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ピエティ 不平等の火薬庫

『新・資本論』ピエティより

自由とは何か

 リべラシオン紙の経営危機を巡る騒動には、少なくとも根本的な問題を浮き彫りにするという効果があった。企業の所有主が大株主であって、その株主が権力行使に執着している場合、自由は何を意味するのか、という問いである。強大な権限を握る所有者の独裁を防ぎ、資本と生産手段を民主的に運営する参加型経営を実現するためには、二一世紀の企業のガバナンスはどうあるべきだろうか。これは永遠の問いであり、ソビエトというアンチモデルの崩壊で解決されたように見えたが、実際には繰り返し問われ続けてきた難問である。

 新聞をはじめとするメディア企業において、この問題はとくに重大な意味を持つ。メディア企業の所有構造はまちまちで、財団や組合形式であることが多いが、最近になって所有者が利益追求姿勢を強めている。これには、第一に記者の経済的自立の確保、第二に革新的な資金調達モデルの追求という二つの目的がある。メディア業界の経営危機は深刻さを増しているうえ、競争激化と媒体の細分化に直面しており、経営モデル自体の見直しを迫られている(このことは、ジュリア・カジェの最近の研究でもあきらかにされた)。

 資本所有の形態は、世界中の文化・教育関連部門が模索している問題でもある。ハーバード大学が運用する寄付金は、ヨーロッパの大手銀行の資本金よりも大きいが、私の知る限りでは、同大学を株式会社に移行しようと提案した人はいない。もうすこし規模の小さい例を挙げると、パリ・スクール・オブ・エコノミクス(パリ経済学校、二〇〇六年創設)は運営委員会に民間出資者が参加している。民間出資者の数は今後いくらか増える予定だが、政府および学術分野の出資者数を必ず下回るように調整される。これはなかなかいいやり方だ。権利濫用の誘惑に駆られる点では、大学へ個人的に寄付する篤志家も新聞の大株主も変わりはないのだから、予め用心しておくに越したことはない。

 火のところ、権限分散の問題は、教育やメディアに限らずサービス裳や製造気など、さまざよな統治モデルが共存するあらゆる部門に存在する。たとえばドィッ金気の従業員は、経営参加度がフランスよりもはるかに高い。それが高品質のクルマ作りを邪魔していないことはあきらかである(ギョーム・デュヴァルの最新作『メイド・イン・ジャーマニー』を読むと、それがよくわかる)。

 リべラシオン紙の場合、事態はことのほか重大である。大株主のブルーノ・ルドゥーはいわゆるタックスヘイブン(租税回避地)の愛用者で、自身は税逃れをしていながら、「(リベラシオンの)救済には公的機関から補助金でも出してもらうほかない」などと言い始め、さらにテレビ番組の中で、「誰があいつらに給料を払ってやっているのか、フランス人全員に証人になってもらいたいものだ」と言い放った。耳を疑う発言であり、新聞記者に対する前代未聞の暴言である。これを聞いては、いかにルドゥーが自分はリベラシオンを救いたいのだと言い張ったところで、とても本音とは思えない。とはいえこの今言は、同じ日に当人があきらかにしたプロジェクトとは完全に一致する。それによれば、「リベラシオン」のブランドを活かして「ソーシャルネットワーク」化し、本社ビルはカフェやテレビスタジオなどを備えた文化センターにするという。

 こうした言葉の暴力、金さえあれば何でも許されるという傍若無人ぶりを前にしては、市民として、またりベラシオンの読者として、手をこまぬいているわけにはいかない。たしかにりベラシオンの記事には、ときに失望させられることはある。それでも新聞が、有用な情報の流れやばかばかしい情報の洪水を活性化させることはまちがいない。そして民主主義は、情報を広く伝え世相を反映する日刊紙の言論なしには機能しないことを忘れるべきではない。

 リペラシオンは存続しなければならない。そのためには、あちこちで言いふらされている株主の二枚舌を暴かなければならない。メディアは、公的資金のお恵みを受けて生き延びてはならないのである。そもそもリベラシオンを含めてメディア企業は、受け取る以上に高い税金や社会保険料を払ってきた。

