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街の本屋に求められる「土づくり」とは

『マイクロ・ライブラリ』より なぜ本屋がコミュニティをつくるのか

いま、街の本屋にとっては本当に厳しい時代です。だから、街の中にあることを活かして、リアルな店舗でしかできないことを徹底してやっていかなければならない。僕は、本を通してお客様とコミュニケーションを図ることによって街を活性化することが大事だと考えています。これはいってみれば街における「土づくり」のようなものです。肥料に依存するのでなく、土そのものの力、言い換えればまず街そのものの力をつけることが大切です。街中で本をテーマにしたイベントをしたり、まちライブラリーの立ち上げに加わったりしながら、「街の本屋っていいな」「街には本のある空間が必要だな」という気分を醸成し、例えば若い人が、「本屋をやってみたい」と思ったら街中で本屋を支えるような環境を作っていきたいと思っています。

これは、二〇〇四年に東大阪で始めた二〇坪程の小さな本屋での経験が大きく影響しています。店を始めた頃、来店したお客様から本の在庫を聞かれ、取寄せに二週間ほどかかると答えると、「ほな、頼むわ」と言われました。おかしいなあと思い、僕が、「いや二週間ですよ、場合によっては三週間になるかもしれないし、紀伊國屋だったらすぐ手に入りますよ」と言うと、「そんなとこ行くのかなわんな、二週間経ったら入るんやろ、頼むな」と注文して帰っていきました。僕は、難波の高島屋で、売り場面積が一二○坪、レジも八ヶ所ある、いわゆる繁盛店を経営していた経験から、お客様はスピードを求めるものと思い込んでいたことに気付きました。また、この店では、様々な音楽雑誌を一、二冊ずつですが各種必ず置いていました。ある時店にいると、若い主婦が「近所のスーパーにある大きな書店より、ここの方が音楽雑誌の種類が豊富」と言う声が聞こえてきました。彼女は常連になってくれ、どんなに小さくても自分の身近にある本屋に期待してくれているんだと、そのときに気付かされました。街から本屋がなくなったら、小学一年生も電車に乗って遠くまで買いに行かなければならない。それは失くしたらいかんな、と思ったわけです。

で現実的には、どうしたらいいのか。僕は、まず、自分たちのマーケットを広げていかなければならないと思っています。つまり、本を読まない人が増えているわけですから、離れてしまった人たちに対してどのようにしてアプローチするか、です。「本の品揃えがいい」と言っても、そもそも本屋に行く習慣のない人たちには全く通じません。だから僕は、これまでとは違う切り口、方法で、どうしたら本に親しんでもらえるかを必死で考えたいと思います。

「なんだか面白いことをやっている」と感じてもらえたら、次は、どうしたら本を買っていただけるかです。スタンダードブックストアでは、カフエだけを利用するお客様もいらっしゃいますから、本を手にとっていただけるように工夫していかなければならない。また、店の中に一歩入っただけで「お、なんだろう」と思ってもらえるよう、視覚に訴えることも必要です。それは、決して売れている本ばかり置くことではありません。立地のいい本屋や大規模書店と同じことをやっていても勝ち目はないでしょう。小さい本屋は、他の店にない本、店に置いてあるけれどみんなが面白さに気づいていない本を揃えるなど、こちらから積極的に仕掛けていかなければならない。街の本屋がそれぞれの特徴を活かし、互いに補い合う関係であってもいいと思います。一番危険なことは、お客様の期待に応えるために何でも揃えようとし、便利そうな店になってしまうこと。それは、お客様にとっては「欲しいものがない店」なのだと思います。

