Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

寺子屋の教育

2024年07月24日 | Weblog

バッカーズ寺子屋、小郡寺子屋「志学舎」で実践している教育方法は、私が高校教師であり続けたら、決して見出すことのできなかったものだと確信しています。そして、子どもの教育と企業教育を同時並行的に実践してきたからこそ見えてきたものだとも思います。

私が本当に嬉しく思うのは、教育への批判、評論に終わらずに、19年間、社会の中で教育を実践し続けてこられたということです。教育への批判や評論は、世の中にいくらでもあります。そして、それは、それぞれに正しかったり、鋭い指摘であったりもします。

けれども教育は実践しなければ何も変わらないのです。ただ、教育は、既存の枠組みや、現在の教育思想の中ではもはや変わることが出来ないのだろうと思います。

そこまでわかったとしても、リスクを取ってまで新しい教育実践を作り上げようという人間など誰もいないのだと思います。自分の生活があるからです。

日本への危機感から新しいチャレンジとして出てくるのは、富裕層を対象にしたお金になる教育です。ただ、それでも私はそれが教育実践である限り敬意を払います。批判や評論や運動にはない、個を変える力があるからです。

幸い私は出会いに恵まれました。だから月額5,000円で、誰もが受けられる、本気の教育を生み出すことが出来ました。有り難いことです。

これをもっともっと世に広め、誰かにバトンを渡し、次の時代に遺していきたいと思います。思いのある方との出会いを心待ちにしています。

私はどんな子どもたちにも活かすことの出来る教育実践を生み出し続け、その成果を出し続けたいと思います。幸い、その結果は少しずつ見えてきています。19年という歳月、卒塾生と共にあることに努めてきて、ようやく見えてきました。寺子屋の教育は、卒塾して終わりではなく、一生保証の教育でありたいと、私は勝手に思っています。

だから700人を超えた卒塾生の皆さん全員に、毎年、心を込めてバースデーカードをお送りしています。愚かなことと思われるかとは思います。しかし、私の教育実践自体はたいしたことが無くても、「バッカーズ少年教育10原則」というプリンシプルだけは、伝え続けたいと思ってやっています。それが私の使命だと考えているからです。

「教育とは流水に文字を書くような果かない業(わざ)である。だがそれを岸壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ。」

森信三先生の言葉を、なぞれる限りなぞって、生きてみようと思います。

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教育を良くする

2024年07月24日 | Weblog

「教育を良くしたい」という言葉を使うときに、気をつけなければならないのは、「自分以外の人々を良くしたい」という不遜な願望を持たぬ事だと思います。

教育の本質は、その人の「言葉と行動」であり、親も教師も「言葉と行動」で教育するしかありません。それが良きものになるということは、「言葉と行動」の土台にある、自分自身の「考え方」を磨き、良きものにするしかないということです。

そして、その「考え方」も、結局は「言語」によるものであり、生まれてからずっと影響を受けてきた、他者の「言葉と行動」によって形作られたものでしかありません。

ということは、「教育を良くしたい」という願いは、つまるところ「自分自身をより良い人間にしたい」と願い、努力し続けることでしかないのだと思います。

また、その意識を持たず、偉そうに他者に説教するがごときは、教育の本質がわかっちゃいないということでしかないのだと思います。

そして、私は、教育の本質をわかっちゃいない自分であることを自覚し、そこから脱しようともがき、学び続けている人間でありたいと思います。

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範を示し、共に学ぶ

2024年07月23日 | Weblog

昨日、東京で地下鉄を待っていて、私ともう一人20歳ぐらいのスポーティーな女性が先頭に並んでいました。ドアが開くと、女性は脱兎のごとく、空いた優先席に座ってスマホを熱心にいじっていました。すぐ近くには、お年寄りの女性が立っていらっしゃいましたが、20歳ぐらいの女性は、帽子を目深にかぶって、何も見えないよ~という感じでした。

ふと見れば、優先席に座っているのは三人とも若い女性でした。たまたまだったのはわかりますが、世も末だなと感じました。また、どんな教育を受けたらこうなるのだろうと思ってしまいました。自分優先、権利優先、私利優先の浅ましさを感じてしまいました。そして、それは、親の世代の教育の問題だろうとも思いました。

しばらくして、その20歳ぐらいの女性は降りていき、空いた席を前に、私は立ったままでした。そんなことがあった席だから、私は何となく座りたくないなと思っていたのでしょうか。そもそも昭和の男は優先席には座らないぞという見栄と心意気があります。

そしたら、今度は若い男性が来て何か言っています。今時の若者らしく、滑舌が悪くて聞き取りにくかったのですが、「ここ、いいっすか?」と自分が座りたい意思表示でした。私は軽く「どうぞ」と言いました。心の中で苦笑しつつ。まぁ、さっきの小学生みたいにダッシュする女性よりましかと。

私はお年寄りを大切にし、席を譲る人間でありたいと心から思いました。心身を鍛えるために、できるだけ電車の中では立っていようと改めて思いました。

ん?