 より大きな枠組みでこの問題を考えてみよう。フランスの経済モデルは、毎年生み出される富の約半分を税金や社会保険料などさまざまな拠出金の形で共有し、国民全けが恩志を受けるインフラ、公共サービス、国防に充当することで成り立っている。払う側と受け収る側というものはない。誰もが払い、誰もが受け取る。

 たしかに経済の一部の部門、たとえば完全な民間部門では、売上げによって費川の全額をカバーすることが前提とされている。だからと言って、公共インフラの恩恵を受けていないわけではない。一方、医療や教育といった部門では、利用者が払う料金では費用のごく一部しかカバーできない。このようなしくみになっているのは、医療や教育などのサービスを誰もが受けられるようにするためだが、もう一つの理由は、完全競争モデルでは事業者が利益の最大化に走り、この種の事業にそぐわないことを歴史から学んだからでもある。いや、そぐわないどころか、甚だ好ましくない。

 芸術、文化、メディアなどは、両者の中間にあると言えよう。独立性と競争原理が創造を刺激し活性化することは、たいへん好ましい。だが力を持ちすぎた株主には注意が必要だ。健全なモデルを構築するためには、おそらく資金調達に占める民間資本の比率も両者の中間に設定すべきだろう。つまり、高等教育機関よりは大幅に高く、しかし化粧品会社よりは大幅に低くする。もちろん、むやみに権力を振るいたがる拝金主義者は業界から退場してもらおう。

不平等の火薬庫

 ここ一週間、世界の目は再びイラクに集まっている。一月にはすでに、イスラム過激派組織ISIL(イラクとレバントのイスラム国)が、イラク中部の都市ファルージャを制圧。ここは首都バグダッドから一〇〇キロメートルと離れていないにもかかわらず、正規軍は奪回に失敗し、現体制の脆弱さを露呈することになった。いまやイラク北部全体が陥落しそうな勢いである。ISILは現時点で、新国家樹立のためにシリアの組織と連携しているようだ。この新しい国家は、シリア北部からイラク中部の広い地域にまたがっており、一九二〇年に欧州列強が定めた国境線はあっさり無視された。

 一連の戦闘は宗教戦争と認識され、スンニ派対シーア派の衝突と見なされることが象い。こうした観点からの分析はもちろん必要だが、顕著な不平等が社会的緊張を引き起こしたという面も見落とすべきではない。この地域では、富の配分かきわめて不平等だ--おそらくは世界で最も不平等である。多くの専門家は、ISILの出現は、サウジアラビアと、首長制をとる中東産油国(アラブ首長国連邦、クウェート、カタール)にとって重大な脅威だと指摘する(とはいえ、これらの国はどこもISILと同じスンニ派だが)。ある意味では、一九九一年のイラクによるクウェート併合が、より大きな規模に再現されているとも言える。

 そこまで言わないにしても、人の住まない狭い地域に集中する石油資源の存在によって、この地域の政治・社会システムが重層化し、脆弱化していることはあきらかだ。エジプトからシリア、イラク、アラビア半島を通ってイランにいたる地域を調べてみよう。この地域の人口は約三億に達するが、その一〇%にも満たない産油国だけで、この地域のGDP合計の六〇%を占めている。しかも産油国では、一握りの人間がこの天から授かった資源の不当に大きな分け前を独占し、大多数の国民、とりわけ女性や移民などは、半ば隷従状態にある。この体制を軍事的・政治的に支えているのは欧米であり、ありかたくもおこぼれに与って、サッカークラブの資金に充てたりしているのだ。欧米の民主主義と社会正義の教訓が、中東の若者に何の感銘も与えないのも驚くにはあたらない。

 データ収集に関する最小限の条件をいくつか設ければ、中東の所得の不平等は、従来最も不平等とされてきた国(アメリカ、ブラジル、サハラ以南のアフリカなど)よりも甚だしいという結論を容易に導き出すことができる。

 不平等の実態を探る方法は、ほかにもある。二〇二二年にエジプト政府が国内の学校教育全体(小学校から大学までを含む)に投じた予算は、一〇○億ドルを下回った。同国の人口は八五〇〇万である。そこからほんの数百キロ離れたサウジアラビアは、人口が二〇〇〇万、石油収入は三〇〇〇億ドルに達する。カタールは人口三〇万に対して石油収入は一〇〇〇億ドル以上だ。こうした状況で、国際社会は、エジプトに新たに数十億ドルの融資を行うべきか、それとも同国が約束した炭酸飲料とタバコ税の引き上げを待つべきか、逡巡している。

