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空間を定義する

では、いかようにして、空間を定義するか。

一番気になっているのは、視力です。パソコンでの思考に一番影響します。
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本の断片化と情報の信頼性

『読書教育を学ぶ人のために』より マルチメディア時代の読書とその教育

書籍データが電子化されることによって、グーグル・ブックスの全文検索のような本への接触の仕方が可能になりますが、そのことは、冒頭で述べた一冊の本を読むという読書イメージを大きく変える可能性もあります。長尾真は、電子図書館では情報の最小単位が変わってしまうので、そこでのユーザーの質問に対するレファレンスーサービスは、本ではなく、情報レペルの答えを提供せざるを得なくなると予想しましたが、これは、読書そのものの問題としてとらえなおすことができます。

まず一つのイメージは、本という単位の朧化あるいは断片化です。たとえば、「○○について知りたいのだけれど」という問いに対して「この本に書いてあったよ」と答えるとき、質問者の問いに答え得る情報のまとまりが「この本」の全体を必ずしも指していないことは、紙の本についても言えることです。しかしながら、ここで「この本」に指し示された部分を読んだとき、質問者は「この本」を読んだと言えるでしょうか。また、そのようにして答えを知り得たとして、にもかかわらず質問者は「この本」を読んだと言えるために、始めから終わりまでを通読しなければならないのでしょうか。グーグルーブックスの体験は、まさにこのようなものです。検索結果が表示されたページには、その書籍を購入できるサイトがリンクされていますが、そこでその書籍を購入するかどうかは、検索結果にプレビュー表示された情報を、。一冊‘に見合うだけの十分なひとまとまりの情報と判断するか、あるいはそれは一冊の書籍から見れば一つの断片に過ぎず、それ以上にその本から有益な情報が得られるはずだと期待するかによるでしょう。

したがって、これに触発される本に対するもう一つのイメージは、断片化された情報それ自体が本として成立するというものです。本が電子化されることによって断片化され情報化されるとき、検索によって得られた本の断片をぶ尹だと認識し得るのだとすれば、逆にそのように断片化された情報をぶ尹として提示することもあり得るということです。たとえば、朝日新聞社が展開しているウェブ新書などがそれに当たるでしょう。ウェブ新書とは、新聞・雑誌の記事を「新書」の体裁に編集し販売するものですが、歌田明弘はそうした販売形態について、書きたいことだけ書いて早く出す、読みたいことだけを購入するといった効率性があると評しています。

あちらこちらで発表した文章を集めて一冊の本として出版するということは、これまでにもよく行われてきました。しかし、インターネットにおける編集著作物がそれと異なる点は、オリジナルの著作物が電子的にしか存在しないのであれば、私たちに提示される本としての情報のまとまりがどのヴァージョンの情報なのかということに気づきにくくなるということです。なぜなら、本がインターネット上に貯蔵されるということは、そのモノとしての実体性が希薄になるということを意味するからです。ヴァルター・ペンヤミンは、芸術作品であることを支えるオリジナルとしての歴史性・一回性は複製技術によって失われると論じましたが、電子メディアは、複製としての本がわずかに携える物質としての古さやその手触りといった歴史性をさらに剥ぎ取ってしまいます。どのヴァージョンの情報であれ、モニタ上には同一に並ぶ情報でしかないのであり、両者を区別するとすれば、それに外在する書誌情報に頼るほかありませんが、両者はほんとうに別の本として存在するのかと幻惑される感覚は残るでしょう。港千尋は、インターネットで購入したジョージ・オーウェルの電子書籍が、返金とともにある日突然消えてしまったというエピソードを取り上げながら、「この「ユーザー」は、オーウェルの著作を「持っていた」と言えるのだろうか。さらに言えば一方的に削除されるような本は、はたして「本」なのだろうか」と問いかけていますが、このように本という実体が電子化されるということは、その物質性が支えてきた本というもののありようの問いなおしを促すものだと言えるでしょう。

