未唯への手紙
未唯への手紙
「コミュニティ」の中に小さな「ソサエティ」
『マイクロ・ライブラリ』より 本がつなぐ新しいコミュニティ
公共図書館や大学図書館だけで、本と人がたまる場づくりをしなくても、それを担える人や場はありますし、もっと柔軟に考えると、公共図書館や大学図書館に働く人が、個人の時間を利用してマイクロ・ライブラリー活動をしてもなんら問題がないのです。
そもそもコミュニティというものは、生活環境を共にする人たちが、共同して生活環境を作り上げる中で生まれていると思います。かつては、井戸水の利用から屎尿の始末まで、その地域に住む人が力を併せなければなし得ない社会があったのです。それが、近代化の中で公共機関が整備され、そのサービスも行き届いたものになり、自ら手を動かして参画しなくても必要な生活サービスは得られるようになったのです。特に都市生活では、このような公的なサービスには、多くの民間企業も参入しているので、生まれてから死ぬまで、お金さえあれば不自由なく生きられると言っても過言でありません。
しかしながら私たちは、大きなものを失いました。人と人との関係性です。生活圏を共同する中で培われた人間関係は失われ、残されたのは役割を専門的に担うシステムだけです。便利であり、気軽であるシステムは、私たちの生活の隅々に浸透してきたのです。ありかたいことですが、同時に、失ってしまった人と人のつながりを、多くの人が求めだしているのだと思うのです。私が提唱し、勧めてきたまちライブラリーも、このような背景で広がってきたのだと思います。また、他のマイクローライブラリーについても同様に、本を通じて人と出会うことを少なからず目的にして集まってきている人たちがいると思います。公共図書館に行く目的が、どちらかというと本を検索に行き、それを閲覧し、知識や情報を得ようとする機能に特化されてきた。人と交わり、知識や情報を交換し、場合によっては人と人が触れ合ってお互いの考え方や生き方などを表現した創作活動を通して、お互いの感性をぶつけ合う場になってこなかったのです。
ただ、生活環境を共にするということは、容易なことではありません。現代では、「コミュニティ」という言葉は、どちらかというと肯定的な意味合いが共通認識です。しかし、かつてその地域の「コミュニティ」が、お互いの生き方や生活感を束縛していて、それから逃れようと都会に出てきた人もたくさんいました。価値観の違う人が同じ生活環境を共有するわけですから、当然といえば当然の帰結です。「しがらみ」という言葉に代表されるように「コミュニティ」という概念の中には、不自由に感じることもあるのです。もともと外来語である「コミュニティ」は、それを払しょくしようとして使われている面もあるかもしれませんが、実態は同じでしょう。そのような時代の変遷を経て、都会で自由に生きられると思った人たちも、よく考えてみると、隣近所誰とも接触しない生活にある意味で空疎な思いを持ち、「都会とはそういうものだ」とあきらめてきたのだと思います。そして「職場」に帰属意識を求め、そこに生活環境を共有する人たちがいて、その一体感で戦後頑張ってきたのかもしれません。
しかし、「職場」の人間関係は、永遠ではありません。退職後には、また別の関係性が必要とされていると、誰もが感じ始めています。よく「地域コミュニティの再生」ということが言われます。しかし、これは、かつてのような井戸の利用や屎尿の始末を共有化する必然的な関係性がない中では、もう少し視点を変える必要があると感じています。私は、「地域のコミュニティ」の中に「小さなソサエティ」をたくさん作る方が現実的なように考えています。私が言う「ソサエティ」とは、趣味や興味が共有できる仲間という意味です。つまり、「コミュニティ」に属すると、基本は、生活環境を共有するのが主なので、色々な考えの人がいて、どうしても馬が合う人、合わない人も出てきます。興味の対象もそれぞれ別々です。そこで、そのような「コミュニティ」の中に小さな「ソサエティ」をたくさんつくっていくのです。
「山登りが好き会」「食育に興味がある会」「旅が好き会」などいくつにも重なりあった「ソサエティ」が同じ「コミュニティ」の中にあれば、多様な価値観がそこにはあり、どこかに帰属しやすくなります。もちろん複数に帰属している人もいれば、ある一点だけでつながる人もいるでしょうが、少しでも多くの人にとって帰属できる環境が創れると感じるのです。
私が、やっている「まちライブラリー」は、まさに地域に溶け込む小さな「ソサエティ」が、たくさん集まったものであるといえます。このように「本」を通じて多層的、多価値観的な「ソサエティ」に支えられた「コミュニティ」は、かつてのようなしがらみの強い「コミュニティ」より、参加しやすくなるかもしれません。現代社会に生きる我々にとって自由に生きたい、でも人ともつながりたい。その両面を解決してくれる可能性があります。
それでも、人とつながることは、最後は人の声を聴くことに他ならないことを忘れてはならないと思います。「まちライブラリー」では、お互いに「本」を持ち寄ってもらって、紹介しあい、借りあっていくようなことをやっています。この時に最も大切なのは、自分の本をいかにうまく説明して、自らの読解力や選書レベルの高さを披涯することではありません。隣の人が、なぜその本をここに持ってきたのか? その人が、どのような気持ちでここにきているのか? その人の声を聴くことに注力をすることが、一番大切であるといつも申し上げています。価値観や視点の違う身近な人を受け入れることこそが、本当の意味での「コミュニティ」創りなのです。「本」は、その価値観や視点の多様性を象徴しており、見えるようにしてくれているのです。お互いの心の中が少し見えることが、お互いの理解にどれだけ役立つか、その意味で「本」の持つ役割は、大切だと思います。
