『128億年の音楽史』より 宇宙という音楽 はじめに「音」があった ⇒ ビッグバンから137億9千万年だから、切り上げて138億年と言っている。1千万年ってすごくない。
プトレマイオスと学術都市アレクサンドリア
舞台は、二世紀のアレクサンドリア。ここで十数年間、星を眺めていたことだけが伝えられる、ひとりの男がいる。その名は、クラウディオス・プトレマイオス。彼については、生年も没年もわかっておらず、ただ一二七年から一四一年にかけて、アレクサンドリアで天文観測を行った記録が残っているだけだ。わずか十数年間、星を眺めたことだけで知られる男とは、なんともカッコいいではないか。
アレクサンドリアは、地中海の知の聖地であった。世界中からありとあらゆる叡智がここに集結した。古代世界最大の学術都市は、ローマでもアテナイでもなく、アフリカ大陸の地中海沿岸に、紀元前四世紀に建設された都市、アレクサンドリアだったのだ。
この街の象徴は、世界七不思議のひとつに数えられたフアロス島の大灯台と、アレクサンドリア宮殿に付随するムセイオンと呼ばれた研究機関と図書館。当時地球上で最も高い建造物といわれたフアロス灯台に導かれて、港には世界中からあらゆる交易品が運び込まれ、研究機関ムセイオンには、世界中から選りすぐりの知性が集結して、互いに切磋琢磨しながら研究が行われていた。研究者は、エジプト人、ギリシャ人、ローマ人、ガリア人、バビロニア人、ペルシャ人、ユダヤ人、フェニキア人など。研究分野は、幾何学、天文学、音楽、哲学、工学、医学、解剖学、占星術、地理学、神学、錬金術など。まさに古代世界最大の知のシンクタンクである。
アレクサンドリア図書館には、遠くはインドからも文字で書かれたものはすべて収集されたという。最盛期の蔵書数は約七〇万冊。まだ印刷技術もない紀元前の話だということをお忘れなく。創設から七世紀という永きにわたって、この図書館は、世界一の知の宝庫であり続けた。この地位は、アレクサンドリアがローマ帝国に支配されたのちも変わることはなく、ローマにとって、この街は「知恵袋」ともいえる存在だった。たとえば、カエサルがローマで制定したユリウス暦(一年をはじめて三六五日とした画期的な暦)は、アレクサンドリアのムセイオンで、ソシゲネスの研究によって発明されたものだ。
もし、この図書館がなければ、ピュタゴラスだけでなく、ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、彼ら古代ギリシャの賢者たちの業績は、歴史の闇に永遠に消え去っていたかもしれない。そうなれば、いまのヨーロッパが誇る知の体系の根幹はどうなっていたことか。
プトレマイオスとハルモニア論
プトレマイオスが古代天文学の完成者といわれるのは、宇宙のすべての運動について、完全な説明を加えることができた最初の天文孚者だったからだ。彼による精緻な宇宙モデルは、コペルニクスの地動説が出現するまで、じつに二四〇〇年以上にわたって西洋天文学のスタンダードであり続けた。
アラビア語で「もっとも偉大なもの」を意味する『アルマゲスト』という名で知られる、プトレマイオスの天文学書には、四八の星座を構成する一〇二二個もの星の膨大なデータが収められているという。この驚異的な情報量と緻密な宇宙モデルは、天文学者としての彼の功績には間違いないが、それを支えた当時のアレクサンドリアの天文学界のレベルが、いかに高かったかを示している。
彼の地理学者としての名声も特筆すべきものだ。特に、都市の緯度と経度が記された史上初の地理書といわれる『ゲオグラフィア』の奇跡的な発見の物語などは、まるで歴史ミステリーだ。本題から逸れるので、簡単なあらすじだけを書いておくと、『ゲオグラフィア』は、世界中のあらゆる都市の地理的特徴が網羅された奇跡の書と伝えられていたが、アレクサンドリア図書館の破壊によって写本も失われたと思われていた。ところが、十数世紀を経て、遠く離れたコンスタンチノープルで東方正教会の修道士に発見され、大航海時代を迎えようとしていた中世ヨーロッパにラテン語訳がもたらされると、その地理学的思考に革命をもたらし、まさに時代の「道しるべ」となったのだ。
