「志は気の帥なり」孟子の言葉です。「帥」は「統帥」の「帥」ですから、「志」はあらゆる気を率いているもの、指揮統率しているものだというのです。
「気」を使う言葉は様々にあります。元気、根気、本気、気力、気迫、活気、気概、覇気、etc.
「気」という言葉自体、人間の諸活動に大きな影響があるものです。というより、人間存在の本質に近いものなのかもしれません。辞書には、「生命・意識・心などの状態や働き。」という説明から、「天地に生じる自然現象。」「あたりに漂う雰囲気。」まで様々な説明があり、広範な意味を持つ言葉だということが感じられます。
社会全体から活気が失われていくということは、個人個人の「気」が衰えているからなのかも知れません。そして、それは1人1人に「志」がないからなのかもしれません。
元気には様々なものがありますが、「乱痴気騒ぎ」を起こす若者も元気と言えば元気です。しかし、それは「気」の使い方を誤っているに過ぎないのではないかと思います。所詮、それは、自分の欲望のため自己顕示欲のための、刹那的私利的元気に過ぎないのです。だから他人に迷惑をかけて恥ずる所が無いのです。
タイパ、コスパが大事だという価値観も「自分のための」という言葉が頭につくのだと思います。お金や時間を、これまでお世話になった人や、社会のために使うという思いは実に希薄だと感じます。
こう考えると、「夢」という言葉は個人的な欲求を満たすものとしても使える言葉であるけれど、「志」は「人々のため」という、私利ではなく義のためにというニュアンスを含む言葉であるということに関連があるのだと思い至ります。
「志」がないから、つまり「気の帥」がいないから、「気」の使い方が分からずに、「無気力」であったり、「気を違え」て乱痴気騒ぎを引き起こして、人に迷惑をかけたりするのだということです。
紀元前に孟子が語った「志は気の帥なり」という言葉を知る人もなく、ましてや深く理解しようという人もほとんどいなくなった現代、私は今の人間が昔よりも立派になったなどとは到底思えないように感じます。
だから私は地道に「志の教育」の大切さを説き続けていこうと思います。そのためにも孔子や孟子の教えと、それを学んだ吉田松陰などの日本の先人たちに学び続けたいと思います。