『サンデル教授の対話術』より
あなたが講義で自分の意見をほとんど言わない理由は何ですか。
私の立場、“こういった事柄を私かどう見るか”について、学生たちには率直に知ってもらいたいと思っています。異議を唱えるのは自由ですし、実際に多くの学生はそうします。そして、私たちはとてもいい議論を行えるのです。
ある問題に関して、そゐそも問題が何も無いと感じている人は、対話に参加しません。こうした学生を日常の問題に関しても積極的に関わるように促す方法はありますか。
民主的社会におげる公共的言論のレベルを上げるために、私たちかできることは数多くあると思います。確かにアメリカにおいては、私の見解では、公共の場での議論は比較的低いレベルにあると思います。重要な問題についての関心は高くなく、政治において道理にかなった意見は、あるべき数よりも非常に少なくなっています。私の印象では、これは多くの民主的社会においても同様です。
私たちがすべきことの一つは、民主的な企てを再び活性化する手段として、この社会における公共的言論の質を高めることだと思います。その面において、教育機関は特に大きな役割を担うでしょう。学生には、公民的教育によって備えがなされなければなりません。つまり、彼らは大学在学中にこうした社会の大きな問題と向き合わなければならないのです。
メディアが担う役割も大きいと思います。公共の場での言論の質は、部分的にはメディアが何を提供し、要求し、示すかによるからです。多くのメディアは、怒鳴り合いのような争論や、視野の狭い議論を取り上げます。私は、メディアは、真剣な議論と礼節に基づいて意見の不一致を明らかにするための場を提供する必要かあると思います。
最後に、政党も公共的言論の質を高める上で重要な役割を担っていると思います。しかし、国民がそれを要求するまでは、達成されるとは思いません。つまり、教育機関やメディアか、より良く、高尚な公共的言論を作り出せるかにかかっているのです。
教師にとって、学生たちを授業に集中させることはとても重要です。あなたはどのようにして今のスタイルを思いついたのですか。
一つ実践的なアドバイスをしましょう。これは、私の専門の政治哲学だけではなく、すべての科目に当てはまる一般的なことです。
私は、教えることの非常に重要な部分は聴くことだと思っています。私たちは、教えることとは、学生たちに情報を与えて彼らに講義をし、時には説教をすることだとさえ考えがちです。しかし私は、教えることの重要な部分の多くには、聴くことが深く関わっていると思います。
学生に講義している時、私は頭のなかで自分が提示したい議論や題材の順番について考えています。講義中のソクラテス的対話のなかで学生が提示した議論やその理由を聴いている時にも、私は、“話している学生は自分では十分に明確に表現できていないけれども、その学生の意見の背後にある理由は何だろうか”と耳を澄ましています。学生の意見の背後にある、正に根本的な思想であるかもしれないものに近付けるよう、学生の答えを多少言い換えることもあります。
聴くことに関して、教師の立場からは、もうひとつ重要な点があります。それぱ、今説明したような、行ったり来たりしながら議論を表すこととは関係ありません。
それは、こういうことです。講義があまりうまく進んでいなくて、学生たちが混乱したり、退屈したりしている時、私はそれにすぐに気か付きます。なぜだと思いますか。講義がそのような状況の時は、学生がやたらに咳をしたり、足をちょっと動かすなどの音が教室内で聴こえてくる″のです。以前は、咳は無意識の反射作用だと思っていましたか、そうではありません。なぜなら、私がうまく講義を進めていて、学生たちも講義に没頭して注意深く聴いている時は、誰も咳をしないからです。私かあまりうまく講義をできていなくて、学生だちか退屈したり、混乱している時は、ものの二、三分で咳が聴こえてきたり、足を組み替えたりする学生か出てきます。突然、紙が動いたり、笑い声も聴こえてきます。
その意味では、学生とのアイコンタクトも、重要なヒントとなります。これは、私は教師として常日頃よく感じていることで、すべての教師に当てぱまるに違いないと思います。教師が、丿目分か学生と通じ合っているかどうか、学生が理解しているかどうか″を確かめるには、学生の目を見ればわかります。これは、科目にかかわらずー自然科学でも、哲学や歴史などの人文科学でも、また初等教育であっても-1当てはまる一般的なアドバイスです。
