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図書館が街に出始めた

入力していない

 ここのところ、あまり考えていない。だから、入力していない。機械的な作業で気を紛らわせている。そうこうしている間に、明日から入院です。早、一ヵ月で第二回目のカテーテル手術。

 パソコンが主になっているから、考えが進まない。今日中にやることをやっておかないといけない。ネットに上げるものは上げておきます。雑記帳も区切りをつけておきます。

 今から、入力にします。来週は外へ行けるのは金曜日だけになりそうです。今日中にタブレットの中身を入れ替えます。

 6月1日から新生活を行います。3カ月遅れです。

どうしたら、分化できるのか

 第10章は、どうしたら、分化できるのかが大きなテーマです。

 単なる思い付きではなく、歴史の経過として、「自由」と「平等」を実現する。そのために上からでなく、下からやっていく。そして、間にコミュニティを作って、クループとして行動していく。分化することによって、何が達成できるのか。生きられるようになる。生きられるとはどういうことか。

10.1「多くの人が生きられる」

 10.1「多くの人が生きられる」だけでも大きな望みをかけています。

図書館が街に出始めた

 街のフェスには豊田市中央図書館が絡んでいるみたいなので、やってきました。外での朗読と図書館内の図書館ツアーです。11時からの活動になりそう。誰が中心となって、やっているかを確認します。

 「友の会」などの外部団体ではなく、図書館員がやっています。男性はこわもてです。問題は市長とか館長の思いなんでしょうか。豊田市はトヨタなき後はどうしていくのか。ピッツバークかデトロイトか。

 考える場所を拡げましょう。分化するために。

 実施内容は『図書館探見学ツアーと青空絵本の読み聞かせ会』です。HPを見たら、一応の案内は在ったけど、ほとんど告知されていない。参合館の前だったので、動線を明確にして、複合にしないと読み聞かせの環境ができない。

 街の中で坐っていると、色々なモノが見えてくる。折角外へ出て来たのだから、外から内への動線、内から外への動線を使わないと。総合的なアイデアが欲しい。やはり、「友の会」の名前で自由な発想をしないと。

 図書館は毎日、フェスであるし、エコットも毎日がフェスである。そのための動線。

豊田市の街

 何かあると思ったけど、町には何もないですね。金があることで、招くのはいいけど、単にそれだけです。

 「フツーのミライ」とか、訳の分からない、メーカー気取りのキャッチフレーズではどうにもならない。「フツー」はやはり「ふつう」でしょう。「ミライ」が「ミイラ」に見えてしまうのは、私だけなんでしょうか。

 だから、未来はデトロイトなんでしょう。生きていく意味を考える町にしないといけない。

 子ども商店街に「ハローワーク」があった。どこのアイデアなのか。エコットでやっているよりも規模が大きい。

私はコスプレイヤー

 コスプレと言えば、私はコストプレーヤーです。なにしろ、地球人に化けています。

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「わからないなりに選ぶ」は許されない

『どうして就職活動はつらいのか』より いくら探しても見つからない「やりたいこと」

とにかくたくさんの企業に応募するといっても、数多ある企業の中から実際に自分の応募先を決めるには、なんらかの選択基準が必要である。

しかし、これから大学を卒業して就職しようとする学生の大半は、せいぜいアルバイトやインターンシップといった就労経験しかなく、そもそも働くということがどのようなことなのかわからない。給与や福利厚生、事業内容や社風などの情報を集めてみたところで、自分にとってどれが大切なのか、優先すべきものかわからない。

