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本屋は戦う!

歴史の節目

 歴史の節目は描かれているけど、何かピンと来ない。もっと、大きく構えないといけない。

 なんで、2050年の予測で技術だけに頼るのか。今のままの延長線上にないのは、技術よりも政治体系とか、人々の心のありようが大きく変わらざるを得ない。

家の掃除

 掃除を奥さんはやっているけど、ノブたちがどういうカタチで来るのか分からない。一切、教えてもらっていない。

 これで、ノブが帰った後に、数日、不機嫌になるのでしょうね。

循環が変わるときのNPOの役割

 教育と仕事を仮定がどういう循環になっていくのか。特に就職という概念がマーケティングが変わることで変わらざるをえない。

 ESDが在るのであれば、その循環が一番大きなターニングポイントです。そこを変えずして、家庭は変わらないでしょう。企業は企業自体を変えることが企業の本来の役割です。

 NPOにそういう思いがなければ、NPOはなぜ、存在するのか。

本屋は戦う!ことが必要なんです

 「戦う!書店員ガール」であれば、バトルは必須です。ビブリオバトル。リアルでできることは全て行う。

 本に対する愛があるのであれば、「ネバーエンディングストーリー」を皆に説明したいのであれば、それを直接やればいい。恋愛と生きている目的と仕事をどうかませるか。

 仕事と言った時にそれをハッキリさせないといけない。モノが作ることとか、プレゼンすることが仕事ではない。マーケティングに、お客様にいかに合わせるか、いかに循環させるか。

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食料危機の波

『環境と共生する「農」』より

第一の波

 戦後の世界の食料危機的な状況については、大きく三つの波としてとらえるとわかりやすい。第二次大戦後まもなくの絶対的な食料危機(戦争終了時からの量的不足の時代、第一の波)から、近代化と生産拡大が進み、国際的な貿易が拡大するなかで絶対量という側面より構造的・質的な食料危機の状況が生じてきた。その象徴的出来事が一九七〇年代初頭の食料危機であり、初期の絶対的不足が克服されて需給が安定するかにみえたなかで、複合的な要素をはらんで生じた危機としてとらえることができる。

 それは世界的な天候不順を契機としているが、グローバルな流通の拡大のなかで需給の逼迫(穀物の大量買い付け)などが引き金となりつつ、複合的な要因があわさって国際価格の高騰を招く事態として現れた。一九七二年に旧ソ連の小麦地帯が干ばつによる不作にみまわれ、小麦の大量輸入によって国際的な穀物価格が上昇した。また一九七二~七三年のエルニーニョ現象でペルー沖のカタクチイワシ(アンチョビー)が不漁となり、その多くが飼料として利用されていたことから飼料(穀物)価格の高騰に影響をあたえた。さらに米国でのダイズ不作も起き、そこに飼料需要の圧力からダイズ需要(ダイズ粕の利用)が重なったことで需給が極端に逼迫したのだった。

 その結米、ダイズ輸出の制限措置がとられることになり、多くを輸入に頼っていた日本においてダイズ製品が高騰してダイズハニックが引き起こされた(一九七三年)。当時は、ちょうど石油ショック(原油価格の高騰)とも重なったことで、人びとの生活が大きく翻弄される大事件となった。一連の動きをみるかぎり、さまざまな要因が重なり合って、波及的に現象が起きた典型的事例としてとらえることができる。

 その後、生産体制が強化され生産量としては再び過剰基調で推移していく経過をたどっていく。しかしながら、他方ではパニック的な食料危機とは異なるもう一つの矛盾も顕在化してきた。すなわち、絶対的な食料生産量は確保されているなかで、飢餓と食料不足に苦しむ人びとを抱える国々が生じていく「飽食と飢餓の並存的状況」が進行するのである(第二の波)。それは量的な問題というより構造的・質的な問題ととらえることができる。

第二の波

 構造的・質的という意味は、スーザン・ジョージの有名な著作『なぜ世界の半分が飢えるのか』(邦訳、朝日新聞社、一九八四年)で問題提起されたように、量的な不足という単純な問題ではなく、いわば商品作物として世界流通する構造が作り出す飢餓問題という矛盾を表現している。地域や自国内で基本食料を生産できるにもかかわらず、経済構造とりわけ貿易依存体制(国際分業)によって他国に売る輸出用商品(換金)作物が優良農地を占有してしまい、土地や生産基盤を持たない貧者と弱者が排除されることから、飢えに苦しむ人びとの状況が生じているのである。

