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沿岸地帯の大変動--紀元前一〇五〇〇年から六四〇〇年における海面の水位の変化とその結果

『氷河期以後』より

北海がドッガーランドを浸蝕し、海水が峡谷平野や丘陵地帯のまわりにまで侵入するようになっていった。海岸線には新しい半島が形成され、それが沖合の島々へと姿を変え。ついには永遠にその姿を消していった。それは地中海でも起こっていたことであリ、海は、ギリシアの人々がその周辺で豊かな可食植物を採集していたフランキティの洞窟にじりじりと近づいていった。紀元前七五〇〇年までにはフランキティの洞窟の居住者たちにとって海岸線までは午後の散歩程度の道程にすぎなかった。その先祖にとっては丸一日の行程だったことを考えてみれば、それが人々の生活環境を一変させたのは、けっして驚くべき話ではない。フランキティの洞窟の内部の食料の残骸が埋め込まれている層は、その居住者たちがまずカサガイやタマキビガイを採集するようになり、次いで、海を生活の場とする漁師になったことを明らかにしている。彼らは、小舟を操って一二○キロばかり沖合のメロス島のような島々にまでたどりつくことができる技術を身につけ、そこで発見した黒曜石を洞窟に持ち帰った。こうした新たな生活様式は、探検と移住には打ってつけであり、コルシカ島、サルデーニャ島、バレアリック諸島に人類史上初めて人々が住み着くようになった。

ヨーロッパの沿岸で暮らしていた人々にとってそうした体験は、時間と場所によって異なっていた。一部の地域では、環境の変化は、人々がそれに気づかないほどゆるやかだった。歳月の経過とともに食生活、技術、知識に変容をもたらしていた要因は微細であり、その生活様式への影響は捉えにくくて意識されなかった。その一方では、驚きのあまり眼を見張った人々もいた。大波が内陸にまで押し寄せて水しぶきが屋根にかかっていたり、砂丘が二夜にしてまるで形を変えてしまった光景を目の当た万にしたからである。そのほかの人々、たとえば、現在ではイングァネスと呼ばれているスコットランドの北西部の居住者たちは、突然の大変動に直面していた。

一九八〇年代にスコットランドの考古学者ジョナサン。ワーズワースは、キャッスルーストリート一三-二四番のいくつかの家屋が取り壊された後、中世の町の一部を発掘した。その下にはネス川の河口域を見下ろす場所に建てられていた二三世紀の中世の建築物と屋外便所の基礎があった。彼は、中世の煉瓦職人たちが築いた基礎がその中に埋め込まれていた小石混じりの白っぽい海砂の層の下にほぼ五〇〇〇個のフリントの人工遺物、骨の破片、炉床の痕跡、つまり、中石器時代の狩りに由来する残骸の散乱を発見した。

紀元前七〇〇〇年頃のとある日のこと、中石器時代の人々の小さな集団が、入り江と、おそらくは、その先の海を見下ろす砂丘の内部の天然の窪地に心地ちよさそうに寝そべっていた。たぶん、彼らは、アシカ狩りに出かけるために日が暮れるのを待っていたのだろう。ひょっとしたら、日中はアジサシの卵やサムファイア(海岸の岩などに生えるセリ科の多肉の草)を採集し、カワウソの毛皮の袋に収めていた細石器と掻器を補充するために海岸の小石を打ち欠いている一人二人を除いて、一眠りしようとしていたのかもしれない。それは、北ヨーロッパの海岸地帯の全域において何度となく繰り返されてきた光景であり、中石器時代の一般的な狩猟採集民たちにとっては、ごくありふれた」日だった。

しかしながら、運命は、そうした日々の継続を許そうとはしなかった。その数時間前、北方一〇〇〇キロばかりの地点、より正確には、北極海のノルウェーとアイスランドの中間点で大規模な海底の地滑りが起こっていたからである。それは、ストレッガ・スライドと呼ばれている最大級の地滑りであり、大津波を引き起こした。私たちにはインヴァネスのキャッスル・ストリート一三-二四番として知られている場所で時間を潰していた狩猟採集民たちは、ひょっとしたら、カモメが突然燈高い鳴き声を上げ始めたことに不吉な予感を感じ取って不安に駆られていたかもしれない。遠くから聞こえていた低い唸り声のような音は、ほどなくして轟音に変わった。初めのうちは信じられぬ思いで眼を見開いていた彼らも、高さ八メートルの波が入り江に押し寄せて来たときにはパニックに陥っていたことだろう。彼らは懸命に逃げ惑ったに違いない。

彼らが無事逃げのびることができたか否かは、私たちにはわからない。けれども、もしそうすることができた人が、潮が引いてから後を振り返ったとすれば、小石混じりの白っぽい砂が、砂丘や岩場ばかりでなく、南北、眼のとどくかぎりのあたり一帯を被い尽くしていた光景を目の当たりにしたことだろう。一七〇〇〇立方キロメートル以上もの堆積物がスコットランドの東海岸に沿って投げ出され、それが耕地、砂丘、集落の住居群を、中石器時代の突然の大変動の証拠物件として、その下に埋め込んでしまったのだ。

この津波がドッガーランドの標高の低い海岸地帯に与えた衝撃は、凄まじいほどの破壊力を秘めていたに違いない。何キロ、いや、何十キロもの海岸線は、数時間、おそらくは、数分のうちに破壊され、丸木舟から網を引き上げていた人たち、海草やカサガイを採集していた人たち、浜辺で遊んでいた子供たち、樹皮の揺りかごの中で眠っていた赤ん坊など、数多くの人々の命が失われたことだろう。カニ、魚類、鳥類、哺乳動物などの生物群集は全滅し、沿岸の居住地は、跡形もなく消え失せてしまった。小屋、丸木舟、ウナギを捕らえる答、木の実の詰まった籠、魚を干す棚などすべてが粉々に砕かれ、一掃されてしまったのである。

はるか三五〇〇キロも隔たっているヨーロッパのもう一つの地域も、それとは異なった突然の大変動に見舞われていた。その犠牲者たちは、その当時は淡水湖だった黒海の沿岸の低地で暮らしていた人たちだった。平坦で肥沃な土壌に恵まれていたこの低地にはオークが枝葉を茂らせており、人々は、何千年もの間、その林地で動物を狩ったり、植物を採集していた。しかしながら、その出来事が起こったときには、新しい人々がすでにそこに住み着いていた。それは新石器時代の農民たちだった。トルコの集落から分かれてこの地にたどり着いたこれらの人々は、豊かな沖積土に定住し、木々を伐り倒して林地をコムギやオオムギの耕地に変え、その材木で住居を建て、家畜化されていたウシとヤギの柵や畜舎を作っていた。農民たちの移住と、そうした農民たちが土着の中石器時代の狩猟採集民たちからどのように迎え入れられたのかという物語は、次の章の主題であり、私たちの当面の関心は、農民たちの悲劇的な最期にある。
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