このような状況で、明確な理由をもって進路選択をおこなうことは非常に難しい。調査回答でも次のようなものが見られた。

 「自分がどこでどのように働きたいのかイメージできなかったこと。これに尽きる」

 「まだ働いたことがないので、自分が働いている現実的なイメージが湧かないこと。そのため、どのような会社が自分に合っているのかわからないこと」

 「自分でもどう働きたいのか本当は見えていなかった事」

 「この業界、会社を選んでいいのかどうかについて悩むことが多かった」

 「エントリーしている企業が本当に自分に合っているのか不安だった」

 「実際に志望の業界と自分の相性が合っているかという不安」

 「どの会社も似たり寄ったりに見えた事」

 「諸々考えて転勤がないところを選ぶと、選択肢が限られてきて、そんなに狭めたら内定貰える確率が下がるどうしようという不安」

 「自分のやりたいこと興味のあることは 1.院まで行かないとムリだと悟り、と院進との迷い 2.技術系の仕事に多かったから、理工系行かなかったことへの後悔やりたいことだけ考えていてはいけない、子育てをしたい気持ちがあるなら計画的に考えなきゃいけないし両親のことも考えなきゃいけないという、やりたいことやるべきことのバランスのとれなさ」

 「女性としての将来を考えたときに、総合職か一般職、どちらにすべきか。バリバリ働いて自分の能力を試してみたい気持ちと、相手がいてもし授かったなら子育てしてみたい気持ちに、順序付け出来なかった」

 「地方出身者として、どこで働くべきか。高校の友達は地元企業や地方公務員で地元に戻る子が多くて、自他の比較で苦しんだ」

経験がないんだからわからないのが当たり前だ、わからないなりに選んでやってみろ、と言われそうだが、就職活動の大変なところは「わからないなりに選ぶ」ということが決して許されないことである。

就職活動の選考の場では、「自分はどういった人物」で、そのため、あるいはそれを生かして「こういうことをしたい」という、自己PRと一貫性のある「志望動機」を求められる。それが一番重視されていると言ってもいい。「わからないなりに」ではなく、「きちんと調べて熟考したうえで、こういう理由でこの会社に入りたいと考えます」という内容を理路整然と述べなければいけない。「まだよくわからないですが……」という台詞は謙遜の意を示す前置きとしては受け入れられるが、内容の薄さに対する言い訳にはならない。

それまで選んできた進路は、高校も大学も、どんな場所なのかなんて入ってみなければわからなかった。わからないまま入るということか許された。就活では、自分はここに入る意志があり、かつ適性がある、ということを、すでにその場に所属している人間に向かって説得力のある形で説明しなければいけない。

たとえば「給料がよい会社」「潰れなさそうな会社」「忙しくないところ」といった基準も、個人の考えとしては間違っていないだろうし、自分の中ではそうした基準で会社を選んだうえで、選考用には各社に合わせた志望動機を別につくりあげる人もいるだろうが、就職活動に関する説明会・セミナーや対策本で、それが正攻法だという話は聞いたことがない。その代わりに、どんな就活関連情報も、「自己分析」の徹底を説いていた。
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日本生活記 自転車 食事

『タングニの日本生活記』より

自転車--日本のミニマイカー

 日本は自転車王国だ。自分の車がないからではない。自転車が生活に密着しているからである。おまわりさんが自転車に乗って信号無視の取り締まりをしたり、子供を自転車の前後に乗せて保育園に預けに行くお母さんたちの姿を見たりする際にそれを感じる。中高生たちが部活を終えて楽しそうにお喋りしながら自転車に乗って帰る姿を見てもそうだ。

 首都圏では自転車無しで生活するのはしんどい事と思う。買い物、公園に遊びに行く、図書館に行って本を読む、子供を連れて病院にいくなどのすべてが自転車を通じて成り立っている。マイカーや公共交通機関ではどうだろうか? 自転車さえあれば半径2~3kmの範囲内にあるすべての公共施設などを利用できるため、ガソリン代のかかる車をあえて走らせたり、往復300~400円もするバス代を出す必要はないだろう。通勤や週末遊びに出かける場合を除いて、自転車は誰もが利用できる日本人のミニマイカーなのだ。