けれども、小さな街の本屋を専業で続けることは、利益率も低く大変厳しい。僕も、スタンダードブックストアを始めると、タイプの違う店をいくつも運営できず、結局は東大阪の店を閉めてしまいました。こうした二〇坪程の小さな店は、一旦閉めてしまうと本屋として再開することは難しい。一から本屋を始めるとなると内装資金も必要でしょうし、取次との関係を考えると、月三〇〇万円程度(あるいはそれ以上?)の売上がないと続かないでしょう。そこで、僕は、こうした本屋が続けられるような仕組み、例えば、本屋の店主が独立心とやる気のあるスタンダードブックストアで表現したいこと若い人に店の経営権を譲ることによって、彼らに店を任せることができないかと思っています。取次も売上を確保でき、店主も多少の家賃がもらえる。カフェを併設し、グッズも扱うことで粗利益率を改善し、また街の人たちが集う場所として機能すれば街にとってプラスになるはずです。大儲けする必要はない、関わる人たちの仕事がうまく噛み合い、続いていくことが大切だと思います。

僕は、スタンダードブックストアを特別おしゃれな店にしたいとは思ってませんが、「行くことを自慢したくなる本屋」にしたいと思っています。品揃えはもちろん、棚の並べ方や照明の明るさ、スタッフの立ち居振る舞いなど全てが混ざり合ってそれが店として認識されるのですが、大切なことは、僕自身の考えやスタイル、やりたいことについてスタッフと話をし、共有することだと考えます。僕は、スタッフには極力ルールを設けず、常識的な範囲でゆるゆるでやってほしいと思っており、これは僕自身がそうしたいからですし、お客様にもそうあってほしい。「組織化」というのはちょっと気持ちが悪い、緩やかな関係がいいと感じています。それがスタンダードブックストアの「居心地の良さ」かもしれません。デザイナーのナガオカケンメイさん曰く、「いい店の条件は、店の親父の顔が見えること」、店が二つある場合は、「片腕みたいな分身がいたらいい」のだそうです。確かに、僕のやりたいことをスタッフみんなに理解してもらえると、店の雰囲気にも現れるのだと本当に思います。当たり前ですが、お客様がいて店のカタチが見えてくる。ある時、徹夜明けでお客様のいないカフェにたった一人でいたら、カフェがいつもと全然違う場所に感じられ、「お客様がいての店なのだ」と実感したことがあります。例えば、クレームばかり言う人、マナーの悪い人が来るということは、実はお店が悪いのではないか。そういうことをしてしまう雰囲気に店がなっているのではないか。自分たちが思うこと、すべきことに共鳴する人が来てくれているのであれば、基本的にそうした行いはしない。お客様は自分たちの鏡みたいなものだと思います。

本とカフェのスタイルは、自分自身がコーヒーを飲みながら本を読めたらいいなあとずっと思っていたからで、実際に二〇年ほど前にアメリカでそれを目の当たりにし、「これはすごい!」と、「コーヒー飲みながら本が読めるって、確かに日本にないなあ」と思いました。カフェは、お客様の顔が見えますから本当に面白い。例えば、スタッフが、コーヒーカップにつけるスリーブにメッセージを書いて渡したら、お客様も喜んでそれに返事を書いてくれたりと、コミュニケーションが起きやすい。立ち読みをしている人に声をかけることはないですし、レジでもそんなに会話は多くありませんから、本だけよりもリラックスしてもらえるのではないかな。カフェでイベントを開催するときは、さらにコミュニケーションが広がります。今はカフェでゲストを招いたトークを行っていますが、僕は、売り場や本棚も使ったり、また、トークだけでなく様々な活動に広げ、どうしたらもっと「オモロく」なるか、様々な人のアイデアを取り入れながら、どんどん交流を図っていきたいと考えています。大きな話になりますが、ヘンリー・ミラーメモリアルライブラリーの館長や、アメリカで知り合った面白そうな本屋を大阪に呼び、次は、世界とつながりたいと思っています。また、劈阪の服部さんが主催するファンタスティック・マーケットと本を結びっけ、マーケットを目的に来た人たちに本に出会うきっかけを提供したい。本に興味を持ってもらうには、何でもいいと思っています。積極的にタレントなんかを使ってもいい。本屋の説明は耳に届かないけれど、タレントが紹介したものには飛びつく。誤解を招く言い方ですけど…問題はそれを持続させることですよね。こうした活動を通して、「本を読んだほうが、より豊かになりますよ」というメッセージを、多くの人たちに気持ち良く受け取ってほしいと思っています。