 それは、従来の経済合理主義的な考え方への批判ないし矛盾として立ち現れている。これまで、「比較優位の経済理論」(互いに有利な産業に特化して貿易すると双方にメリットが生じる)を背景にして、安いもの(基本食料)を他から買い付けて、より高く売れるものを販売することで総体的に経済的豊かさを実現するという考え方(経済合理主義)が主流をなしてきた。それは、国際市場における貿易関係のみならず、いわゆる市場原理主義や規制緩和政策がはらんでいる矛盾としても共通する側面をもつ。結局のところ、そこでは誰のための豊かさがより多く実現されるのか、結果として格差を生じさせる関係性が見過ごされがちとなり、どちらかといえば「儲けの論理」(儲ける人がより有利になる)に偏った考え方に陥りやすい側面を持っていたのである。

 より一般化していえば、そこでは往々にして、大金を手にできる人と損を強いられる人、対等性という面では機会から排除される人さえ生み出しやすい矛盾(非対称性)を内在していたということである。そのことは、途上国での貧富の格差拡大の一要因となっており、また昨今のアメリカ社会や中国社会における格差問題を生む背景にもなってきた。これは社会的不平等ないし社会的コストを生じてしまうという意味では、外部不経済(公害問題など、第三者が受ける不利益)という問題としてもとらえることができる。

 外部不経済という点では、食の世界での「グローバル化」により、質的な意味で食生活の内容が多様性を失い、地域の農業とのつながりや風土性を育んできた食文化などが急速に失われる事態を生じてきた。食文化の意味内容は形骸化し、味覚や栄養面での単純で画一的な評価が大勢を占めることで、いわゆる西欧化か急速に進んだ。すなわち、肉食傾向を強め、ハンバーガーに象徴されるように画一的、ファッション的な色彩をおびて、風土や地域・文化的な色彩を失っていく状況(ファストフード化現象)を進展させてきたのだった。こうした全体的な動向をみるかぎり、量的な側面のみならず構造的・質的にも、豊かさの中身の変質という問題がそこには横たわっていると考えられる。

第三の波

 そしてその後、最近の食料危機的な事態は、さらなる複合的な要因が重なり合うかたちで進行している点に特徴がある(第三の波)。貿易面でいえばものの売買の範躊を逸脱して、まさに投機(マネーゲーム)の対象として穀物(基本食料)が位置づけられる状況や、穀物と食料作物がバイオ燃料として利用される状況が生じた(エネルギー市場との競合)。さらに気候変動(地球温暖化)や生物多様性の危機による生産基盤そのものの脆弱化か進行するといったように、複数の危機的状況が絡み合ってより複合性をもって出現しているのである。

 ただし現象的には、ちょうど一九七〇年代初頭の食料危機とよく似た動きが起きているようにみえる。量的な側面でみたとき、世界の穀物の期末在庫が大きく低下して、七〇年代初頭とほぼ同水準にまで落ちており、また当時の石油ショックを彷彿させるような原油価格の高騰も起きたことから、事態の深刻さの再来が予想されるのである。しかしながら、急激に価格高騰した要因のかなりの部分が投機マネーの流入といった人為的影響であったことは、金融危機後の価格低下で明らかになった。とはいうものの、バイオエタノール需要の動向や中国・インドなど新興諸国の需要拡大によっては、多少とも波乱含みの食料危機的な状況が今後とも懸念される。

 将来の動向を考えるにあたっては、大きくは世界経済の質的な変質(金融バブルの崩壊)といった状況や、地球規模での資源・環境の制約が顕在化しだしていること、さらに環境の世紀と呼ばれているように、従来の大量生産・大量消費型の経済発展パターン自体(物質的豊かさの追求)がいよいよ限界に直面しだしているといった状況をふまえて見通していく必要がある。

 時代は、転換期的な様相をさまざまな局面において呈している。世界人口の動態においても大きな構造的な変化が進行しているが、食料問題とのつながりでは、あまり注目されていない。国連人口統計によると、世界全体で都市人口が農村人口を上回る事態が起きている(二〇〇八~○九年)。すなわち、世界規模で食料の消費人口(都市)が生産人口(農村)を上回ったことを意味しており、食料生産・消費構造の根底が大きく変化しているといってよかろう。とくに中国では、二〇一〇年度に日本を抜いてGDP世界第二位となるとともに、人口動態的にも都市人口が農村人口を上回る状況にある。