しかし、考えてみれば、既に私は還暦を二年も過ぎた爺でした。席は譲られる側なのかも知れません。しかもいつものように20㎏超の重さのキャリーバックを持っています。手にはキャリーバックだこが出来ています。

今時の若者は、などと言うつもりはありません。私が共に学んでいる若者たちは素晴らしい若者たちです。じじいは、もっと爺らしく、日頃から、嫌みの一つも言わなければならないのだろうか?と思った次第です。

勿論、そんなことはしませんけどね。あくまでも範を示し、共に学ぶ者でありたいと思います。

 

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小郡寺子屋「志学舎」三期生・入塾式

2024年07月20日 | Weblog

明日は、否、本日は、小郡寺子屋「志学舎」の第3期生入塾式です。全力でこの寺子屋の意義をお伝えしようと思います。

私は、教育が良くなるということは、あるいは、教育の成果とは、一人一人の子どもの姿が変わるということだと考えています。

大人が何をしたか、ではないのです。ともすれば、仕組みを変えたり、機器を導入することをもって、教育の成果とすることが多々あります。それは、行政の成果としてはその通りです。

しかし、教育者の仕事はそうではありません。良い点数をテストで取ること、偏差値を上げることが教育の目的ではありません。

私の寺子屋では、その子の、何気ない立ち居振る舞い、目の輝き、言葉の強さや、自分の考えを持っているか否か、そうしたことを大切にし、成長の尺度としています。

 

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志の教育

2024年07月16日 | Weblog

私はあまり声高に志の大切さを叫びたくはありません。これほどに手垢のついた、誤解されやすい言葉は無いからです。

ただ、言えることは、佐藤一斎、吉田松陰、橋本左内と言った先人たちの言葉の重みに静かに耳を傾けようという事ぐらいです。

後は、眉間にしわ寄せて「志を持たねば!」と言うのではなく、「志があると、めちゃくちゃ楽しい!」「自分も楽しいし、周囲の人たちに役立つし、感謝もしていただける!」という感じを目指しています。

世のため人のために生きるということは、そういうことだと思います。

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自嘲

2024年07月16日 | Weblog

人生の時間は有限です。日々を全力で生きなければ私など何事も為すことなく人生が終わってしまいます。能力がないから努力でカバーするしかないだけのことですが、その現実から目を背けずに立ち向かっていく自分でありたいと思います。しかし、それでも大したことはできないものだなぁと、自嘲している私がいます。

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私の歩むべき道

2024年07月16日 | Weblog

ただ地道に、ただ静かに、自分のやるべき事をやる。

誰に知られずとも、認められずとも、粛々と己の道を歩み続ける。それが教育者の歩むべき道だと思います。

願わくば、何か少しでも良い影響を一人でも多くの人に与えることが出来たら、それが教育者としての幸せな人生だと言えるのだろうと思います。

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教養

2024年07月13日 | Weblog

教養というものが軽んじられるようになってずいぶんと時が経ちました。大学の教養学部というものも消えてなくなってから久しくなりました。大学で学ぶ一般教養も、「パンキョウ(般教)」と言われる程度のものになり。教養のある人がずいぶん少なくなってしまったと思います。

教養の定義はなかなか難しいと思いますが、知識がその人の知性となり人格となるような学び方をしている人が、教養のある人ということになるのだと思います。いくらクイズに答えられるような知識がたくさんあろうとなかろうと、それがその人の品位品格を高める物になっていなければ、教養人として他人からの尊敬も得られないと思います。例えば、法的な知識がいくらあったとしても、法の網をかいくぐるようなことばかりしていれば、その人が、教養のある人として、人からの尊敬を集めることはないのだろうと思います。

「あの人は教養が無いよね」あるいは、「あの人は教養があるよね」と言われるのは、そこに何があるのかを改めて考えてみたいものです。

 