 だからといって日本で自転車専用道路が別途作られているわけではない。ただ単に、人々が行き交う歩道を自転車も通ることができるようにしてあるだけだ。歩道の幅だけに限って言えば、自転車がたくさん通っている日本の歩道が帷国より広いわけではない。それにもかかわらず、日本において自転車に乗ることが一般的な光景となった理由は何なのだろうか。他ならぬインフラと人々の意識である。日本で暮らしている途中で、しばらく韓国へ帰国して暮らした時のことだ。子どもを保育園に連れて行く時、自転車を利用しようと何回かトライしてみたのだが、大変たった。まず歩道と歩道の間の段差が大きく、くぼんでいる場所もあったため通行が困難だった。更に根本的な問題は、店の商品が歩道を占領しており、もう少し広い所は車までも駐車されていて歩道が塞がれている。人が歩いて通ることすら困難なときがあるほどだ。道幅ではなく、人々の意識と取締りの問題である。このような事情から、韓国では近くの大型スーパーやスポーツジムに行くために車を走らせて出かけることになる。

 もちろん日本も、自転車専用道路が別にないために不便な点もある。通行人は後ろから自転車にチリンチリンとベルを鳴らされたら、道をあけなければならない。韓国では見慣れない光景であり、時に面倒くさくもある。それでも川本では自転車が1台あれば、家の近所でショッピングから趣味まですべての事が可能である。何よりも二酸化炭素を排出しないという点が良い。

 自転車が不向きな場合ももちろんある。荷物がとても多い場合や雨の時、寒い時。その時は車のエンジンをかける。でも、天気がよい日に、爽やかな風を受けながらペダルを踏む気分といったら! 運動にもなり、環境にも優しい。一石二鳥である。

食事--日本人、ひとりで食べるのが好きな理由は?

 昼休み。韓国では会社員が一人で食事をするのは珍しい。飲食店に行けば、向かい合って座るテーブルがほとんどであり、そのようなテーブルで誰かが一人で食事している姿はなんだかもの悲しく哀れに見える。

 日本は正反対だ。低価格な飲食店であるほど一人で座って食べる店が大部分だ。大勢で食べられる店はファミリーレストランくらいだ。会社勤めの人でにぎわう都心の飲食店は皆一人で来店し、静かに食事する。大勢で騒いで食べる姿はなかなか見られない。外で食べるのを好まない人たちはお弁当を買ってきて会社の中の自分の席で食べる。漫画を読んだりコンピューターを見つめながら。

 韓国の会社員にとって食事の時間とは同僚とストレスを解消する時間でもあるが、日本の会社員にとってはただお腹を満たすための時間に思える。内情を聞いてみるともっと興味深くなる。知り合いの日本人になぜ一人で食べるのか聞いてみたところ、食事の時間までも職場の同僚と仕事の話をしたくないというのだ。公的な領域と私的な領域をはっきりと区別したいということは理解できる。

 さて、日常的な業務の話に戻ってみよう。日本人は業務処理は正確で親切である。たいていの諸外国の親切とは比べ物にならない。しかし、働くほうの立場からすれば、相当量の労働強度が要求される。公の場で日本人は出来るだけお客様に合わせようと努力する。このような理由から、昼休みぐらいは自分だけの時間が欲しいという訴えなのだ。お一人様の食事を終えてゲームセンターに行ったり、コーヒーショップの窓際で窓の外をぼんやりと眺めている数多くの日本の会社員。これは自由なのか、孤独なのか。

 オフィス街のこのような昼食の光景とは違い、町のファミレスの事情は異なっている。「ママ友」と呼ばれる主婦たちでわいわいと賑やかだ。子供たちを学校へ送り出し、家事も終えた後の時間帯。ランチタイムを利用して友人たちと午後の時間をめいっぱい楽しむ。それこそおばさんたちの天国だ。猛烈なおしゃべりに至っては、静かなイメージの日本は影も形もなく、韓国のおばさんたちとなんら変わりない。人と人が会って騒がしいから人間味がある。

 職場でひとりで食事する寂しそうな会社員と、昼の時間帯に親しい友人とひとしきりお喋りに花を咲かすおばさんたち。どちらが本当の日本人の姿だろうか。会社帰りに一杯やる居酒屋の騒々しさと帰りの電車の中の静けさ。僕はこの両方が日本なのだと思う。日本がたったひとつの姿だけである必要はない。韓国でも、ある会社員は「せめて一食くらいは、まわりと仲良く食べるのではなく、一人で食べることの出来る空間があったらいいのに」と愚痴をこぼすのだから。人の暮らしているところというのは結局は似たり寄ったりなのである。
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〝孤独死〟がひとつの死に方のモデルになるかもしれません

