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哲学の諸領域

『哲学』より 哲学の諸領域 心の哲学

心と身体の二元論

 我々の意識を持った心と身体はどう関係しているか? 「実体二元論者」によれば、心と身体は別個の実体だ。しかし、実体とは何か? 実体は属性と違い、論理的には他の実体から独立して存在することができるものだ。本書は実体である。これは他の物体とは別個に存在できる。だが、重量は違う。本書の重量は本書がなければ存在しない。重みはそれが属する実体のたんなる属性に過ぎない。

 実体二元論者は、心はそれ自体実体だと主張する。おそらくは最も著名な実体二元論者であるルネ・デカルトは、心は身体とは独立して存在できる「考える」実体だと信じた。様々な宗教も、心は死後、肉体を離れて非物理的な領域に住むとして、一種の実体二元性を唱える。

 それとは対照的に、唯物論者は実体は物質的実体ただ一種類しかないとする。心は物質的対象であると主張することが唯物論であるのは明らかだろう。この対象の明らかな候補は脳である。現にオックスフォード大学の科学者スーザン・グリーンフィールドは、「あなたはあなたの脳です」と主張した。我々はまた心的な属性やプロセスを、物的な属性やプロセスと同一視するかもしれない。科学者は、宵の明星は明けの明星と、水はH20と、熱は分子運動と同一であることを発見した。同様に、痛みはある脳の状態と等しいことが科学ではっきりするかもしれないと言われてきた。

 論理的行動主義者と呼ばれる唯物論者は、心は物質--身体--が持つ複雑な物理的傾向の集合にすぎないと信じる。心を持つとは、様々な複合的仕方で振る舞う傾向があるということである。たとえば痛みを感じるとは、身をよじったり叫んだりする傾向があるということだ。そうした物理的傾向は物体ですら持つことができるので、物的対象が心を持つことにはなんの問題もない。実体二元論者のように、私の心はこの物質的身体やその行動上の傾向性を超えて存在する「何か」だと考えるのは、行動主義者にとっては、まったく神話的で余分な「機械の中の幽霊」を持ち込むことである。

心を否定する

 より抜本的な唯物論である消去的唯物論は、心の存在を否定する。心は明らかに存在するように思われるかもしれないが、彼らによれば、科学がさらに進歩すれば、心は実在しないとわかるかもしれない。魔女や悪魔が存在することも、数百年前までは多くの人々に明白な事実だとみなされていたのだから。たとえば疫病や嵐はその邪悪な影響のせいだとされていた。だが、言うまでもなく疫病と嵐の正しい説明には魔女や悪魔への言及は含まれない。人問の振る舞いの正しい説明にも、心や心の中で起こる思考や感情などは含まれないと判明するだろう、と消去主義者は言う。それは心の中で起こっていると考えられているものとは何の関わりもない、神経その他の物理的な出来事による説明だろう。心とそこで起こっていることは絵空事だと判明するかもしれない、と。

二重の同一性

 意識的な心と物質世界の関係についてのより巧妙な立場のひとつに、性質二元論がある。彼らは、実体は物理的実体一種類しかないと考えた点で、唯物論者は正しいとする。だが彼らは、物質的実体は物理的属性と心的属性を同時に持ちうるとみなし、心的属性を物理的属性に還元できない物理的属性とは別のものと考えた。たとえばある者は、人間の脳は、重さが1.8kgだとか、ニューロンを持つといった純粋に物理的な属性と、苦痛を感じるとかチーズを思い浮かべるといった心的な属性の、まったく異なる2種類の属性を持つと考えた。そして後者の属性は、脳が持つすべての物理的属性以外に存在するものだと言う。性質二元性論者は、実体には物質的実体しかないとする点で唯物論者に同意しながらも(だから彼らは唯物論者だ)、人間の意識に関する事実は我々に関するすべての物理的事実を超えているとする点では、実体二元論者の主張に同意するのだ。
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