 このような不平等の火薬庫を前にして、何か打つ手はあるだろうか。まずはこの地域の人々に対し、欧米の最大関心事は社会の発展と地域の政治統合であって、政治指導者個人との関係維持ではないことを示す必要がある。EUの共通エネルギー政策は、ヨーロッパの価値観や社会モデルの尊重は認めても、中東における目先の国益優先を認めているわけではないのだ。これは、ウクライナやロシアにおいても同じことである。われわれの知る限り、アメリカの覇権はイラクの災厄につながった。力への陶酔は支配的地位の濫用につながりやすく、それは明日にでも再び起きかねない。

 つい先日も、規模は小さいながら(しかし無視できるほど小さくはなく)、フランス最大手の銀行BNPパリバがそれをしでかしたばかりだ。アメリカが金融制裁の対象としたスーダンやイランとあきらかに不正な金融取引を継続し、銀行幹部が辞任する事態となったのである。同行の経営陣は、がってはよき経営の手本を世界に示すことに熱心だったはずで、まさか巨額の罰金をアメリカ政府に支払い、その結果としてヨーロッパの金融業界を混乱に陥れかねないリスクを背負い込むことに熱心だったわけではあるまい。グローバル化か進む中でヨーロッパとしての重みを維持し、より公正な世界を実現するために、ヨーロッパの結束がかつてなく求められている。
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ピエティ ヨーロッパを変えよ

『新・資本論』ピエティより

ジョブズのように貧乏

 みんなスティーブ・ジョブズが大好きだ。ジョブズはビル・ゲイツ以上に好感度の高い起業家の代表格であり、大金持ちであって当然だと考えられている。というのも、ゲイツがオペレーティング・システムの事実上の独占によって(とはいえ彼はウィンドウズを発明したわけではあるが)富を築いたのに対し、ジョブズはiMac、iPod、iPhone、iPad等々じつにたくさんのイノベーションを世界にもたらし、情報機器の使い勝手にもデザインにも革命を起こしたからだ。

 たしかに、そのうちどこまでがこの一人の天才によるもので、どこまでが何千人もの技術者によるものなのかは、誰もよくわかっていない。技術者の名前は忘れ去られる。まして、エレクトロニクスや情報科学の基礎研究に携わる無数の研究者の名前は言うまでもない。彼らの研究成果が日の目を見なかったり、特許をとらなかったりすれば、なおのことである。それでも、どんな国、どんな政府も、あのような起業家が自国に現れてほしいと願っているにちがいない。

 ジョブズとゲイツは、才能にふさわしい富を築いたという点でも、起業家の代表格だと言える。フォーブス誌の長者番付によると、ジョブズの資産は八〇億ドル、ゲイツは五〇〇億ドルである。これを知ると、ちゃんとお金は才能のある人のところへ行くのだと、世の中はなかなかよくできていると、つい満足したくなる。だが残念ながら、富が才能や努力に見合っているとは言えない。満足感に浸っていないで、もうすこし深くこの点を掘り下げてみるのも無駄ではなかろう。

 まず疑問を感じるのは、イノベーターであるジョブズの資産が、ウィンドウズの上がりで食べているゲイツの資産の六分の一にすぎないことだ。この事実は、競争原理にはいまなお改善の余地があることを示しているように思われる。

 さらに憂蜃なのは、アップルがここ数年メガヒットを連発し、その創造的な発明が全世界で大人気になっているにもかかわらず、ジョブズの資産がリリアンヌ・ベタンクールの資底(―五〇億ドル)の三分の一以下であることだ。彼女は一度も働いたことがなく、ただ父親から遺産を受け継いだだけである。フォーブス誌の良片肝付を以ると、ジョブズより上に遺産相続者が一〇人以上いる(それでも噂によれば、同誌は遺産をできるだけ低めに見積もるような計算方式を採川しているらしい)。