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「コミュニティ」の中に小さな「ソサエティ」

『マイクロ・ライブラリ』より 本がつなぐ新しいコミュニティ

公共図書館や大学図書館だけで、本と人がたまる場づくりをしなくても、それを担える人や場はありますし、もっと柔軟に考えると、公共図書館や大学図書館に働く人が、個人の時間を利用してマイクロ・ライブラリー活動をしてもなんら問題がないのです。

そもそもコミュニティというものは、生活環境を共にする人たちが、共同して生活環境を作り上げる中で生まれていると思います。かつては、井戸水の利用から屎尿の始末まで、その地域に住む人が力を併せなければなし得ない社会があったのです。それが、近代化の中で公共機関が整備され、そのサービスも行き届いたものになり、自ら手を動かして参画しなくても必要な生活サービスは得られるようになったのです。特に都市生活では、このような公的なサービスには、多くの民間企業も参入しているので、生まれてから死ぬまで、お金さえあれば不自由なく生きられると言っても過言でありません。

しかしながら私たちは、大きなものを失いました。人と人との関係性です。生活圏を共同する中で培われた人間関係は失われ、残されたのは役割を専門的に担うシステムだけです。便利であり、気軽であるシステムは、私たちの生活の隅々に浸透してきたのです。ありかたいことですが、同時に、失ってしまった人と人のつながりを、多くの人が求めだしているのだと思うのです。私が提唱し、勧めてきたまちライブラリーも、このような背景で広がってきたのだと思います。また、他のマイクローライブラリーについても同様に、本を通じて人と出会うことを少なからず目的にして集まってきている人たちがいると思います。公共図書館に行く目的が、どちらかというと本を検索に行き、それを閲覧し、知識や情報を得ようとする機能に特化されてきた。人と交わり、知識や情報を交換し、場合によっては人と人が触れ合ってお互いの考え方や生き方などを表現した創作活動を通して、お互いの感性をぶつけ合う場になってこなかったのです。

ただ、生活環境を共にするということは、容易なことではありません。現代では、「コミュニティ」という言葉は、どちらかというと肯定的な意味合いが共通認識です。しかし、かつてその地域の「コミュニティ」が、お互いの生き方や生活感を束縛していて、それから逃れようと都会に出てきた人もたくさんいました。価値観の違う人が同じ生活環境を共有するわけですから、当然といえば当然の帰結です。「しがらみ」という言葉に代表されるように「コミュニティ」という概念の中には、不自由に感じることもあるのです。もともと外来語である「コミュニティ」は、それを払しょくしようとして使われている面もあるかもしれませんが、実態は同じでしょう。そのような時代の変遷を経て、都会で自由に生きられると思った人たちも、よく考えてみると、隣近所誰とも接触しない生活にある意味で空疎な思いを持ち、「都会とはそういうものだ」とあきらめてきたのだと思います。そして「職場」に帰属意識を求め、そこに生活環境を共有する人たちがいて、その一体感で戦後頑張ってきたのかもしれません。

しかし、「職場」の人間関係は、永遠ではありません。退職後には、また別の関係性が必要とされていると、誰もが感じ始めています。よく「地域コミュニティの再生」ということが言われます。しかし、これは、かつてのような井戸の利用や屎尿の始末を共有化する必然的な関係性がない中では、もう少し視点を変える必要があると感じています。私は、「地域のコミュニティ」の中に「小さなソサエティ」をたくさん作る方が現実的なように考えています。私が言う「ソサエティ」とは、趣味や興味が共有できる仲間という意味です。つまり、「コミュニティ」に属すると、基本は、生活環境を共有するのが主なので、色々な考えの人がいて、どうしても馬が合う人、合わない人も出てきます。興味の対象もそれぞれ別々です。そこで、そのような「コミュニティ」の中に小さな「ソサエティ」をたくさんつくっていくのです。

