型どおりに試験も受けてはいます。しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしないのです。

 というのも志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、結局生徒たちに、このような「志」が与えられていない点にあると言えるでしょう。

 何年、否何十年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。

 ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなと言っても歩き出さずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。

 しかるに今日の学校教育では、生徒はいつまでも眠っている。ところが、生徒たちの魂が眠っているとも気付かないで、色々なものを次から次へと、詰め込もうとする滑稽事をあえてしながら、しかもそれと気付かないのが、今日の教育界の実情です。それというのも私思うんですが、結局は、われわれ教師に真に志が立っていないからでしょう。すなわち、われわれ自身が、真に自分の生涯を貫く終生の目標というものを持たないからだと思うのです。

 すなわちこの二度とない人生を、教師として生きる外ない運命に対して、真の志というものが立っていないところに、一切の根元があると思うのです。しかしそんなことで、どうして生徒たちに「志」を起こさすことができましょう。それはちょうど、火のついていない炬火で、沢山の炬火に火をつけようとするようなもので、始めからできることではないのです。」

森信三先生の言葉(『修身教授録 第34講』より)

 

ここに私が「志の教育」に全力で取り組もうとしている理由が、簡潔に言い尽くされています。

しかし、私が本質だと思うこの言葉に共感する人は、そう多くはありませんでした。

だから、私は、次の新渡戸稲造の言葉と共に生きていこうと思います。

「日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になり、あるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。(中略)。むかしの立派なる教育家貝原益軒、中江藤樹、熊沢蕃山等は、みな塾を開いたことはあるが、今日のごとく何百人の生徒を集めて演説講義したものでない。藤樹のごときは村を散歩することが教育であった。人そのものが教育である。人が真に教育家なら笑っていても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充ち満ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。」

新渡戸稲造『自警録』より

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私欲の制し難きは

2022年03月02日 | Weblog

「私は自分に甘く、バッカーズで学んだように自分を律することができていません。おそらく、卒塾された方々もさまざまな誘惑に惑わされたことがあると思います。そんな時、それら誘惑に打ち勝つための対策はどんなことをされておられますか?できれば教えてください!!!」

卒塾生から、こんなコメントをいただきました。

私からの答えは、佐藤一斎が書いた『言志四録』の言葉の通りで、やはり、「志を立てること」となります。

■「私欲の制し難きは、志の立たざるに由る。志立てば真に是れ紅炉に雪を点ずるなり。故に立志は徹上徹下の工夫たり。」(『言志耋録24』)

(大意)人が自分の欲望を抑えられないのは、志がしっかり立っていないからである。志が立っていさえすれば、欲望なんかは真っ赤に燃えている炉の上に一片の雪を置いたような物で、直ちに消えてしまうものだ。だから、立志ということは、上は道理を究明することから、下は日常の茶飯事に至るまで、私欲を抑えるためのあらゆることに通ずる方法である。

■「閑想客感は、志の立たざるに由る。一志既に立ちなば、百邪退聴せん。之を清泉涌出すれば、旁水の渾入するを得ざるに譬う。」(『言志後録18』)

(大意)つまらないことを考え出したり、外部のことに心を動かしたりすることは、しっかりと志が立っていないからである。一つの志がしっかり確立していれば、諸々の邪念は皆退散してしまうものだ。その様は丁度、清らかな泉が湧き出ると、外からの水は混入できないようなものだ。

志を立てる方法は、橋本左内が『啓発録』に書いた、「読書、師友、逆境、感激」という四つのことをやり抜くことだと思います。ただ、それは、自然体で、楽しみながらやることが大切だと思います。義務感や、やらされ感でやることではありません。楽しみましょう!


                

 

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東京から戻りました

2022年03月01日 | Weblog

バッカーズ寺子屋のオンライン保護者会、そして、オンライン企業訪問を終えて、福岡に戻りました。

色々と成果はありました。同時に、もっと若い頃から、教育への視点を磨き、教育力を高められなかったのだろうかと思いました。

きっと時が必要だったのだろうとも思いましたし、自分の能力の低さからいけば仕方なかったのだろうと痛感もしました。

しかし、この混沌としてきた世界で、未来を切り拓いていく子どもたちに必要なのは、やはり、より良い教育だと思います。

受験の学びではなく、人間としての在り方を磨き、行動をし、世の中を良くしていくための学問です。

私の教育は、既に先人たちが考え抜いてきたものを踏襲しているに過ぎません。孔子、孟子、佐藤一斎、吉田松陰、橋本左内、中村春二、森信三、本質は語り尽くされています。

ただ、こうした人たちのことは、教員養成課程では一切学ぶことはありません。私が正しいのか、大学の偉い先生方が正しいのか、それを少しでも明らかにしたいと思います。

卒塾生たちの成長という結果だけが、その証明となるのだろうと思います。

そのためには、深く学び、自分を磨き続けるしかないのだと思います。

何を言ってみせるかが教育ではありません。自分が何をしている人間なのか、どのように生きている人間なのかが、教育力を生み出していくのだろうと思います。

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