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ソーシャルワーカーの課題と未来

『知りたい! ソーシャルワーカーの仕事』より

生活課題を抱える人たちにソーシャルワーカーをより利用してもらうためにはどうすればよいか、ソーシャルワーカーが社会の役に立つようにその仕事の幅を広げていくために、何か必要か。筆者は少なくとも二つの課題があると考えている。一つはまだあまり知られていない職業であること、もう一つは自分たちの力を発揮しきれていないことである。

ソーシャルワーカーを社会により知ってもらう必要性

 ここまで読んでくださったみなさんは、ソーシャルワーカーがどのような仕事をしている人たちか、少しは理解していただけたのではないかと思う。われわれの説明が下手でうまく伝わっていないかもしれないが、少なくともソーシャルワーカーは福祉の仕事をする人たちであること、しかし、介護の職種ではないことは理解していただけたはずだ。これまで存在があまり知られていなかったのは、ソーシャルワーカーが自分たちの仕事をきちんと社会に広報できていないことが理由であろう。

 認知度が低いことの弊害はもう一つある。職業として選んでもらえないことだ。いくら大切な職業だと一部から認められたとしても、このような職業があるということが知られていなければ、なり手が増えない。それではソーシャルワーカーという職業は衰退していくばかりだ。

 ソーシャルワーカーの力を必要とする人々によりソーシャルワーカーが活用されるようになれば、生活課題を抱える人の課題が緩和・解決されていくだろうし、また人々に生活課題を生じさせる社会的要因の原因究明、解決へとソーシャルワーカーの力が発揮されれば、みながより安心して暮らせる社会に近づくだろう。そう考えると、ソーシャルワーカーが社会の中でもっと活用されることが望ましい。そのためには、多くの人にソーシャルワーカーという職業、また何かできる専門職であるのかを知ってもらう必要がある。

ソーシャルアクション(社会活動法)の活用

 ソーシャルワーカーにはソーシャルアクションという仕事があると説明したが、実はこの実践それ自体や方法論の構築が、個別的な関わりに比べてあまり行われてきていないことも課題である。

 そもそも社会を変えようと社会に働きかける、という、言ってみれば日常にあまりないようなオオゴトは、そうそう機会があるものではない。そう考えると、ソーシャルワーカーがそういった活動をしていることが少ないのは当たり前である。ただ、必要があるにもかかわらずできていない、ということも考えられなくもない。そのように考える理由を幾つかあげよう。

 まず、ソーシャルワーカーの働き方に関係する。社会福祉士資格を有している人という限定つきのデータではあったが、雇用形態を見ると、八割以上の人が正規職員として雇用されていた。ソーシャルワーカー自身の生活が安定しているというように考えると大変心強いことであるが、ただ、社会活動を行うとなると、実はここに縛られるのではないか。つまり雇用されていると、ソーシャルワーカーは当然、雇用されている組織の一員でもある。普段は両方の顔が一致していることが多いだろうが、時折、その一致している顔が二つになってしまうこともある。ソーシャルワーカーとして優先したいことと、組織の一員として組織の利益を優先しなければならないときだ。社会活動の内容と組織の方針が真逆の場合があるかもしれない。

 例えば、行政に勤めている場合を例に挙げてみよう。日頃からソーシャルワーカーとして、生活保護を受ける権利がある人はすべて生活保護を受けるべきである、と考えていたとする。それに対して組織の方針は、できるだけ生活保護を受給する人を抑制していきたい、などといったときは、困るわけである。このようなとき、人はどうするだろう。おそらく多くの人が組織の方針に従うように振る舞うのではないか。自分自身の立場や生活を守っていくためにはそうした選択をせざるを得ないというのが現実である。ただ、そのような状況が、ソーシャルワーカーのソーシャルアクションを抑制してきたのではないだろうか。

 次が、ソーシャルワーカーの養成教育に関わる問題である。社会福祉士や精神保健福祉士の養成のカリキュラムでは、ソーシャルアクションについて学ぶこととされている。したがって、社会福祉士や精神保健福祉士になるための学校に通っていた人は、必ずその内容は学んでいる。しかし、方法についてはどうであろうか。先にも見たような署名や請願・陳情、裁判を起こしたりマスコミ報道を活用したり、チラシを配ったりすることは、練習を積み重ねたり、実習で体験したりすることが難しい。そのような理由から、生活課題を抱える人への支援と違ってなかなか教育に取り入れられていないのだろう。また、自戒の念も込めるが、教員の側も、個別な支援の経験をしたことがある人はいるが、実際に社会活動を行ってきた人はそう多くはないであろう。すると教育現場において、具体的な方法が伝えられない、ということがあるのかもしれない。