『ドクター小鷹、どうして南相馬に行ったんですですか?』より 〝

はじめからわかっていたことかもしれませんが、いまのシステムで〝孤独死〟を減らす唯一の方法があるとしたら、それはやはり新たな人間関係の構築と、そこから生まれてくる〝生きる意味を考える現場作り〟でしょう。

孤独死のキーワードが〝孤立〟だとしたら、街の〝おせっかい屋さん〟を増やすしかありません。そして、私の経験から言える孤立への介入、特に男性におけるコミュニティの創出に必要なことは、

①手作業や頭を使うなど、熱中できる何かを体験できる、②「やりがい」とかいう曖昧なものではなく、「質の向上」などの具体的な目標がある、③それによって「頼られる」とか、「カッコつけられる」など、悦びを昧わえる。そして何よりも、④自分の役割が明確にあり、そこに居場所がある、ということです。

集まるだけの場や語らいだけの場、与えられるだけの場には、男性はまず来ません。つまり、「おしゃべりをしなくても、自ら動くことができて、そこに居られて、目標となるものが見出せる場」ということです。男性の関心は古まざまです。多様なオプションを用意する必要があります。世代・男女・地域を超えた場の提供です。

と、ここまで書いてきて言うのも何ですが、「そんなことを言っても、〝孤独死〟や〝孤独死〟は被災地に限ったことではないだろうし、むしろ都会の真ん中でも日常的に起こっていることだから、むしろ日本社会の構造上の問題であって、改めてここで述べることでもないのではないか」という気もしてきました。もっと言うなら、「そのような人たちの〝孤独死〟を、本当の意味で防止できるのか」ということと、さらに辛辣なことを言わせていただけるなら、「〝孤独死〟を防いで、ではあなたにその人の人生のすべての面倒をみられるのですか?」と問われれば、ぐうの音も出ません。

だから、「格差を黙認してきた無縁社会が悪い」とか、「もっと行政が手を差し伸べるべきだ」という論調に仕向けることで、私は現実から目を背けてきたような気もいたします。きっと多くの人たちもそうなのではないでしょうか。

とどのつまり〝孤独死〟するということは、自死であろうが、いわゆる消極的自殺であろうが、死ぬ以上の生きる意味を見出世ないからです。貧困問題も障害者問題もすべて、行き着くところは同じです。〝弱者〟というと、これまたかなりの誤解を受けることになりますが、生きるサポートが十分行き届かないのは、構造や制度というよりは、身も蓋もない意見ですが、彼らを救っていくだけのメリットがないからです。社会のシステムは〝必要最低限〟が基本原理であり、「弱者たちをどうするか」ということを突き詰めていくと、大部分はやはり家族や仲間とのつながりに頼らざるを得ないということになってしまいます。核家族化によってそういう人が周囲にいなかったり、精神を病んで他人を受け入れることのできなくなったりした人たちは、簡単に孤立化してしまいます。

最終的には、どれほど監視体制を徹底しようが、タブレット端末を用いて被災者の生活状況データを一元管理するシステムを導入して、「誰が、どこで、何を課題として、どんな状況で生活しているのかを把握する」ということに取り組んだとしても、当事者からしてみれば、監視してもらっていても生きる目標がなければ何にもならないということになります。要するに、「誰かに迷惑をかける前に死ぬ」という思考です。

見回りを強化して、「3日間連絡が取れなければプライバシーの問題もあるが、部屋に入って安否確認する」ということを実践して、では、最悪の事態を防止して、水際で食い止めて、いったいその人は、その後の人生をどう生きていったらいいのでしょうか。「社会全体でそれを支える」ということが理想なのでしょうが、果たしてそんなことが本当に可能なのでしょうか。