たとえばその一つとして、これまでモノとして固定化されることによって担保されていた情報の信頼性が揺らいでしまうといったことが考えられます。それは、その情報がいつ失われるかという存在としての揺らぎであるとともに、その存在が一定しないという揺らぎでもあります。そうした例としておそらく最も知られているものはウィキペディアでしょう。ウィキペディアは、誰もがその執筆に参加できる百科事典編集プロジェクトです。アンドリュー」リーーが指摘するように、誰もが気軽に参加できるがゆえに、最新のニュースを百科事典的な知識としてリアルタイムに編集可能である点が魅力の一つになっています。

ところで、誰もが参加できるということは情報に信頼性が保てないと考えがちですが、ウィキペディアではむしろ、参加者間で情報内容の点検とその修正を重ねていくことによって、記述の正確性を高めようとしています。また執筆の指針として、中立な観点に基づき、特定の観点に偏った主張をしないこと、信頼できる出典を明記することによって、記載された情報に検証可能性を持たせることなどが示されており、百科事典としての情報の質とその信頼性を高め、保証することに注意が払われています。

しかしこの指針を見て気づかされるのは、ウィキペディアでさえ情報の信頼性が、固定化された出典に依拠しているということです。すでに述べたように、本の実体性が希薄になり、その存在が流動化されるということは、ウィキペディアの言う検証可能性の保証が困難になるということを意味します。そしてそれはウィキペディアにこそ当てはまることです。この点について山本まさきは、訂正を重ねることによって情報の質を高めようとするウィキペディアのシステムは必然的に、誤った情報が公開される可能性が格段に高まると批判しています。

このように信頼に足る情報がそうでない情報と混在していること、そして特にその信頼性が本という結果ではなく編集というプロセスでしか提示されないということには、検証可能性として指し示すべき情報源の確かさが保証されないという問題点があります。もっともウィキペディアの場合、情報の精度を伝えるための指標を示したり、また訂正の履歴をヴァージョンとして残したり、見解が分かれる情報に関して議論する場を設けるなどして、編集される情報の信頼性を保証する手続きを管理しています。しかしながら少なくとも、本というものの実体性が情報に対する信頼性をいかに支えてきたのかということを、このように情報を固定化する苦労から逆に推し量ることができるでしょう。
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データベース化と情報の一元化

『読書教育を学ぶ人のために』より マルチメディア時代の読書とその教育

メディアの性格と言っても、たんにアナログ情報は一覧性が高いとかデジタル情報は検索効率が高いなどというように単純に規定できるものではありません。たとえばデジタル情報の検索について考えてみましょう。喜多は、書誌情報の検索の手段として紀伊國屋やアマゾンといったオンライン書店のデータベースの活用を紹介していますが、そこではテーマに関連する本を広く探したり、関連性の高いものを的確に探したりする場合のそれぞれで、異なるデータペースが利用されています。このようなデータベースの使い分けが必要になるのは、検索の結果として表れる情報がその活用の仕方で異なる様相を見せるからです。たとえば、キーワードをあまり絞り込まないで検索すると、広い領域の本を見渡せる点で一覧性は高くなりますが、検索でヒットした本が膨大であれば、その一覧性は逆に効率の悪さになってしまいます。また、関連性の高いものを的確に探すために別のデータベースを利用するのは、そのデータベースが保有している情報量やその関連づけの仕方によって、検索の的確さの度合いが変わってくるからです。

ところでこのデータベースの性格という問題は、情報行動ないしそこにおける読書に少なからず影響を与えると考えられます。たとえば、私たちは何か調べものをするとき、気軽にインターネットにアクセスして情報を探すという行動をとります。それは、インターネットには膨大な情報がデータとして貯蔵されていると考えているからですが、その一方で、そこでの探索はゴミの山をかきわけるようなもので、インターネットの情報は断片的であったり信頼が置けないものだという指摘も比較的早くからなされてきました。そこには、インターネットは書籍とは区別される固有の情報空間であるという認識がはたらいています。ところが実際には、インターネット上で書籍ないし論文を閲覧できる機会も徐々に増えてきています。このことは、情報がインターネット上に一元化されるということを意味しますが、ここで問題になるのはその情報の一元化の度合いです。これは先ほど触れた「網羅」の視点に関わる情報の保管に対する信頼性を左右します。もう少し言えば、インターネットヘの情報の移管がどのようになされているかによって、私たちが出会える情報は規定されるということです。また、インターネット上には膨大な情報が存在することを私たちはすでに知っていますが、情報の一元化はこうした状況に拍車をかける、逆に言えば、これまで信頼が置けると思われていた貴重な情報がそれら膨大な情報の中に埋もれてしまうということでもあります。そうなってくると、重要になるのはそうした膨大な情報と私たちとをつなぐ検索データペースの役割です。そしてまた、検索データベースによって情報の関連づけの仕方に違いがあるのであれば、その性格を理解しているかどうかは、私たちの情報行動に対する影響の度合いを左右すると思われます。