 人類のフードシステム(食料生産・供給体制)は、現状の推移をみるかぎり、集約化と産業化か進み、少数の巨大穀物メジャーや巨大流通・商業資本(スーパー)の支配下に組み込まれていくことになる。世界的な食料危機が、とくにアメリカを発信源とするグローバリゼーション(「貿易自由化」と「構造調整政策」)によって、各国の自給政策(農村と家族農業の保護)が解体されてきたことで深刻化した経験に学ぶ必要がある。残念ながら農業・農村はますます衰退していき、食料は商品化と貿易品目に組み込まれ、儲けの手段に取り込まれていく現実は今も進行している。かつて一九七〇年代の食料危機と同様、次なる危機でもアグリビジネスは危機をチャンスに、利益拡大を図る状況が起きるだろうことは十分に予想される。

 しかし、危機を別のチャンスとする〝もう一つの道〟を展望する機会ととらえるべきではなかろうか。各国・各地域の食料主権を農民や多様な地域社会の人びとの手に取り戻し、真の意味での危機克服の道を築くことが求められている。本章の最後にはそうした展望を見出していくための道筋についてふれるが、まずそのための前提として、世界のフードシステムの状況と、我が国の食と農の変遷を振り返って考えてみることにしたい。
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ソーシャル・ネットワークの可能性

『2050年の世界』より

SNSが開く未来の三つのトレンド

 これらの変化が生み出したいくつかのトレンドは、今後数十年間にもっとはっきり姿を現わしてくるだろう。第一のトレンドは、意思決定に友達の影響力が強まること。人間は昔から仲間に助言を求めてきた。しかし、相談相手に電話をかけまくったり、大量の電子メールをやりとりするのは、かなりの時間と手間を要する作業だ。

 SNSはこのプロセスを大幅に簡素化してくれる。例えば、誰かが質問を投稿すれば、接続中の友人全員に一瞬で伝わり、友人たちはすぐに答えを返すことができる。また、用意されている。〝ソーシャル・プラグイン〟を使えば、ほかのサイト上の友人と交流することもできる。現在、フェイスブックだけで、アプリやサイトとのリンクが七百万以上も貼られている。このように、SNSによるインターネットの植民地化が進めば進むほど、社会にあふれるコンテンツの濾過装置として、友達の重要性はどんどん大きくなっていくだろう。

 第二のトレンドは、情報が〝クラドソース化〟すること。著名な例としてはウィキペディアが挙げられる。もうひとつの例であるクオーラは、オンラインの質疑応答機能にSNSの風味を付け加えたものだ。フェイスブックの元幹部たちによって創業されたクオーラでは、利用者の疑問にほかの利用者たちが答えを提供するだけでなく、最高の答えを選び出す投票も行なわれる。すばらしい回答を寄せた利用者たちには、ネット上の好評という報酬が与えられ、彼らの回答はまわりからI目置かれるようになる。今後数十年のあいだ、人類の知識を向上させるべく、このようなオンラインの集団的努力が数多く試みられていくだろう。

 ブログとSNSは、第三のトレンドにも影響を与えている。大規模な情報伝達と情報共有がたやすくなった結果、人々は自分にとって大切な主義や問題に対して、以前よりもすばやく組織的行動をとれるようになった。今では、新聞やテレビ局などのマスコミに頼らなくても、不平不満を広く公表することが可能だ。じっさい、二〇一一年に北アフリカと中東で起こった民衆蜂起では、抗議者たちがフェイスブックやツイッターのサIピスを活用した。ソーシャル・メディアが蜂起に果たした役割は、おそらく過大評価されているだろうが、間違いなくブログとSNSは、アラブ世界に渦巻く一般民衆の不満が増幅される一因となっていた。

 この世論の増幅効果は、富裕諸国にも新しい政治形態を芽生えさせている。二〇〇八年のアメリカ大統領選挙は、ソーシャル・メディアが政治参加を促す可能性を際立たせ、以降、ソーシャル・メディアの影響力は増大を続けてきた。ピュー・リサーチセンターの別の調査によれば、二〇一〇年の米国中間選挙の前と最中に、成人のインターネット利用者の五分の一以上が、ツイッターやフェイスブックなどのSNSで選挙戦の情報を得ていた。そして、該当者たちのおよそ七パーセントは、同時期に政治活動を開始したり、政治組織に参加したりしていた。