「山登りが好き会」「食育に興味がある会」「旅が好き会」などいくつにも重なりあった「ソサエティ」が同じ「コミュニティ」の中にあれば、多様な価値観がそこにはあり、どこかに帰属しやすくなります。もちろん複数に帰属している人もいれば、ある一点だけでつながる人もいるでしょうが、少しでも多くの人にとって帰属できる環境が創れると感じるのです。

私が、やっている「まちライブラリー」は、まさに地域に溶け込む小さな「ソサエティ」が、たくさん集まったものであるといえます。このように「本」を通じて多層的、多価値観的な「ソサエティ」に支えられた「コミュニティ」は、かつてのようなしがらみの強い「コミュニティ」より、参加しやすくなるかもしれません。現代社会に生きる我々にとって自由に生きたい、でも人ともつながりたい。その両面を解決してくれる可能性があります。

それでも、人とつながることは、最後は人の声を聴くことに他ならないことを忘れてはならないと思います。「まちライブラリー」では、お互いに「本」を持ち寄ってもらって、紹介しあい、借りあっていくようなことをやっています。この時に最も大切なのは、自分の本をいかにうまく説明して、自らの読解力や選書レベルの高さを披涯することではありません。隣の人が、なぜその本をここに持ってきたのか? その人が、どのような気持ちでここにきているのか? その人の声を聴くことに注力をすることが、一番大切であるといつも申し上げています。価値観や視点の違う身近な人を受け入れることこそが、本当の意味での「コミュニティ」創りなのです。「本」は、その価値観や視点の多様性を象徴しており、見えるようにしてくれているのです。お互いの心の中が少し見えることが、お互いの理解にどれだけ役立つか、その意味で「本」の持つ役割は、大切だと思います。

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縄文とともに--紀元前一四五〇〇年から六〇〇〇年における日本の複雑な狩猟採集民と最初期の土器

『氷河期以後』より

縄文人たちがそれほど創意に富んでいたのはなぜだったのだろうか? なぜ彼らは世界のいかなる地域よりもはるかに早い段階において土器を造っていたのだろうか? それよりかなり時代が下るとはいえ、やはり早い段階で土器を造っていたのは中国の人々だけであり、その地においては、稲作にはそれが必要だったと説明されている。オレゴン大学の考古学者であるとともに、縄文時代に関する大家でもあるメルヴィン・エイキンズは、日本の土器が紀元前一三〇〇〇年にはすでに九州を被って密生していた広葉樹林の産物の調理や貯蔵のために創案されたのだと考えている。彼は、広葉樹林と土器が日本の北方の島々へと広まっていき、最北端の島である北海道にはそのいずれもが紀元前七〇〇〇年に姿をあらわしていることから、両者の関係性は明白だと論じている。

こうした見解には、しかしながら、二つの難点がある。その一つは、狩猟採集民たちにとって林地という環境の中で暮らしていく上で土器は必ずしも必要ではないという点にある。事実、紀元前一二五〇〇年の西アジアで暮らしていたアイン・マッラーハの人々と、紀元前九五〇〇年の北ヨーロッパのスターカーの居住者たちは、もっぱら枝編み細工、樹皮、獣皮、木や石から造った器に依存しながら、規模の大きな集落を形成していた。土器が九州の林地の産物を調理していた人々にとってきわめて重宝な器だったことに疑いの余地はない。私たちは、植物の残留物から土器が野菜、肉、魚のシチューなどの調理に用いられていたことを知っている。しかしながら、人々は、そうした器がなかったとしても、生き残っていく上でなんら痛岸を覚えることはなかったはずである。

エイキンズの理論のもう一つの問題点が明らかにされたのは、本州の北部の大平山元遺跡から新たな土器が発見された一九九九年のことだった。その壷の内部に付着していた残留物の放射性炭素年代は、紀元前一四五〇〇年であり、これは、土器の起源を、少なくともさらにI〇〇〇年ばかり遡らせた。この時代の本州は、まばらに生えていたマツとカバノキによって被われていたにすぎなかったことだろう。それゆえ、日本の土器がドングリなどの広葉樹林の産物の調理と保存のために創案されたとする理論は、その論拠を完全に失ってしまう。