 個別的な関わりの方法の蓄積が分厚くなってきており、確実に成熟してきているので、ソーシャルワークのもう一つの醍醐味である、ソーシャルアクションを行っていけるような環境整備と教育が求められる。それにより、本来のソーシャルワークのダイナミックな取り組みが行われ、社会の課題の緩和・解決に、これまで以上に接近できるようになるのではないだろうか。

 今後は、同じ課題意識を共有したソーシャルワーカーがつながり、アクションを起こしていけるようになることが必要であろう。これは、生活課題のある人たちの状況改善策としての活動が、ソーシャルワーカーという職業があることの認知度をより高めて行くことに繋がるだろう。これまであまり積極的に取り組まれてこなかったソーシャルアクションを活用していくことが、生活課題を抱える人々や社会そのもの、またソーシャルワーカーの未来を変えていくのではないか。そのような実践者を育てられる教育システムが構築されること、またソーシャルアクションを実行できるソーシャルワーカーが少しでも増えていくことが、社会にとっても、ソーシャルワーカーにとっても、とても重要である。
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自動運転自動車と賠償制度

『なぜ科学が豊かさにつながらなのか?』より

自動運転自動車の運転手は誰か

 皆さんは、「自動運転自動車」をご存知でしょうか。飛行機のオートパイロット(自動操縦)のように、コンピュータが自動制御して自動車を運行する技術です。近未来の技術として日本でも研究が進んでいますし、高齢社会においては頼もしい技術と言えるでしょう。しかし、日常生活で利用するには、まだ克服すべき大きな問題があります。

 その一つが事故における法律上の処理方法、具体的には補償制度なのです。

 そもそも、自動運転自動車に運転手はいるのでしょうか。運転手がいるとすれば、飛行機のオートパイロットと同じようなルールが考えられます。自動操縦の場合、法律上は操縦の「補助技術」となっており、操縦の責任はあくまでパイロットにあります。現時点では、この法律を自動運転自動車に応用するのが妥当であろうと考えられています。しかし、自動運転自動車の場合は、本当に運転手がいると見なすことができるのでしょうか。運転手がいないと考えると、事故が起こったのは自動車が欠陥品だったため、つまりメーカーの責任ということになるのかもしれません。このように、技術の性質によって責任の所在や補償のあり方が変わってくるでしょう。

 自動車事故に関しては法律や保険制度が非常に発達していますので、どのような場合に誰の責任となり、どれだけ補償しなければならないか、そのためにどんな保険商品を購入しておけばよいかなど、自分のとるべき行動について、おおむね予想ができます。したがって、どれだけ安全運転を心がければよいか、道を渡るときは何に気をつければよいかなど、人々はおよそ共通した交通知識を持って行動していることになります。つまり、法律が整備され、よく機能しており、保険商品も充実しているからこそ、安心して運転ができるのです。懸案の自動運転自動車の場合、まだ法律や賠償制度が確立していないため、安心して乗ることはできません。

 同様に、アメリカなどで話題となっているドローン(小型無人飛行機)の商業利用の問題も、技術的にはどんどん進歩していますが、ドローンが人体・家屋に危害・損傷を与えた場合の責任を明確にし、補償制度を確立しないと、企業はリスクが大きすぎて導入できないでしょう。また、ドローンの機能や特性について、多くの人々が知識を共有することも、利用の普及に向けて重要になるでしょう。

 このような例が示すように、法律や賠償制度が整わなければ、せっかくの科学技術イノベーションを普及させ、活かしていくことはできません。

科学技術教育のすすめ

 以上、科学技術イノベーションと社会的制度・システム設計とのかかわりの重要性について、お話ししてきました。では、どうすれば自然科学と社会科学とを結びつけ、豊かな暮らしを作ることができるでしょうか。その一つの、しかし決定的に重要な答えが「教育」です。本書ではこの後、自然科学者が社会の要請を意識して研究を行うこと、社会科学者が科学技術をよく理解して制度を構築すること、そして文系・理系といった枠にとらわれず技術と社会の双方への関心を育むような教育制度の重要性についてお話しします。
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日記について