 それだけではない。資産が。定水準を超えると、その川元方は企業経営者の収入よりもはるかに速いペースで、というよりも爆発的に、増えるようになる。一九九〇年から二〇一〇年にかけて、ビルーゲイツの資産は四〇億ドルから五〇〇億ドルに、リリアンヌ・ベタンクールの資産は二〇億ドルから二五〇億ドルに増えた。どちらも、年平均二二%以上、インフレを差し引いても実質一〇~一一%増えた勘定である。

 彼らのケースは極端にしても、一般的にも資産は大きいほどハイペースで増える。中規模な資産は年平均三~四%しか増えないし、もっとささやかになれば、さらにペースダウンする。たとえば“Livret A”と呼ばれる非課税貯蓄口座の利率は現在二・二五%だから、インフレを差し引くと〇・五%以下になってしまう。だが巨額の資産であれば、投資リスクを冒すこともできるし、運用のプロを雇うこともできる。このため実質的な投資収益率は七、八%に跳ね上がり、最大級の資産ともなれば、持ち主の才能や職業的能力のいかんにかかわらず、あっさり一〇%以上に達する。要するに、金は金を生むのである。

 このことは、さまざまな政府系ファンドにも、また大学の基金にも当てはまる。北アメリカでは、寄付による基金が一億ドル未満の大学の場合、一九八〇~二〇一〇年の投資収益率は年五・六%だった(インフレ調整済み、すべての運用費用差し引き後だから、これはこれで悪くない)。これに対し、一億~五億ドルの基金の投資収益率は年六・五%、五億~一〇億ドルでは七・一%、一〇億ドル以上では八・三%である。そして御三家ハーバード、プリンストン、イェールの場合には、一〇%近かった(この三校はいずれも、一九八〇年の時点ですでに寄付金総額数十億ドルを誇り、二〇一〇年にはビル・ゲイツやリリアンヌ・ベタンクールにひけをとらない数百億ドルに達している)。

 財産が増えるからくりは単純だが、そのすさまじさは好ましくない。この傾向がいつまでも続くと、富の分布ひいては経済的影響力の格差はますます拡大し、二極化するだろう。これを食い止めるには、累進制のグローバル資産課税が望ましい。未来の起宸家を優遇するために、少ない資産に適用する税率は低くする。一方、勝手に増えていくようなし額の資産には高い税率を設定する。だが現状を見渡す限り、もしこれが実現するとしても、はるか先になりそうだ。

ヨーロッパを変えよ

 グローバル金融危機の発生から五年が過ぎた今年、アメリカでは成長が復活した。日本にもその兆しがある。ひとりヨーロッパだけが、景気低迷と信頼欠如の悪循環に閉じ込められたままのように見える。欧州大陸は、危機前の経済活動の水準に近づく気配もない。そのうえヨーロッパの公的債務は、他の富裕国に比べればずっと低い水準にとどまっているにもかかわらず、債務危機を乗り越えられそうもないのだ。

 理屈に合わない事態はこれだけではない。ヨーロッパの社会モデルは世界で最も優れており、われわれにはこれを守り、よりよいものにして、世界に誇る理由が十分にある。ヨーロッパの人々が保有する資産(不動産、金融資産から負債を差し引いた純資産)の総額は、世界で最も多い。中国をはるかに上回り、アメリカよりも日本よりも多いのである。また、通説とは異なり、ヨーロッパ人が世界の他地域に保有する資産は、他地域の人間がヨーロッパに保有する資産をあきらかに上回っている。

 ではなぜヨーロッパは、こうした社会・経済・金融面の優位性を持ちながら、危機を克服できないのだろうか。答は、こうだ。枝葉末節でいつまでも対立し、政治では小人、税制ではザルであることに満足しているからである。ヨーロッパは、互いに張り合う小さな国(そう遠くない将来に、フランスもドイツも、世界経済の基準から見れば小さな国になることは確実である)の集まりであり、さまざまな地域機関は現状に適応できておらず、機能不全に陥っている。

 一九八九年のベルリンの壁崩壊と翌年の東西ドイツ統合の衝撃からわずか数カ月のうちに、ヨーロッパの首脳たちは単一通貨の創設を決めた。リーマン・ショックに端を発するグローバル金融危機から五年が過ぎたいま、人々はあのときと同じ勇気を待ち望んでいる。問題ははっきりしている。一七の国が金利の異なる国債を発行し、異なる税制を持つ二七の国が互いに隣国の税収の横取りを狙っている状況では、単一通貨は機能しない、ということである。それがいやなら、共同債の発行や共通税を実現するために、ヨーロッパの政治構造を根本的に変えなければならない。