これからの日本においては、被災地を問わず〝孤独死〟というものが爆発的に増えます。もちろん、それが良いはずはないのですが、誰にも迷惑をかけず、世話を焼かせず、気づかれずに死んでいく〝孤独死〟は、今後の社会における死に方のひとつのモデルなのかもしれません。私たちは、大勢の人に囲まれて、惜しまれながら逝く死が正しいと思い込んでいます。「孤独は悲惨だ」と勝手に思っています。ですが、実際に〝孤独死〟を選んだ人たちが、一体何を考えていたのか、それは誰にもわかりま世ん。

私は、冷たいことを言っているかもしれません。ただ、障害を抱えた1人の高齢者のために、崩壊していく家庭が間違いなく存在しています。こんなことは精神科医の香山さんにしか打ち明けられませんし、最後はまったくもって救いようのない結論になってしまいましたが、被災地の人が語る「他人に迷惑をかけずに、最後は独りでひっそりと消えていきたい」という言葉が、いつまでも私の耳から離れません。
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項目の見直し 9.環境社会 オーラル2

9.3「グローバル化」

 9.3「グローバル化」です。これが環境社会では大きなテーマです。グローバルに対して、グローバルのグローバルを対応させ、ローカルに対して、ローカルのローカルを対比させる。位相空間のカタチになります。

 国に対して、超国家を対応させることで、本当に幸せになれるのか。個人が超国家にどうつながるのか。

 ムスリムでは個人とアラーは直接、つながっている。それで幸せになっているのか。その間のコミュニティはどういう役割を果たすのか。実際問題として、宗派問題として、シーア派とスンニ派が在るのは確かです。だから、宗教も踏まえて、グローバル化に対してどう対応末うのか。アラブ社会での「オリーブの木」の発想です。地域の中で暮らしていく。だけど、このコミュニティ単位だと、国をすぐ超えてしまう。イスラム国ではないけど、国というものが意味を持たなくなる。

 国ではギリシャとトルコでは連携できないけど、地中海沿岸の同じ価値観を持つ者として、コミュニティでは連携できます。レバノン人はドイツ人とは連携できないけど、ギリシャ人とは連携できる。アテレのソホクリスの世界です。

 グローバルの中に企業の観点を入れ込みましょう。国よりも企業のグローバル化がベースになっています。グーグルとかフェースブックに言葉も国も関係ない。

9.4「サファイア循環」

 9.4「サファイア循環」。急にサファイアが出て来るのかわからない。自分で書きながら。いよいよ、曖昧さをなくすための作業。中からやっていくか、小からやっていくのか。

 第9章は上から見ていく。循環からみていくことで考えてきた。だから、サファイアの機能と空間を使って、循環を作り出していく。元々、サファイアは持続可能性のためにいかに循環するのか、その要素は何か、何を組み合わせていけばいいのか。

 その配置をどうするかというところから作られているサファイアの考え方を社会に適応するとしたら、環境社会という持続可能な社会を作り出すために、最初にモデルありきでやっていく世界です。

 第10章がなければ、それだけで済ませるけど、第10章で大きく変わっていきます。第10章は多くの人が生きられる、個人をどう変えていくのか、意識をどう作り上げていくのかのロジックになっている。いつも対比しながら見ていき、二つが合わさった世界がどうなっていくのか。

第9章と第10章はdual

 第9章と第10章はdualです。それをどう表現すればいいのか、よく分かりません。例によって、ロジックだけを追ってみます。

 ロジックで難しいのは課題です。今、限界を向かえている世界がある。ベースである民主主義は変わっていく。民主主義が多様化とグローバル化でいかに変わっていくのか。

 多様になるのは、人が級数的に増えてきた。それぞれが独立している。自由が求めているものから始まっているのは確かです。

 多様さを活かそうとすると格差が始まる。価値観が多様にして、てっぺんを多様化しても、格差は格差です。キリスト教のようにごまかしきれない世界に来ている。自由で格差が拡大していく。それをどうしていくかという以前に、それがどうなっていくかという予測。