電子書籍は、日本においては一九九〇年代に商業的な展開が始まりましたが、読書端末機器やデータの形式、あるいは出版流通の商慣習などの問題から、必ずしも広く普及するまでに至ってきませんでした。ところが、読書端末として利用できるタブレット型のコンピュータが発売されたのを契機に、ここ数年、電子書籍は大きな注目を浴びています。また最近では、いくつかの公立図書館において、電子書籍の貸出サービスも始まっています。その一方で図書館や研究機関における書籍の電子化も着々と進められてきました。たとえば国立国会図書館は「近代デジタルライブラリー」として、明治・大正・昭和前期に刊行された図書をデジタル化し、画像データの形式で提供しています。また、所蔵する論文などを機関リポジトリにおいて保存・公開する大学も増えてきました。さらには、インターネットにおける各種サービスのポータルサイトとして有名なグーグルは、二〇〇四年からグーグル・ブックスというサービスを開始しました。これは、大学図書館などとも提携して書籍を電子化し、全文を対象にした検索と、その結果としてヒットした用語を含む一部または著作権の保護期間が終了しているものについては全内容を表示してくれるサービスです。このサービスは著作権を侵害しているとして二〇〇五年にアメリカで訴訟にまで発展しましたが、二〇〇八年の和解内容が日本の著作者にも影響するとして大きな話題となりました。結局、この和解案は二〇〇九年に修正され、日本の書籍への影響は回避されることになりましたが、書籍のデジタル化と著作権との関係は、未解決の課題として残されています。

さて、こうした電子書籍の発展によって、本に触れることの利便性は確かに高まっていますが、その裏で危惧されるいくつかの問題も指摘されています。なかでも和田敦彦は、電子図書館は閲覧の利便性を高めるが、それもやはりある一つの図書館なのであって、その蔵書の偏りや空白には注意すべきであると述べています。この指摘は、先に提起しておいたデータベースの性格に関わる問題です。

これまで私たちは、書籍のデータベースと言えば書誌情報を検索するものであって、その結果にしたがって蔵書先に出向いて、モノとしての書籍を手に取るといったやり方をとってきました。ところが蔵書そのものを電子空間に移管する、したがってデータベースと一体化することは、蔵書の規模を不可視化すると同時に、それゆえ蔵書の全体像がデータベースに一致すると錯覚する可能性を生み出します。しかしそのことが危険であるのは、そのデータベースから漏れた書籍ないし情報に接触できないことに気づかないからだけではありません。むしろ、そのデータベースからどのような情報に接触できるのかが、そのデータペースを設計・構築する他者に依存しているということにあります。和田は、電子図書館のリテラシーを身につける上で重要な点として、「メタデータヘの批判的な目の養成」ということを挙げています。メタデータは、データベースの検索結果に大きな影響を与えますが、それゆえ検索に意図的なバイアスをかけることも可能です。ローレンス・レッシグは、人間の行動に関わるテクノロジーのあり方、設計・作られ方をアーキテクチャと呼び、それが行動を規制する要因の一つとしてはたらくと述べ、電子空間においては、プログラム・コードがそれに当たると論じています。メディアのこうしたアーキテクチャの一つとして、和田はメタデータに注目しているのであり、特定の企業や機関がそのアーキテクチャの設計・制作の権限を握ってしまうことの危険性を指摘していると言えます。こうした点に注目するならば、マルチメディア時代に求められる読書のリテラシーは、多様なメディアを使い分けて情報を効率的・効果的に活用するための技能といったものにとどまりません。むしろそうした技能を発揮して行われる読書が、どのような行為として成立するように仕向けられているのか、その読書環境のアーキテクチャを見きわめ、そこでの自らの読書のありようを批判的にとらえなおすことのできる能力が求められていると言えるでしょう。
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SNSによるコミュニティの再構築の可能性