 問題の元凶は、欧州理事会(加盟国首脳と欧州委員会委貝長で構成される)と、その下の閣僚会議(EU財務相会議など)にある。大方の人が、欧州理事会は最終決定機関としての議会の代わりを果たせるのだと、信じるふりをしている。

 しかしこれは幻想にすぎない。幻想はどこまで言っても幻想で、実現はしない。理由は簡単である。一円一代衣の欧州理事会では、公明正人に公開討論が行われる民主的な議会を組織することはできないからだ。このような決定機関は、国家のエゴのぶつかり合いの場となり、集団としては無能力となる。個人の能力の問題ではない。メルケル=オランドもメルケル=サルコジも似たり寄ったりだ。

 理事会というものは、一般的な規則を決めたり条約改正の交渉をしたりするには、都合がいい。だが財政同盟や共通税の検討、財政赤字の水準の決定、構造変化への適応(共同債に移行するとなれば、各国の判断で国債を発行することはできなくな邑、域内共通税の課税ベースや税率の設定といったことを民主的に決定するためには(まずは現在多国籍企業が多額の税逃れをしている国で課税を始めなければならない)、ユーロ圏の真の議会、予算・財政に関して最終議決権を持つ議会が必要になる。

 いちばん自然なのは、各国の議会から、たとえばドイツ連邦議会やフランス国民議会の予算・財政委員会から議員が集まるという具合にすることだろう。毎月一週間集まって、共通の議題を討議し決定を下す。こうすれば各国は首脳一人ではなく、三〇~四〇名の議員で代表されることになる。その結果、採決も国益のぶつかり合いにはならないはずだ。フランスの社会党(PS)議員はドイツの社会民主党(SPD)議員と、国民運動連合(UMP)の議員はドイツキリスト教民主同盟(CDU)の議員に同調するだろう。そして大事なのは、討論が公開され、論点が明確になり、最終的にはクリーンな多数決で決着することだ。

 もうそろそろ、欧州理事会の見せかけの「満場一致」から脱却しなければならない。「ヨーロッパを救った」という発表は決まって朝の四時に行われる。そして昼頃には、首脳たちは何もわからずに決めていたのだとみなが気づくことになる。きわめつけの無責任は、ユーログループとトロイカ(欧州連合、欧州中央銀行、IMF)が満場一致で決めたキプロスの一件だろう。その後数日間で起きたことの責任を誰も公にはとっていない。

 各国政府は、いまだに現在の体制に固執している。ドイツのリベラルからフランスの左派にいたるまで、ヨーロッパの政治を決めるのは欧州理事会だというコンセンサスができ上がっているのである。

 なぜ、こうなったのか。表向きには、フランス人は連邦制を望んでいない、したがってその方向での条約改正はあり得ない、と説明されている。これはまた奇妙な議論と言わねばならない。二〇年以上前に通貨主権を卜放し、そのうえ財政赤字についてひどくこまかい規則(たとえば咋年決まった「新財政協定」によれば、上限はGDP比〇・五%、守れなかったら罰金)を決めたときから、事実上は連邦制になっているのである。

 問題ははっきりしている。首脳と高級官僚が牛耳る事実上の連邦制にこの先も突き進むのか、それとも民主的な連邦制に賭けるのか。
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ピエティ ギリシャ人は怠け者ではない

『新・資本論』ピエティより

ギリシャ人は怠け者ではない

 生産する以上に消費しているギリシャ人は、怠け者だということになったらしい。おまけに彼らは、財政をごまかすような堕落した政府を選んでしまった。兄弟や隣人がのらくら毎日をすごし、稼ぐ以上に浪費していたら、そいつに金を貸してやるよりも働かせるほうがいいと思わないかね? いい加減に遊び暮らすのをやめさせ、労働の美徳を教え込んでやるほうが身のためだろう?