そして、もう一冊。最晩年のプトレマイオスが書いた未完の書が『ハルモニア論』である。このなかでプトレマイオスは、彼自身が「完全音階」と呼んだ惑星音階のシステムから天体運動の原理を解明しようとした。簡単にいえば、太陽の軌道(黄道十二宮)を音階の一二の音に対応させようとしたのだ。この書の冒頭で、プトレマイオスは「ハルモニア論は、さまざまな音の高さの差を把握する能力である」という、あっけないほど簡単な定義を与えているが、彼が描いた宇宙モデルは、シンプルな定義とは対照的に、極めて精巧で複雑だ。たとえば、地球を中心に円運動をする天球層のほかに、各々の惑星が個別に円を描く周転円を組み合わせた複雑な惑星運動モデルが構築されているが、その結果、じつに八〇もの天球層を持つ、複雑な宇宙モデルとなっている。
のちに、このモデルをもっとシンプルにできるはずだと考えたコペルニクスが、別の宇宙モデルを模索するなかで「地動説」の発見につながったというエピソードもあるが、この『ハルモニア論』に触発されて、プトレマイオスから、ピュタゴラス、プラトンまでを包括した天球の音楽史に燦然と輝く体系を確立させたのが、一六世紀後半に登場したヨハネス・ケプラーである。
悲惨と飢餓を歌う地球
ケプラーの生涯は、嵐のような宗教闘争の真っただなかにあった。彼が生まれたのは、一五七一年一二月二七日午後二時三〇分。母親が彼を身寵もったのが、同年五月一六日午前四時三七分。胎内にあった時間は、二二五日と九時間五三分。これはすべてケプラー自身の記録に基づくもので、ホロスコープによる緻密な計算と、正確さを追求する姿勢は、いかにも計算に細かい天文学者らしいといえるが、見方を変えれば、ただの変人である。
プロテスタントだった彼は、カトリックのプロテスタント弾圧により、幾度となく職を剥奪され、街を追われるという苦い経験を味わう。歴史の教科書では、一五五五年のアウクスブルクの和議によって、プロテスタントがドイツ地域で容認されたことになっているが、実際には、各々の信仰が容認されたのは領主だけで、領民たちは領主の選択に振り回されるという混乱のなかにあったという。ケプラーが生まれた翌年には、フランスで聖バーソロミューの虐殺という、大勢のプロテスタントがカトリックによって虐殺されるという凄惨な事件も起きている。
同じキリスト教から分裂した両派は、まるで不倶戴天の仇のような泥沼の闘いのなかで、ヨーロッパを混乱の渦に巻き込み、社会は疲弊していく。その暗澹たる時代を象徴するかのような記述が、『宇宙の調和』のなかに見られる。惑星の極限運動(遠・近日点の両極運動の意)を旋律のような音型に置き換えて解説している部分である。
たとえば、地球は、MI FA MI(ミ・フア・ミ)という音型で表されるが、これについてケプラーは「地球は、ミ・ファ・ミと歌うので、この音節からも、われわれの住む地が、悲惨と飢えに支配されていると考えられる」と解説している。これは「ミ」と「ファ」のふたつが、ラテン語で「悲惨」を意味する「miseria」と、「飢餓」を意味する「fames」の頭文字であることからきている。
晩年、ケプラーは死の床で「私はプロテスタントとカトリックを取りまとめるためにできるだけのことはした」と語ったと伝えられるが、それを聞いたプロテスタントの牧師は「キリストとサタンを和解させるようなものだ」と冷たく答えたという。このケプラーのことばに、なぜ、彼が自身の思索の集大成として『宇宙の調和』を自身の天文学体系として著そうとしたか、その意図が隠されているような気がする。
『宇宙の調和』を執筆中のケプラーは、魔女の疑いで告発された母親のための裁判や、娘カテリーネの死、教会からの破門という嵐のような現実のなかを生きていた。この本は、一般には「惑星の公転周期の二乗と太陽からの平均距離の三乗は比例する」というケプラーの第三法則が示された書として理解されている。だが、天動説から地動説へという、それこそ天地がひっくり返るような激動の時代にあって、宇宙と調和という古代宇宙論から近代天文学を貫くテーマによる天球の音楽の体系書としてあらためて読み解けば、宇宙をひとつのシンフォニーと考えた彼の壮大な構想が透けてみえてくるように思える。
ケプラーにとって、音楽とは何か。もし、この問いを本人に投げかけてみたら、きっと「調和そのものである」という答えが返ってくるに違いない。