サイモンフレーザー大学のブライアン・ヘイデンは、エイキンズとは別の解釈を提唱している。ヘイデンは、部族間の競合が文化の変化の駆動力として機能していたと考えておムソ、そうした理解にもとづいて縄文時代の陶芸の発達を解釈しているのだが、私たちは、メキシコにおけるカボチャの栽培の起源を考察したとき、彼のその種の解釈とすでに遭遇している。

ヘイデンは、土器がその所有者に威信を与えるばかりか、客を食べ物によってもてなすには理想的な器物としての特性を数多く備えていると提唱している。なによりもまず、陶芸は、それを習得することが困難であったに違いない。粘土と可変添加剤の選択には入念な配慮が必要とされ、造形と焼成の技術を探究し、実践することによってそれを洗練していかなければならなかったからである。近隣から、あるいは、遠隔地から招かれた人々は、土器の製作に必要とされる労働力と技術力の高さに圧倒されたことだろう。意匠を凝らした装飾を施された新奇な形状の誇示は、人々にさらに強い印象を与えたに違いない。わけてももっとも人目を引いたのは、豊かさをこれ見よがしに誇示する手段として饗宴の最中にこれらの器を打ち砕いてみせる劇的な一瞬だったのかもしれない。

縄文時代の後期には、貝塚ならぬ巨大な「土器塚」が発見されていることから判断すると、壷を叩き割るといった芝居じみた行為は、実際に行われていたのかもしれない。数多くの後期の縄文土器は、驚異的ともいえるほど複雑な形状を呈するに至っておムリ、それが主として誇示を目的としていたことには疑いの余地などありえない。植木鉢のような基本的な形状にもとづいて造形されているこれらの土器の縁は、メラメラと燃え上がっている火焔や、胴にとぐろを巻いているヘビによって象られており、その突き出ている先端によって立体感が与えられている。壷のなかには上部の装飾が全体との均衡を欠くほど重視された結果として、まったく自立できないようなものもある。漆器は、人々の眼を引きつける魅力をもっていたことだろうし、そうした事情は今も変わらない。しかしながら、私たちは、その種の解釈を、福井洞窟などから出土した、率直にいえば、むしろ単調な最初期の土器に適用することには慎重であらねばならない。私たちは、今のところ日本の最初期の土器の製作者たちについてごくわずかの知識しか持ち合わせておらず、そうした知識にもとづいて、彼らの関心が招待客に強い印象を与えることにあったのか、それとも、野菜シチューを調理する手段の考案にあったのかを判断することはできない。しかしながら、私たちは、紀元前九五〇〇年までには数多くの人々が上野原のような永続的な集落で定住性の生活を送っていたことにはなんら疑いを抱いていない。
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沿岸地帯の大変動--紀元前一〇五〇〇年から六四〇〇年における海面の水位の変化とその結果

『氷河期以後』より

北海がドッガーランドを浸蝕し、海水が峡谷平野や丘陵地帯のまわりにまで侵入するようになっていった。海岸線には新しい半島が形成され、それが沖合の島々へと姿を変え。ついには永遠にその姿を消していった。それは地中海でも起こっていたことであリ、海は、ギリシアの人々がその周辺で豊かな可食植物を採集していたフランキティの洞窟にじりじりと近づいていった。紀元前七五〇〇年までにはフランキティの洞窟の居住者たちにとって海岸線までは午後の散歩程度の道程にすぎなかった。その先祖にとっては丸一日の行程だったことを考えてみれば、それが人々の生活環境を一変させたのは、けっして驚くべき話ではない。フランキティの洞窟の内部の食料の残骸が埋め込まれている層は、その居住者たちがまずカサガイやタマキビガイを採集するようになり、次いで、海を生活の場とする漁師になったことを明らかにしている。彼らは、小舟を操って一二○キロばかり沖合のメロス島のような島々にまでたどりつくことができる技術を身につけ、そこで発見した黒曜石を洞窟に持ち帰った。こうした新たな生活様式は、探検と移住には打ってつけであり、コルシカ島、サルデーニャ島、バレアリック諸島に人類史上初めて人々が住み着くようになった。