 家庭的な道徳観をふりかざし、怠け者と働き者、放蕩息子とよき父を対比させるこの手の比喩は、昔から耳にタコができるほど聞かされてきた。いつだって、金持ちは貧乏人に怠け者の汚名を着せたがる。ギリシャの太陽の下、新しきもの何もなし。

 ただし昔とはちがって、この手の比喩が今日ではあっという間に広まってしまう。世の中の助きがわかりにくくなった今日では、人はとかく簡単でわかりやすいことに飛びつきやすい。メディアで繰り返される非雌と悪評に米を点やしたギリシャのパパンドレウ首相は、ベルリンを訪問した際に、「ドイツ人の遺伝子にナチズムがないように、ギリシャ人の遺伝子にも怠け癖はない」と宣言した。この発言は、EU首脳たちにはさしたる感銘をりえなかったようだが、これまでギリシャ危機に関心のなかった人々には強烈に響いたにちがいない。

 家庭の道徳を持ち出すのは、個人のレペルでは適切だとしても、国家のレべルには当てはまらない。資本主義は、美徳とは無縁なのだ。理由は、簡単に言えば二つある。資本主義というものが、一つは最初に受け継いでいる遺産に、もう一つは資本収益率などの変動要因に、強く支配されることである。

 まず、最初に受け継いでいる遺産を取り上げよう。ギリシャは、国の一部がつねに他国に所有されている国の一つである。ギリシャ以外の国がギリシャ国内で所有しているもの(企業、不動産、金融資産)は、ギリシャが他国に所有しているものよりも多く、この状態が数十年前から続いている。ギリシャが消費や貯蓄に回せる国民所得は、他国に払い込む利子と配当を差し引くと、国内総生産よりもつねに少なかった。このためギリシャ国民は、生産する以上に消費せずにいられる可能性はほとんどなかったのである。

 ギリシャの国内生産と国民所得の乖離は、危機直前の時点で、約五%だった(これは、今日ギリシャが要求されている財政緊縮目標の二倍に相当する)。この乖離は、外国投資に極端に依存する国(たとえばアイルランド)の場合には二〇%を超えることもあり、開発途上国ではもっと大きい。利子と配当の流出は過去の投資の結果にほかならない、だからギリシャの債務者とその子供が生産の一部を外国の債権者に払うのは当然だ、と反論する人がいるかもしれない。だがそれは、借家人の子供が大家の子供に家賃を払い続けるのは当然だ、と言っているのと同じことだ。

 次に、資本収益率である。今回の危機は、ギリシャの納税者が突如として六%以上の国債金利を払わなければならなくなったことに直接の原因がある。ギリシャのGDPはおおよそ二〇〇〇億ユーロだ。世界の十大銀行は、一行で二兆ユーロ以上の資産を持っていることを思い出してほしい。市場では一握りの人間の思惑一つで、国債金利が三%から六%に跳ね上がり、その国に危機を引き起こす。

 このようなシステムは、あっという間に一国を奈落の底に突き落とすのであり、家府の道徳を振りかぎしている場合ではない。長期的な解決としては、政府による厳格な金融規制しかないだろう。そしてヨーロッパの場合には、財政運営に関して連邦制の導入を検討すべきだ。出際通貨基金(IMF)に頼るのではなく、ユーロ共同債の実現が望ましい。そして最終的には、通貨同盟の抜本的な改革は避けられまい。

 銀行を救うために、金融当局は窮地に陥った銀行に無利子または一%の低利で無制限に融資した。みごとな手腕だったと言えよう。だが、金利の高くなった公的債務を返済するために、今後しばらくは耐乏生活をしなければならない、とヨーロッパの納税者(ギリシャもドイツも含む)を納得させられるのか。そこははっきりしない。

日本--民間は金持ちで政府は借金まみれ

 ヨーロッパから見ると、日本の現状は摩詞不思議で理解不能である。政府債務残高がGDPの二倍、つまりGDP二年分にも達するというのに、日本では誰も心配していないように見えるのは、どうしたことか。どんな事情で、あるいはどんな政治的決断によって、借金がこれほど莫大になったのか。われわれは日本の政府債務をGDP比や絶対額で毎日のように目にして驚いているのだが、これらは日本人にとって何の意味も持だないのか、それとも数字が発表されるたびに、みな大急ぎで目を逸らしてしまうのだろうか。