プトレマイオスと学術都市アレクサンドリア
舞台は、二世紀のアレクサンドリア。ここで十数年間、星を眺めていたことだけが伝えられる、ひとりの男がいる。その名は、クラウディオス・プトレマイオス。彼については、生年も没年もわかっておらず、ただ一二七年から一四一年にかけて、アレクサンドリアで天文観測を行った記録が残っているだけだ。わずか十数年間、星を眺めたことだけで知られる男とは、なんともカッコいいではないか。
アレクサンドリアは、地中海の知の聖地であった。世界中からありとあらゆる叡智がここに集結した。古代世界最大の学術都市は、ローマでもアテナイでもなく、アフリカ大陸の地中海沿岸に、紀元前四世紀に建設された都市、アレクサンドリアだったのだ。
この街の象徴は、世界七不思議のひとつに数えられたフアロス島の大灯台と、アレクサンドリア宮殿に付随するムセイオンと呼ばれた研究機関と図書館。当時地球上で最も高い建造物といわれたフアロス灯台に導かれて、港には世界中からあらゆる交易品が運び込まれ、研究機関ムセイオンには、世界中から選りすぐりの知性が集結して、互いに切磋琢磨しながら研究が行われていた。研究者は、エジプト人、ギリシャ人、ローマ人、ガリア人、バビロニア人、ペルシャ人、ユダヤ人、フェニキア人など。研究分野は、幾何学、天文学、音楽、哲学、工学、医学、解剖学、占星術、地理学、神学、錬金術など。まさに古代世界最大の知のシンクタンクである。
アレクサンドリア図書館には、遠くはインドからも文字で書かれたものはすべて収集されたという。最盛期の蔵書数は約七〇万冊。まだ印刷技術もない紀元前の話だということをお忘れなく。創設から七世紀という永きにわたって、この図書館は、世界一の知の宝庫であり続けた。この地位は、アレクサンドリアがローマ帝国に支配されたのちも変わることはなく、ローマにとって、この街は「知恵袋」ともいえる存在だった。たとえば、カエサルがローマで制定したユリウス暦(一年をはじめて三六五日とした画期的な暦)は、アレクサンドリアのムセイオンで、ソシゲネスの研究によって発明されたものだ。
もし、この図書館がなければ、ピュタゴラスだけでなく、ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、彼ら古代ギリシャの賢者たちの業績は、歴史の闇に永遠に消え去っていたかもしれない。そうなれば、いまのヨーロッパが誇る知の体系の根幹はどうなっていたことか。
プトレマイオスとハルモニア論
プトレマイオスが古代天文学の完成者といわれるのは、宇宙のすべての運動について、完全な説明を加えることができた最初の天文孚者だったからだ。彼による精緻な宇宙モデルは、コペルニクスの地動説が出現するまで、じつに二四〇〇年以上にわたって西洋天文学のスタンダードであり続けた。
アラビア語で「もっとも偉大なもの」を意味する『アルマゲスト』という名で知られる、プトレマイオスの天文学書には、四八の星座を構成する一〇二二個もの星の膨大なデータが収められているという。この驚異的な情報量と緻密な宇宙モデルは、天文学者としての彼の功績には間違いないが、それを支えた当時のアレクサンドリアの天文学界のレベルが、いかに高かったかを示している。
彼の地理学者としての名声も特筆すべきものだ。特に、都市の緯度と経度が記された史上初の地理書といわれる『ゲオグラフィア』の奇跡的な発見の物語などは、まるで歴史ミステリーだ。本題から逸れるので、簡単なあらすじだけを書いておくと、『ゲオグラフィア』は、世界中のあらゆる都市の地理的特徴が網羅された奇跡の書と伝えられていたが、アレクサンドリア図書館の破壊によって写本も失われたと思われていた。ところが、十数世紀を経て、遠く離れたコンスタンチノープルで東方正教会の修道士に発見され、大航海時代を迎えようとしていた中世ヨーロッパにラテン語訳がもたらされると、その地理学的思考に革命をもたらし、まさに時代の「道しるべ」となったのだ。