 SNSで政治運動とつながっている人々の多くは、これまで積極的に政治と関わってこなかった若者たちだ。さらに言うと、ブログやSNSを通じた政治目的の達成は、ほかの政治活動形態と比べた場合、個人の社会経済的地位や所得や学歴との関連が薄いょうに思える。この二つのトレンドは、人々の政治参加の形が二変していることを示唆するだけでなく、今後数十年のあいだに、ソーシャル・メディアが伝統的な政治関与のパターンを激変させることを予測させる。

 すでにブログやSNSを含むソーシャル・メディアは、ほかの市民活動の形態にも影響を与えている。例えば慈善活動の分野では、津波などの自然災害で心に傷を負った人々をケアする動きや、幅広く寄付金を募る動きが見られる。慈善サイトのコージズでは、特定の慈善活動に適したプラットフオームの立ち上げを支援するだけでなく、各活動家の交友ネットワークをうまく利用する方法を伝授している。

まとめ

 ・インターネットが人類に与えた影響は、ソーシャル・ネットワークのくくりでみるとわかりやすい。コンピュサーブなどのパソコン通信の掲示板の世界から、よりIDが実名化したフェイスブックの世界まで。その世界は、八億人を超え、ひとつの国家となっている。

 ・SNSの興隆により、三つのトレンドが将来に予想される。一つめは、意思決定において友人の影響力が強まること。二つめは、集団の英知を利用したウィキペディア型のサービスを利用する度合いがますます強まること。三つめは、新聞やテレビなどの大マスコミに頼らずとも大規模な運動を起こすことができること。

 ・社内の協業を促すために、セキュリティの厳しい社内SNSの新しい形が生まれ、それを利用する企業が増えるだろう。

 ・求職活動のソーシャル化はますます進む。フェイスブックやリンクトインなどは求職者側だけでなく、採用する企業にとっても有効なツールとなっている。

 ・トヨタは、自動車間でソーシャル・ネットワーキング機能を持つことのできる車を発売するが、車に限らず、日常の電化製品のあらゆるものに、常時接続のネットを利用したソーシャル機能が搭載されるようになる。

 ・一方で、一社支配によるプライバシーの管理への懸念は、政府の規制を招くか、あるいは、非営利団体によるデータの管理といった方向に向かうかもしれない。また、SNS上のプライバシーの規定などを共有化する「権利章典」がつくられる可能性もある。

 ・ただし一社支配が長く続く可能性は少ない。新しいイノベーションを持ったネットワークが参入し、既存のSNSに取って代わる。

 ・異なるSNS間で、ウェブ上の人格を移動し、共有できるシステムが開発される。
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哲学用語

『哲学用語図鑑』より

 歴史

  文献 へ-ゲル『歴史哲学講義』

  メモ 人間の自由は、オリエント世界、ギリシア世界、ローマ世界と進むにつれて発展し、ゲルマン世界で最終段階に達するというのがヘーゲルの考え

  カントは自分の格率と道徳法則を一致させ、それを実践することが自由だと説きました(自律)。けれどもヘーゲルにとっての自由は、そのような個人の内面の問題ではなく、現実社会で具体的に実現されなくでは意味がないものでした。ヘーゲルは、具体的な自由が弁証法によって現実社会で実現する過程が歴史であると考えていた。

  ヘーゲルは、歴史を根底で動かしているものは人間が絶対精神を手にいれて自由になりたいと思う意識であると考えました。そしてその意識は少数の人間が自由になった時代から、すべての人間が自由を手にする時代へと歴史を推し進め、最終的に、人倫といわれる共同体を誕生させると主張しました。

 ルサンチマン

  文献 ニ-チェ『道徳の系譜』

  関連 奴隷道徳

  メモ 元々は「恨み」「怨恨」の意。

  これをニーチェは弱者が強者を憎悪する心理を表す語として用いた弱者が、力ではかなわない強者のことを悪に仕立て上げ、自分を納得させる心理をニーチェはルサンチマンと呼びます。たとえば貧しい人がお金持ちを悪だとみなすことによって精神的に優位に立とうとすることです。

  ルサンチマン 弱者は自分を善、強者を悪と思い込むことによって自分を精神的に優位に立たせる。

  弱者のこの性質によってキリスト教が爆発的に広まったキリスト教は、人々の心の中にあるルサンチマンを道徳という言葉に変えて正当化したので、爆発的に受け入れられたのだとニーチェは考えました。