ヨーロッパの沿岸で暮らしていた人々にとってそうした体験は、時間と場所によって異なっていた。一部の地域では、環境の変化は、人々がそれに気づかないほどゆるやかだった。歳月の経過とともに食生活、技術、知識に変容をもたらしていた要因は微細であり、その生活様式への影響は捉えにくくて意識されなかった。その一方では、驚きのあまり眼を見張った人々もいた。大波が内陸にまで押し寄せて水しぶきが屋根にかかっていたり、砂丘が二夜にしてまるで形を変えてしまった光景を目の当た万にしたからである。そのほかの人々、たとえば、現在ではイングァネスと呼ばれているスコットランドの北西部の居住者たちは、突然の大変動に直面していた。

一九八〇年代にスコットランドの考古学者ジョナサン。ワーズワースは、キャッスルーストリート一三-二四番のいくつかの家屋が取り壊された後、中世の町の一部を発掘した。その下にはネス川の河口域を見下ろす場所に建てられていた二三世紀の中世の建築物と屋外便所の基礎があった。彼は、中世の煉瓦職人たちが築いた基礎がその中に埋め込まれていた小石混じりの白っぽい海砂の層の下にほぼ五〇〇〇個のフリントの人工遺物、骨の破片、炉床の痕跡、つまり、中石器時代の狩りに由来する残骸の散乱を発見した。

紀元前七〇〇〇年頃のとある日のこと、中石器時代の人々の小さな集団が、入り江と、おそらくは、その先の海を見下ろす砂丘の内部の天然の窪地に心地ちよさそうに寝そべっていた。たぶん、彼らは、アシカ狩りに出かけるために日が暮れるのを待っていたのだろう。ひょっとしたら、日中はアジサシの卵やサムファイア(海岸の岩などに生えるセリ科の多肉の草)を採集し、カワウソの毛皮の袋に収めていた細石器と掻器を補充するために海岸の小石を打ち欠いている一人二人を除いて、一眠りしようとしていたのかもしれない。それは、北ヨーロッパの海岸地帯の全域において何度となく繰り返されてきた光景であり、中石器時代の一般的な狩猟採集民たちにとっては、ごくありふれた」日だった。

しかしながら、運命は、そうした日々の継続を許そうとはしなかった。その数時間前、北方一〇〇〇キロばかりの地点、より正確には、北極海のノルウェーとアイスランドの中間点で大規模な海底の地滑りが起こっていたからである。それは、ストレッガ・スライドと呼ばれている最大級の地滑りであり、大津波を引き起こした。私たちにはインヴァネスのキャッスル・ストリート一三-二四番として知られている場所で時間を潰していた狩猟採集民たちは、ひょっとしたら、カモメが突然燈高い鳴き声を上げ始めたことに不吉な予感を感じ取って不安に駆られていたかもしれない。遠くから聞こえていた低い唸り声のような音は、ほどなくして轟音に変わった。初めのうちは信じられぬ思いで眼を見開いていた彼らも、高さ八メートルの波が入り江に押し寄せて来たときにはパニックに陥っていたことだろう。彼らは懸命に逃げ惑ったに違いない。

彼らが無事逃げのびることができたか否かは、私たちにはわからない。けれども、もしそうすることができた人が、潮が引いてから後を振り返ったとすれば、小石混じりの白っぽい砂が、砂丘や岩場ばかりでなく、南北、眼のとどくかぎりのあたり一帯を被い尽くしていた光景を目の当たりにしたことだろう。一七〇〇〇立方キロメートル以上もの堆積物がスコットランドの東海岸に沿って投げ出され、それが耕地、砂丘、集落の住居群を、中石器時代の突然の大変動の証拠物件として、その下に埋め込んでしまったのだ。