『SNSを活用した農山村地域コミュニティの再構築』

本書の目的は、弱体化する農山村地域のコミュニティを対象として、SNSを活用してその機能を再構築するための方法を明らかにすることであった。その際に、対象とするコミュニティとそれに対するアプローチとしては、以下の2つの側面を持つものであった。

 ①過疎化・高齢化により脆弱化した地域コミュニティの「再生」

 ②ICTのようなテクノロジーでこそ実現可能となる地域内外の多様な主体を交えた新たなコミュニティの「構築」

ここでは、本書の結果にもとづいて、 SNSによるコミュニティの再構築の可能性について、これら2側面から考察する。

まず、①については、高齢化率の高い農山村地域においてはICTの活用はまだ不十分であるものの、それは高齢者を中心として、ICTに触れる機会や学ぶ機会が不足していることが原因であることが示唆された。ほとんどのユーザーは積極的には利用していない実態が明らかとなっている。特に、高齢層を中心に、地域意識は高いがICTについては活用度合いが活発ではない層と、若年層を中心にICTは活発に利用してはいるものの地域意識が低い層に別れている状況が大きな課題であり、それぞれの層について、独自の対策をたてていく必要がある。

高齢層については、ICTの活用方法や知識の習得に加えて、地域活性化のためにICTが活用できることやそのための方法論が広く認識されるようになれば、SNS等が地域内で地域コミュニティの再生のために有効に活用される可能性も期待できる。また、ICTの難易度が障害となっている面については、音声認識や手書き入力、タブレットPCの普及や地上デジタルテレビによるネット利用等の技術的進歩により改善されていくことが期待できる。一方で、若年層については、ICTそのものに対する抵抗意識や技術不足といった課題は少なく、地域意識の低さが課題となる。しかし、地域意識を短期間で向上させるのは、技術的課題以上に難しい課題である。ただし、特に実名SNSの利用者は、若年層に偏りがありつつも、地域意識は必ずしも低くない傾向が示された。匿名のみでの交流を望むような利用者と、実名による交流を望む利用者では、その特性が違うことが明らかとなり、実名SNSの利用者が増加することも見込まれる将来、改善の可能性はある。また、若年層が高齢化していくにつれて、地域意識が高まっていくのかどうかについては、さらなる検証が必要とされる。

次に、②については、SNS利用者が地域内で完結するような活動に対する内向きの地域意識よりも、地域外との交流を志向するような外向きの地域意識が高いことが示されたことにより、今後、SNS利用者の増加とともに地域のために地域外の多様な主体との間で新たなコミュニティを形成できる可能性が示唆された。その際に重要となるのは、第8章において示されたキーパーソンの役割であり、キーパーソンにより、地域と地域外がつながり、既存の枠にとらわれない新たなコミュニティが形成される可能性がある。このような新しいコミュニティ形成の可能性は、Facebookを用いたワークショップの取組みからも確認できた。外部からのリアルタイムの知識や情報の取込み効果や、地域ネットワークの拡張やその維持効果については、SNSのようなテクノロジーがなければ非常に困難なものであり、さらなる応用可能性が期待される。今後は、キーパーソンが存在しない地域においてどのようにキーパーソンを育成するか、特に地域外とのネットワークを結び、それを維持していけるような人材をどのように確保できるかが重要な課題である。

本書で議論されたSNSの効果や可能性は、SNS上のコミュニティに関するものであったが、SNS上に限定されたコミュニティの活性化のみでは、リアルなコミュニティにおける課題解決には結びつかない。SNS上におけるコミュニティの活性化が、SNS上だけに留まらず、リアルなコミュニティの活性化へと落とし込まれる必要がある。そのカギとなるのは、SNS上で形成されるコミュニティがもとになって現実の活動が生まれるか否かにあり、それが実現した時に、真にコミュニティ再構築の効果が達成されると考えられる。
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