あなたが講義で自分の意見をほとんど言わない理由は何ですか。
私の立場、“こういった事柄を私かどう見るか”について、学生たちには率直に知ってもらいたいと思っています。異議を唱えるのは自由ですし、実際に多くの学生はそうします。そして、私たちはとてもいい議論を行えるのです。
ある問題に関して、そゐそも問題が何も無いと感じている人は、対話に参加しません。こうした学生を日常の問題に関しても積極的に関わるように促す方法はありますか。
民主的社会におげる公共的言論のレベルを上げるために、私たちかできることは数多くあると思います。確かにアメリカにおいては、私の見解では、公共の場での議論は比較的低いレベルにあると思います。重要な問題についての関心は高くなく、政治において道理にかなった意見は、あるべき数よりも非常に少なくなっています。私の印象では、これは多くの民主的社会においても同様です。
私たちがすべきことの一つは、民主的な企てを再び活性化する手段として、この社会における公共的言論の質を高めることだと思います。その面において、教育機関は特に大きな役割を担うでしょう。学生には、公民的教育によって備えがなされなければなりません。つまり、彼らは大学在学中にこうした社会の大きな問題と向き合わなければならないのです。
メディアが担う役割も大きいと思います。公共の場での言論の質は、部分的にはメディアが何を提供し、要求し、示すかによるからです。多くのメディアは、怒鳴り合いのような争論や、視野の狭い議論を取り上げます。私は、メディアは、真剣な議論と礼節に基づいて意見の不一致を明らかにするための場を提供する必要かあると思います。
最後に、政党も公共的言論の質を高める上で重要な役割を担っていると思います。しかし、国民がそれを要求するまでは、達成されるとは思いません。つまり、教育機関やメディアか、より良く、高尚な公共的言論を作り出せるかにかかっているのです。
教師にとって、学生たちを授業に集中させることはとても重要です。あなたはどのようにして今のスタイルを思いついたのですか。
一つ実践的なアドバイスをしましょう。これは、私の専門の政治哲学だけではなく、すべての科目に当てはまる一般的なことです。
私は、教えることの非常に重要な部分は聴くことだと思っています。私たちは、教えることとは、学生たちに情報を与えて彼らに講義をし、時には説教をすることだとさえ考えがちです。しかし私は、教えることの重要な部分の多くには、聴くことが深く関わっていると思います。
学生に講義している時、私は頭のなかで自分が提示したい議論や題材の順番について考えています。講義中のソクラテス的対話のなかで学生が提示した議論やその理由を聴いている時にも、私は、“話している学生は自分では十分に明確に表現できていないけれども、その学生の意見の背後にある理由は何だろうか”と耳を澄ましています。学生の意見の背後にある、正に根本的な思想であるかもしれないものに近付けるよう、学生の答えを多少言い換えることもあります。
聴くことに関して、教師の立場からは、もうひとつ重要な点があります。それぱ、今説明したような、行ったり来たりしながら議論を表すこととは関係ありません。
それは、こういうことです。講義があまりうまく進んでいなくて、学生たちが混乱したり、退屈したりしている時、私はそれにすぐに気か付きます。なぜだと思いますか。講義がそのような状況の時は、学生がやたらに咳をしたり、足をちょっと動かすなどの音が教室内で聴こえてくる″のです。以前は、咳は無意識の反射作用だと思っていましたか、そうではありません。なぜなら、私がうまく講義を進めていて、学生たちも講義に没頭して注意深く聴いている時は、誰も咳をしないからです。私かあまりうまく講義をできていなくて、学生だちか退屈したり、混乱している時は、ものの二、三分で咳が聴こえてきたり、足を組み替えたりする学生か出てきます。突然、紙が動いたり、笑い声も聴こえてきます。
その意味では、学生とのアイコンタクトも、重要なヒントとなります。これは、私は教師として常日頃よく感じていることで、すべての教師に当てぱまるに違いないと思います。教師が、丿目分か学生と通じ合っているかどうか、学生が理解しているかどうか″を確かめるには、学生の目を見ればわかります。これは、科目にかかわらずー自然科学でも、哲学や歴史などの人文科学でも、また初等教育であっても-1当てはまる一般的なアドバイスです。