公共図書館や大学図書館だけで、本と人がたまる場づくりをしなくても、それを担える人や場はありますし、もっと柔軟に考えると、公共図書館や大学図書館に働く人が、個人の時間を利用してマイクロ・ライブラリー活動をしてもなんら問題がないのです。
そもそもコミュニティというものは、生活環境を共にする人たちが、共同して生活環境を作り上げる中で生まれていると思います。かつては、井戸水の利用から屎尿の始末まで、その地域に住む人が力を併せなければなし得ない社会があったのです。それが、近代化の中で公共機関が整備され、そのサービスも行き届いたものになり、自ら手を動かして参画しなくても必要な生活サービスは得られるようになったのです。特に都市生活では、このような公的なサービスには、多くの民間企業も参入しているので、生まれてから死ぬまで、お金さえあれば不自由なく生きられると言っても過言でありません。
しかしながら私たちは、大きなものを失いました。人と人との関係性です。生活圏を共同する中で培われた人間関係は失われ、残されたのは役割を専門的に担うシステムだけです。便利であり、気軽であるシステムは、私たちの生活の隅々に浸透してきたのです。ありかたいことですが、同時に、失ってしまった人と人のつながりを、多くの人が求めだしているのだと思うのです。私が提唱し、勧めてきたまちライブラリーも、このような背景で広がってきたのだと思います。また、他のマイクローライブラリーについても同様に、本を通じて人と出会うことを少なからず目的にして集まってきている人たちがいると思います。公共図書館に行く目的が、どちらかというと本を検索に行き、それを閲覧し、知識や情報を得ようとする機能に特化されてきた。人と交わり、知識や情報を交換し、場合によっては人と人が触れ合ってお互いの考え方や生き方などを表現した創作活動を通して、お互いの感性をぶつけ合う場になってこなかったのです。
ただ、生活環境を共にするということは、容易なことではありません。現代では、「コミュニティ」という言葉は、どちらかというと肯定的な意味合いが共通認識です。しかし、かつてその地域の「コミュニティ」が、お互いの生き方や生活感を束縛していて、それから逃れようと都会に出てきた人もたくさんいました。価値観の違う人が同じ生活環境を共有するわけですから、当然といえば当然の帰結です。「しがらみ」という言葉に代表されるように「コミュニティ」という概念の中には、不自由に感じることもあるのです。もともと外来語である「コミュニティ」は、それを払しょくしようとして使われている面もあるかもしれませんが、実態は同じでしょう。そのような時代の変遷を経て、都会で自由に生きられると思った人たちも、よく考えてみると、隣近所誰とも接触しない生活にある意味で空疎な思いを持ち、「都会とはそういうものだ」とあきらめてきたのだと思います。そして「職場」に帰属意識を求め、そこに生活環境を共有する人たちがいて、その一体感で戦後頑張ってきたのかもしれません。
しかし、「職場」の人間関係は、永遠ではありません。退職後には、また別の関係性が必要とされていると、誰もが感じ始めています。よく「地域コミュニティの再生」ということが言われます。しかし、これは、かつてのような井戸の利用や屎尿の始末を共有化する必然的な関係性がない中では、もう少し視点を変える必要があると感じています。私は、「地域のコミュニティ」の中に「小さなソサエティ」をたくさん作る方が現実的なように考えています。私が言う「ソサエティ」とは、趣味や興味が共有できる仲間という意味です。つまり、「コミュニティ」に属すると、基本は、生活環境を共有するのが主なので、色々な考えの人がいて、どうしても馬が合う人、合わない人も出てきます。興味の対象もそれぞれ別々です。そこで、そのような「コミュニティ」の中に小さな「ソサエティ」をたくさんつくっていくのです。
「山登りが好き会」「食育に興味がある会」「旅が好き会」などいくつにも重なりあった「ソサエティ」が同じ「コミュニティ」の中にあれば、多様な価値観がそこにはあり、どこかに帰属しやすくなります。もちろん複数に帰属している人もいれば、ある一点だけでつながる人もいるでしょうが、少しでも多くの人にとって帰属できる環境が創れると感じるのです。
私が、やっている「まちライブラリー」は、まさに地域に溶け込む小さな「ソサエティ」が、たくさん集まったものであるといえます。このように「本」を通じて多層的、多価値観的な「ソサエティ」に支えられた「コミュニティ」は、かつてのようなしがらみの強い「コミュニティ」より、参加しやすくなるかもしれません。現代社会に生きる我々にとって自由に生きたい、でも人ともつながりたい。その両面を解決してくれる可能性があります。
それでも、人とつながることは、最後は人の声を聴くことに他ならないことを忘れてはならないと思います。「まちライブラリー」では、お互いに「本」を持ち寄ってもらって、紹介しあい、借りあっていくようなことをやっています。この時に最も大切なのは、自分の本をいかにうまく説明して、自らの読解力や選書レベルの高さを披涯することではありません。隣の人が、なぜその本をここに持ってきたのか? その人が、どのような気持ちでここにきているのか? その人の声を聴くことに注力をすることが、一番大切であるといつも申し上げています。価値観や視点の違う身近な人を受け入れることこそが、本当の意味での「コミュニティ」創りなのです。「本」は、その価値観や視点の多様性を象徴しており、見えるようにしてくれているのです。お互いの心の中が少し見えることが、お互いの理解にどれだけ役立つか、その意味で「本」の持つ役割は、大切だと思います。
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