 単純に考えると、環境問題も含めて、超インフラの方に向かっていきます。税金問題一つとってもそうです。皆異なるものを画一的に抑えるのは無理です。格差が広がっていけば、インフレは起こります。国民国家はそれらを「自由」というところで抑えている。それが格差で抑えられなくなるので、新しい政治を考えないといけない、というところで一段落します。

企業のグローバル化

 次に、グローバル化。これは国のグローバル化よりも企業のグローバル化の方が大きい。国という単位を容易に超えてしまう。超国家でやろうということになるけど、全体が大きくなるほど、格差が増すので、自由が制限される。

 それ対しては、「未来方程式」ではないけど、シナリオを作っていかないといけない。バラバラなものをいかに、グローバル化とくっつけていく、やり方です。その方向が今、掴めていない。

9.5「サファイア機能」

 取って、付けた理論としては、サファイアで循環と機能を当てはめてみます。個人よりも国のカタチを考えていこうという話です。地域の方針と対応策、国の方針と対応策でもって、それらの間をグルグル回していく。そして、スパイラルを起こさないようにする。ポイントは、従来のように国が回すのではなく、多様な地域が中心となって回すカタチになる。

 機能はファシリテーション、インタープリテーション、インタープリテーション、リアライゼーションをどう配置するのか。その循環モデルになります。

 その時に民主主義での9.5.4「合意形成」の仕方が難しい。いかに「多数決」でははなく、方向をどう決めるか。単位をなるべく、小さくして、結論を決めてしまう。あとはその間を人が動くこと。それとテーマも小さくして、組合せは1億通りにしていく。

9.6「共有意識」

 そして、9.6「共有意識」になります。個別の人間よりも、シェアする形をどう持っていくのか。それで地域をどういうカタチにするのか。ベースとして個人の分化と地域の分化があります。それで変えていく。個人のベースで、多様化をもっと多様させていく。グローバル化の逆のローカライズで、大きな単位で示していく。

9.7「分化と統合」

 分化でバラバラになるものをどう統合していくのか。やらかい統合をすることで、企業も行政も分化できる。バラバラでは、彼らは生きていけない。

 企業の分化と行政の分化と書いてあるところは変えていきます。分化と統合では統合の方に企業も行政も動きます。中は分化するけど、外は統合の方に動きます。

9.8「環境社会」

 最後は、9.8「環境社会」。ここはまだまだ収まっていません。仕事と教育と家庭という循環の中で見ていくのが手です。循環を変えていく時に、仕事と教育と家庭の循環を全て、変えていかないと、滞留が起こります。

 そこで、「環境哲学」が出て来るのは、違和感があります。これを第10章に移しましょう。

9.8.2「環境哲学」

 取ってつけたような「環境哲学」は第10章の「歴史哲学」との関係が大きい。

 第10章はなにしろ、自分の生きている意味とか、生まれてきた理由からできている。与えられたものではなく、存在の力とか、生きるための目的を主にして作っている。完全に内なる世界の答です。

 第9章は社会としてどう持っていくのか。サファイア循環は元々、仕事から出てきたものです。そして、皆が居るということで、販売店システムでの配置を考えてきた。

教育、仕事、家庭の循環

 9章はサファイアの方に、教育、仕事、家庭の循環を加えて、持続可能なものとして、環境社会を描いて、皆に進めるものとしてやっていく。

 第10章はそれとは異なり、個人がどういう世界を作っていくのか、宗教的な世界も意識して、あまり、タブらせずにより分けましょう。

 環境哲学は哲学として、第10章に渡します。分化そのもののメインは第10章です。

 第9章側に、教育、仕事、家庭の関係の循環を項目として入れます。人の配置は、あくまでも持続型社会をどう作り上げるかですから、第9章になります。

第10章の特徴

 第10章の特徴的なところは、10.7「すべてを知りたい」から10.8「存在の無」に戻ってくるというところです。第7章も含んだ結論になっています。完全に内なる世界で考えていけるところです。

 「独我論」を含めた、人間の役割みたいなものは第10章だけにします。
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