そして、もう一冊。最晩年のプトレマイオスが書いた未完の書が『ハルモニア論』である。このなかでプトレマイオスは、彼自身が「完全音階」と呼んだ惑星音階のシステムから天体運動の原理を解明しようとした。簡単にいえば、太陽の軌道(黄道十二宮)を音階の一二の音に対応させようとしたのだ。この書の冒頭で、プトレマイオスは「ハルモニア論は、さまざまな音の高さの差を把握する能力である」という、あっけないほど簡単な定義を与えているが、彼が描いた宇宙モデルは、シンプルな定義とは対照的に、極めて精巧で複雑だ。たとえば、地球を中心に円運動をする天球層のほかに、各々の惑星が個別に円を描く周転円を組み合わせた複雑な惑星運動モデルが構築されているが、その結果、じつに八〇もの天球層を持つ、複雑な宇宙モデルとなっている。
のちに、このモデルをもっとシンプルにできるはずだと考えたコペルニクスが、別の宇宙モデルを模索するなかで「地動説」の発見につながったというエピソードもあるが、この『ハルモニア論』に触発されて、プトレマイオスから、ピュタゴラス、プラトンまでを包括した天球の音楽史に燦然と輝く体系を確立させたのが、一六世紀後半に登場したヨハネス・ケプラーである。
悲惨と飢餓を歌う地球
ケプラーの生涯は、嵐のような宗教闘争の真っただなかにあった。彼が生まれたのは、一五七一年一二月二七日午後二時三〇分。母親が彼を身寵もったのが、同年五月一六日午前四時三七分。胎内にあった時間は、二二五日と九時間五三分。これはすべてケプラー自身の記録に基づくもので、ホロスコープによる緻密な計算と、正確さを追求する姿勢は、いかにも計算に細かい天文学者らしいといえるが、見方を変えれば、ただの変人である。
プロテスタントだった彼は、カトリックのプロテスタント弾圧により、幾度となく職を剥奪され、街を追われるという苦い経験を味わう。歴史の教科書では、一五五五年のアウクスブルクの和議によって、プロテスタントがドイツ地域で容認されたことになっているが、実際には、各々の信仰が容認されたのは領主だけで、領民たちは領主の選択に振り回されるという混乱のなかにあったという。ケプラーが生まれた翌年には、フランスで聖バーソロミューの虐殺という、大勢のプロテスタントがカトリックによって虐殺されるという凄惨な事件も起きている。
同じキリスト教から分裂した両派は、まるで不倶戴天の仇のような泥沼の闘いのなかで、ヨーロッパを混乱の渦に巻き込み、社会は疲弊していく。その暗澹たる時代を象徴するかのような記述が、『宇宙の調和』のなかに見られる。惑星の極限運動(遠・近日点の両極運動の意)を旋律のような音型に置き換えて解説している部分である。
たとえば、地球は、MI FA MI(ミ・フア・ミ)という音型で表されるが、これについてケプラーは「地球は、ミ・ファ・ミと歌うので、この音節からも、われわれの住む地が、悲惨と飢えに支配されていると考えられる」と解説している。これは「ミ」と「ファ」のふたつが、ラテン語で「悲惨」を意味する「miseria」と、「飢餓」を意味する「fames」の頭文字であることからきている。
晩年、ケプラーは死の床で「私はプロテスタントとカトリックを取りまとめるためにできるだけのことはした」と語ったと伝えられるが、それを聞いたプロテスタントの牧師は「キリストとサタンを和解させるようなものだ」と冷たく答えたという。このケプラーのことばに、なぜ、彼が自身の思索の集大成として『宇宙の調和』を自身の天文学体系として著そうとしたか、その意図が隠されているような気がする。
『宇宙の調和』を執筆中のケプラーは、魔女の疑いで告発された母親のための裁判や、娘カテリーネの死、教会からの破門という嵐のような現実のなかを生きていた。この本は、一般には「惑星の公転周期の二乗と太陽からの平均距離の三乗は比例する」というケプラーの第三法則が示された書として理解されている。だが、天動説から地動説へという、それこそ天地がひっくり返るような激動の時代にあって、宇宙と調和という古代宇宙論から近代天文学を貫くテーマによる天球の音楽の体系書としてあらためて読み解けば、宇宙をひとつのシンフォニーと考えた彼の壮大な構想が透けてみえてくるように思える。
ケプラーにとって、音楽とは何か。もし、この問いを本人に投げかけてみたら、きっと「調和そのものである」という答えが返ってくるに違いない。
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