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石丸現象

2024年07月11日 | Weblog

7月7日に行われた東京都知事選挙では、前広島県安芸高田市長の石丸伸二氏が165万票もの得票を記録し、次点となりました。無所属で政党の推薦や支援を受けずに立候補した候補としては、異例の大量得票だということで、様々な分析や、些末なところでの批判、非難、揚げ足取りなどの声が聞こえてきています。

政治については、このブログで書くことはありませんでしたが、教育にも通じることなので、少し感想を書きたいと思います。

まず、何に人々が反応したかと言えば、「言葉の力」であると思います。それは、忖度も無く、取引、駆け引きも無い、真っ直ぐな信念のある言葉に反応したのだと思います。少なくとも私はそうです。政治家の言葉、官僚の言葉は、常に言質を取られぬよう、当たり障りの無いことしか言わないから、そこに全く真実を感じないし、辟易としていました。それが無いのが良いと思いますし、人々に強い印象を与えたのだと思います。常に何かに気を遣い、奥歯に物の挟まったような言い方に、私もうんざりしています。

次に、発言のスタンスから、自分のことを全く省みておらず私心が無いこと、すべては日本の未来を考えての言動だということが伝わってくるところも、私はとても良いと感じます。私利私欲、党利党略、既得権益、自身の評価、そうしたことを全く意に介さない姿に、私は新しい政治への希望を感じました。自分の地位、収入、肩書き、一切を気にせず、全く保身の意識が無いところが良いと思います。

論理の厳しさを非難する向きもありますが、私は、国際社会で生きていくためには、当然、必要なことだと思います。人情や懐の広さの不足を言う向きもありますが、41歳の、ある意味若者です。尖っていて良いと思いますし、十分に温かい心もユーモアもあると感じます。そうしたことが読み取れない人が多いのが、私には不思議です。

メディアは、いつも尖った若者が出てくることを期待する言説を述べていますが、いざ出てくると、袋だたきにするのかと苦笑してしまいます。それは、政治家の言葉も、メディアの言葉も、その本質が同じであることを意味しています。ステレオタイプ、予定調和が好きなのだろうと思ってしまいます。

長いものに巻かれ、正義面はするが、保身に走り、捨て身になることはない。そうした不誠実な姿に若者たちは嫌気がさしているのだと思います。私は若者ではありませんが、そう思っています。また、足して二で割る式の結論の出し方にも、正しさや民主的なるものは感じません。それで日本の危機に対応できるとも思えません。必要なのは、自分の判断力と決断力なのだと思います。

そして、教育界も大切なことは同じだと思います。誠実であること、言葉の力を取り戻すこと、私心無く、日本の未来のために力を尽くすこと。教育は実践でしかありませんから、無駄な評論をすること無く、自分の判断力と決断力で、全力で教育実践を形にしていきます。

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プライベート②

2024年07月10日 | Weblog

プライベートについて書いたのですが、誤解を沢山招くと思っています。なぜなら、それは、62歳になった今の時点での私の考え方だからです。昔、子どもたちが、まだ小さかった頃には、勿論、そうはいきません。プライベートの時間が大切なものであることは言うまでもありません。

何かを語るときに難しいのは、人は、自分の経験と今の立ち位置からしか物を言えないということです。そこに誤解や行き違いが生まれます。発信する側も、受信する側も、自分の枠組みでしかものを見ることが出来ないからです。

歴史についても同様です。今の価値観で過去の人たちの言動を裁いてはいけないと思います。その時代には、その時代の社会状況と価値観があったからです。逆に、過去の価値観で今の人たちの言動を裁くことも難しいのだと思います。特にこの場合、過去と言っても、どこの時代に立脚するかで大きく判断基準は違ってきます。だから正確に議論することが大切になるのだと思います。

例えば、「男子厨房に入らず」という言葉が男尊女卑を示すかのように言われることがあります。しかし、信長の時代に日本に来たルイス・フロイスの日記を読むと、「男性しか厨房に立って料理をしなかった。これは、われわれヨーロッパ人とは逆である。」というような言葉が記されています。「日本は」「ヨーロッパは」というけれど、いつの時代を切り取って物を言っているかによって、物の見方は大きく異なるものだと思います。

だから、何が正しいかということもあるでしょうが、今の私たちにとって、「何が大切か」を考えて行くしかないように思います。そして、それは、いつの時代も利己的であってはならないものだと思います。

 

 

 

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