『考えることについて』より

自分をいいように日記の中へ書き込むことをしていた私は、逆に、自分をひどく扱うこともやっている場合がある。そして時たま、小さな、書くほどのこともないような悩みを書き出すと、それを悩みとして書くことが面白くなってしまって、悩みをふくらませ、扮飾を思う存分にほどこし、つまり日記の中で非常に悲惨な自分を創作してしまって、それを自分と合体させているようなこともある。事実、そうして、日々の生活に動きがとれなくなってしまった人が、ある心理学者のところへ訪ねて来たそうである。日記の中で、悩む自分の姿を創作していることを発見したその心理学者は、その人に、日記を書くことをやめるようにかなり厳しい命令を下した。それ以来、この命令を守った彼は、まったく見ちがえるようにさっぱりしたということである。これはその心理学者から直接聞いた話であるが、よくありそうなことだと思うし、私自身も、気がついてみれば、大袈裟に、長々と日記を書いている時こんな状態に陥ることもある。

日記の書き方ということではもっと形式的な書き方を、例を示して説明しなければいけなかったのかも知れないが、今のことが一番注意しなければならないことだと思われ、そこに陥らない自信さえあれば、書き方などはめいめい思う通りに書けばいい。詩日記を書いた人もあるし、短歌や俳句で日記をうめた人もいる。また全くの備忘録のつもりで書いていたことが、偶然長い年月を経て、貴重な資料になった場合もある。

けれども日記は本来発表されることを考えずに書かれているもので、そのために逆に発表の値打が出る。

また先程のことに戻るが、発表されることがない、他人の目にふれることがないということで、そこでは当然普段着のままでいられる筈なのに、あるいはもっと赤裸々でいられる筈なのに、たまたま読む機会のあった他人の日記を見ても、なかなかそうではなくて、自分の愚かな行為や発言の修正をしたり取り消しをしたりしている。その時の、日記を書いている人の自分に対する甘えを考えると、そこでは誰にも見られていないということで安心している訳だが、私は、私室に鍵をかけて、濃厚な化粧をしている人、そしてそれによって自分を慰めている人の姿を想像する。

アミエルは、日記を自分の友として、また慰め手として、また時には医師として大切にし、一日のうちに幾度も書き、そこで魂の沫浴をしたと言う。けれどもそういう彼さえも、そこから作文の技術を期待していない。

 「日記は話すことも、書くことも、連絡と方法を保って考えることも教えない。それは心理的な休息であり、娯楽であり、御馳走であり、怠惰な行為であり、見せかけの仕事である」

ずいぶんひどいことを言っているが、そういう感じも否定出来ない。また、

 「……私は自分を理解しようと努める。しかし私は自己を支配しないし、真面目に自己を叱責することもない」

自分を叱責する前に、叱責される自己が、どの程度の叱責に価するものかをまず見定めなければいけない。私たちは、ただ漠然と、叱責すべき自己を見付けることはある。見つけるというよりも、自分に対する苛立たしさで最初からいっぱいになっている。けれども「真面目に自己を叱責すること」は殆んど不可能に近いことである。言葉にして現わす必要のない自己への怒りは、どんどん強烈なものになって行くようでありながら、知らないうちにその色調を変え、怒っている自分の方が表に立ちふさがって、叱責を受けている自分の姿をかばい、隠してしまう。それは確かに怒り続けている風を装ってはいるけれど、自分に対してそれだけ怒りを示し得るという別の自己にいつか重心が移ってしまって、それ以外には眼を向けさせないようにしてしまう。自分で創り出す慰めは、みんなこんな風な、巧みな魔術が交っている。だまされる自分は、少しもだまされまいとする構えになる、だまされる悦びがいつも目の前にちらついている。

私はかなり時間をかけて日記をつける癖があって、書き出しである調子が出て来ると、次々に思いつくことを書いてしまわないうちは気が済まない。それで忙しい時には、日記を簡単にかくことに努力しなければならない。そうして書いたものを読みかえすと実につまらない。けれども、簡単に書かれたものでも、特別の昧の出ているものもあるし、そのための技巧もある訳で、それも心得ておく必要があろうけれど、現在の自分の願いとしては、時間が許されれば、一日の中でめぐり合った幾つかの事件のうち、一つなり二つなりを選んで、それをかなり克明に書いておくことである。それは独立した随筆なり、エッセエを書く気持で、そこに創作さえ加わっても、止むを得ないと思っている。それは先に書いたように、自己をそのままに示すことの無理を知ったからで、何も嘘の日記を書くことを望んでいる訳ではないが、我慢してあけすけな書き方をするより、そこでは面白く自分と和解し、欺くとか叱責するとか、そればかりに気を取られずに、思うことを好き勝手に書いた方がいいと思う。

というのは、私たちはそうしてみようと思うとそれが却って出来にくくて、案外正直に自分を描いてしまうものだと思うからである。
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