 力への意志

  文献 ニ-チェ『力への意志』

  関連 ニヒリズム、、遠近法主義、超人

  メモ ニ-チェの「力への意志」という思想には、ショーペンハウアーの哲学の影響が見て取れる

  ニーチェは人の行動原理は力への意志だと考えました。強くありたいという気持ちがすべての感情や行動のもとになっているというのです。人が怒ったり笑ったり悲しんだりするのは自分の力が認められたり、けなされたりするからだとニ-チェは言います。

  部下が挨拶しないと上司は「常識がない」と言って怒います。けれども本当は部下に常識がなぃから怒るのではなく、自分が無視されて悔しいからだとニーチェは考えます。もっともらしく一般的な正義や道徳を持ち出すことには強くありたいという力への意志が隠されているのです。

 永劫回帰

  文献 ニ-チェ『ツァラトゥストラ』

  関連 ニヒリズム、超人

  メモ スイスのシルヴァプラーナ湖畔を散歩していたとき、永劫回帰のアイデアが生まれたといわれている。石ころをいくつかつかんで、地面にばらまく行為を何回も繰り返せば、いつかはまったく同じかたちで地面に配置されます。この行為をさらに無限回繰り返せば、何度も同じ配置になるはずです。

  ところで、原子は100種類ほどあるといわれていますが、すべての物質はその組み合わせによるものです。私たちの世界は原子の組み合わせでできています。

  物事が変化する前後で原子の種類と数は変化せず、時間は無限だと考えると、さきほどの石ころの例のように、私たちが今生きでいる世界とまったく同じ原子の組み合わせは、無限の時間の中で、今後何度も回ってくるし、過去に何度も繰り返されていたことにないます。

  このように考えると時間は円環運動をしていることになり、歴史に進歩や前進はなく、ただ変化のみが存在するのです。ニーチェはこれを永劫回帰と呼びました。

 超人

  文献 ニ-チエへ『ツァラトゥストラ』

  関連 ニヒリズム、永劫回帰

  メモ 超人とは対照的に、創造力に乏しく、単に生をむさぼるだけの人間をニ-チェは「末人」と呼ぶ

  人類には共通の目標があり、歴史はそれに向かって進歩しているというのがヘーゲルの考え方でした。けれども、神が死んだニヒリズムの世界では、人は目標に向けで生きる力を失い、グラグラと毎日を生きることを求めるようになるとニ-チェは言います。彼にとって私たちは円環運動をする時間の中をただ生きてぃるだけなのです。

  ニ-チェはそれでも永劫回帰を肯定します。なぜなら既存の価値に捉われず自分自身で自由に目標を決めることができるからです。

  ニ-チェは永劫回帰を『これが生きるということか。ならばもう一度』と肯定的に受け入れ(運命愛)、既存の価値に捉われずに新しい価値を生み出す人間を超人と呼びます。彼にとって超人とは真の意味で自由な存在なのです。

  (超人は奇想天外な発想で新しい価値を作る。たとえばユダヤ教の教えを破ってでも自分の信念を貫き通したイエス・キリストは新しい価値を生み出した超人。ニ-チェはキリスト教は強く批判したが、イエス本人のことは否定していない)

  ニ-チェによると超人は、奴隷道徳に捉われている人たちから初めは理解されませんが、奇想天外なアイデアで既存の価値を失った重苦しいニヒリズムの世界に風穴をあけます。

  そして、次に訪れるルサンチマンの存在しない世界で、超人たちは子供のように無邪気に楽しく生きることができるのです。

 現象学

  文献 フッサール『現象学の理念』『イデーン』『デカルト的省察』

  関連 現象学的還元、エポケー、志向性、ノエシス|ノエマ、間主観性

  リンゴが目の前にあったら、私たちはそのリンゴの存在を疑ったりはしません。ところがよく考えてみると、この場合確かなことは、自分にはリンゴが見えでいる(自分の意識にリンゴがあらわれている)ことだけであるとフッサールは気づきます。

  にもかかわらず、リンゴは自分の主観の外にあって、なおかつ自分はそのリンゴを見ている(知覚している)。だからリンゴは自分の意識にのぼっているのだと私たちは確信します。

  リンゴだけでなく、他人も自分の身体も過去の思い出も、すべでは自分の意識の中にあるのであって、意識の外には何もないはずです。世界は自分の主観の中だけに存在し、主観の外にはないのです。なのに私たちは、世界が自分の外に実在していることを当り前のように信じています。崖から飛び降らたりしないのはそのためです。

  私たちはなぜ世界の実在を確信しているのでしょうか? その確信はどうやって生まれるのでしょうか? その謎を解明するのが現象学です。
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