この津波がドッガーランドの標高の低い海岸地帯に与えた衝撃は、凄まじいほどの破壊力を秘めていたに違いない。何キロ、いや、何十キロもの海岸線は、数時間、おそらくは、数分のうちに破壊され、丸木舟から網を引き上げていた人たち、海草やカサガイを採集していた人たち、浜辺で遊んでいた子供たち、樹皮の揺りかごの中で眠っていた赤ん坊など、数多くの人々の命が失われたことだろう。カニ、魚類、鳥類、哺乳動物などの生物群集は全滅し、沿岸の居住地は、跡形もなく消え失せてしまった。小屋、丸木舟、ウナギを捕らえる答、木の実の詰まった籠、魚を干す棚などすべてが粉々に砕かれ、一掃されてしまったのである。

はるか三五〇〇キロも隔たっているヨーロッパのもう一つの地域も、それとは異なった突然の大変動に見舞われていた。その犠牲者たちは、その当時は淡水湖だった黒海の沿岸の低地で暮らしていた人たちだった。平坦で肥沃な土壌に恵まれていたこの低地にはオークが枝葉を茂らせており、人々は、何千年もの間、その林地で動物を狩ったり、植物を採集していた。しかしながら、その出来事が起こったときには、新しい人々がすでにそこに住み着いていた。それは新石器時代の農民たちだった。トルコの集落から分かれてこの地にたどり着いたこれらの人々は、豊かな沖積土に定住し、木々を伐り倒して林地をコムギやオオムギの耕地に変え、その材木で住居を建て、家畜化されていたウシとヤギの柵や畜舎を作っていた。農民たちの移住と、そうした農民たちが土着の中石器時代の狩猟採集民たちからどのように迎え入れられたのかという物語は、次の章の主題であり、私たちの当面の関心は、農民たちの悲劇的な最期にある。
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欧州の市立図書館

未唯へ

 全然、入っていないですね。

 タイタニックのオープンデッキのチェア争い。

欧州の市立図書館

 アムステルダムの市立図書館は観光地図に在りました。アムステルダム中央駅から左側に行ったところです。かなりの大きさで描かれています。

 ブラッセル市立図書館は小さかった。「ライブラリ」は本屋さんで、「ビブロテーク」が「図書館とわかるまでに時間が費やした。

 コペンハーゲンの市立図書館は完全に方向を見失ってしまった。2時間、歩き回って、工業大学の図書館に入り込めただけだった。

 ヘルシンキの市立図書館は電車で一駅行ったところにあった。

 ブタペストの大学図書館はフランクフルトから名古屋へ帰る飛行機のなかで、大学教授に場所を教えてもらった。

 ヨーロッパの市立図書館を回りたい。今のうちに場所は知っておきましょう。

パートナーの存在

 結局、私の存在を確認できたのは、ハレーすい星(パートナー)だけです。他者は存在しない。

『戦う!書店ガール』の感想

 タイトルを見て、何となくわかった

  見たけど、何か釈然としない。今回のサブタイトルを確認して、理由がわかった。「男の策略・・・試される女性リーダーの資質」。立位置も戦う相手もずれている。ペガサス(ジャンク)と戦うなら、お客様を味方にしないと、そこにいる理由がわからない。

 リアルの書店員はどう感じているのか

  書店の意向だけで、本屋を閉店させることは、利用者にどれだけ迷惑を掛けるのかを理解しているのか?

  名古屋の大きな店が急に閉店したときは、行き先がなくなった。やはり、戦う相手が見えていない。

 世界の美しい本屋本屋は大きな可能性があります。

  本と読者をつなげることに楽しみがあり、戦いがあります。その原点に切り換えませんか? 本当の書店員が納得できるように。

 本に対する愛言葉で言っているだけで、何も表現されていない。

  あの身長では最上段の本には届かない。本は飾りではない。

 何と戦うのか

  一話を見たけど、戦う相手も目的も分からない。危機に立たされている書店の敵は多い。存続するいみを問われている。

 8段の書棚は有り得ない。はしごがいる。

  最下段は目が悪いと判読できない。寝転ぶしかない。書店員なら、本が主役ですね。
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