 政府債務について考える際にいちばんいいのは、国民経済計算を参照することである。ほとんどの国が、ストック面のデータ(国民貸借対照表)を公表している。すなわち、家計、企米、産出と所得というフロー面のデータだけでなく、政府部門が保有する資産(固定資産および金融資産)と相互および対外的な負債である。

 ただし、この種の統計は、完璧ではない。たとえばグローバル・ベースで言うと、正味金融資産は世…抒令体でマイナスになっている。これは論理的にあり得ない--地球の資産を火星が所有しているなら、話は別だが。マイナスになるのは、まずもって確実に、金融資産のかなりの部分がタックスヘイブン(租税回避地)にあり、それを所有している非居住者がしかるべく申告していないからである。経済学者のガブリエル・ズックマンがこのほど発表したように、ユーロ圏ではとくにこの現象が甚だしい。つまりユーロ圏の金融資産は、公式統計とは逆に大幅なプラスのはずだという。ヨーロッパの金持ちには財産の一部を隠す理由が大いにあり、EUは、それを防ぐためにすべきことやできることを怠っている。

 だが、統計が不完全だからと言ってがっかりする必要はない。むしろ国民経済計算を徹底的に調べることによって、改善に貢献できる。経済学においては、最低限のところから始めるという原則を受け入れなければならない。それによってこの学問は興味深いものになるし、大きな進歩も可能になる。

 調査や分析を怠れば、必ず最富裕層を利することになる。それも、築き上げた財産よりも、棚ぼた式に手に入れた財産の持ち主を利することになりやすい。人間は、後者のほうを何としても守ろうとするものだからである。

 日本の話に戻ろう。政府債務を論じるときにまず注目すべきは、個人資産はつねに一国の負債(政府部門+民間部門)を大幅に上回ることだ。日本もヨーロッパもアメリカも、家計部門の固定資産と金融資産の合計(負債差引後)は、おおむねGDPの五〇〇~六〇〇%になる。富裕国では、おおざっぱに言って国民一人当たりの所得が三万ユーロだとすれば、平均的な資産は一人当たり一八万ユーロになる。つまり年収六年分である。

 次に、日本政府はたしかにGDPの二〇〇%を上回る債務を抱えてはいるか、同時にGDPのおよそ一〇〇%相当の非金融資産(国有地、公共用資産)と、やはり一〇〇%相当の金融資産(国営・公営企業の持ち分、郵便貯金など公的金融機関の資産等)も持っている。したがって、資産と負債はほぼ釣り合っているのである。

 ところが日本の政府部門の資産ポジションは、ここ数年ややマイナスになっている。これはきわめて異常なことだ。しかも政府は、所有しているものをすべて売るということははできないのである。比較のために、フランスとドイツの政府部門を以てみよう。どちらも、グローバル金融危機のあとでさえ、人幅にプラスになっている。たとえばフランスの場合、政府債務残高はGDPの一〇○%に達しているが、政府の保有資産(非金融資産+金融資産)は同一五○%である。

 この日本特有の状況は、同国(政府部門十民間部門)の保有する対外純資産が巨額に達していることを考えると、一段と衝撃的である。過去二〇年の間に、日本は国民所得一年分に相当する対外純資産を積み上げてきた。

 民間部門が金持ちで政府部門は借金まみれという不均衡は、東日本大震災の前から顕著だった。この不均衡を解消するには、民間部門(GDPに占める割合は三〇%程度)に重く課税する以外にない。論理的に考えれば今回の大震災は、一九九〇年から続いているこの現象を一段と加速させるはずだ。そして日本をヨーロッパに、つまりは債務危機に近づけることになるだろう。
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一番、やりたいこと

一番、やりたいこと

 何がしたいのかね。一番、やりたいことをしないと、とは思っているけど。とりあえずは寝ないことぐらいしかない。

 全然、その気がなくて、11時半まで部屋でウロウロしていた。まとまってもいないし、入力することもなく、何か方向がなくなっている。よくあることです。今さらながらの決意だけを繰り返している。

知のカプセル

 IT教育よりも「知のカプセル」を狙おう。全てを知りたいのだから、教育方法は構っていられない。

スケジュール

 Iさんへの連絡は、木曜日に行います。調子を見てから。そうなると、その次は6月19日です。これはWhat's a name?です。スケジュールがないですね。

 やはり、9章と10章のより分け書きになります。これからやります。
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