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自由な人々の公共心としての愛国心

『もう、あなたも『哲学』したら?』より 「公共性」

大学生 ところで、僕はサッカーが大好きなんです。ベルリンのオリンピック・スタジアムでは、ワールドカップ大会が開かれたんですよね。

商社員 そうそう。あそこはね、もとは一九三六年にベルリン・オリンピックを開くために建設されたんだよ。ヒトラー政権が威信をかけて作った建築物を、残すべきかこわすべきか議論があったようだけど、競技場とマラソン・ゲートは当時のまま残されているね。

大学生 ワールドカップも、オリンピックも、盛り上がりますよね。でも、二〇〇六年のワールドカップ大会には、ちょっと違和感があったな。はじまる前は、みんな日本チームの悪口をさんざんいっていたのに、勝ちはじめると手のひらを返したように熱狂しちゃって。なさけないというか、軽薄というか。

商社員 僕はね、ワールドカップにかぎらす、知らない人々がきゅうに結束して熱狂するところには、恐ろしさを感じるね。日本では、僕の父や祖父の時代に、そうやって結束して熱狂して、泥沼の戦争に突入して、国が滅びかけた、ということも、もちろんある。でも、もっと恐ろしいと感じるのは、知らない人々がきゅうに結束することのできる力そのものさ。何だろうか、この力は。だって、ふだんは、ばらばらに暮らしていて、つながりのない人々が、たとえば「ニッポンー」で結束して、国旗を掲げ国歌を歌っているんだよ。不思議というより不気味な光景だよ。

大学生 だめですか?いいんじゃないですか、無邪気で。それにつながるのは悪いことかなあ。

商社員 無邪気だから怖いんだよ。いいことも悪いこともあった日本の歴史も、現在の日本の姿も、国家というものの意味も、いっしょに考えたこともないのに、ただ「日本」ということばだけで結束する。いったい、どういうことなのかね。

大学生 そりゃ、愛国心でしょうかね。

商社員 そうかい、でも国を愛するというときの「国」って何のことかな。日本の政府、日本の文化、日本の風土、日本の民族……いろいろあげられるだろう。日本の政府というのははっきりしている。僕も日本政府のパスポートを持っているから、安心して国境をこえて外国に行ける。これはありかたい。でもありがたいとは思っても、日本の政府を愛しているわけじゃない。だいたい、日本の文化や風土や民族は、けっしてそんなに単純なものじゃないよ。

日本の文化って一口にいうけど、地方によって多様でしょ。北方のアイヌの人々と、南方の琉球の人々の独特の文化とか、東京と大阪でもすいぶんちがうし、僕の出身地、広島もすいぶんちがうところがある。号っだ、すこし広島のことばをまぜて、しゃべってみよ1うか。歴史的に考えりゃ、奈良時代の昔からすっと、中国や朝鮮の文化の影響をつょくうけとったし、江戸時代にあ武士、農民、町人ちゅう身分にわかれとって、それぞれにちがう文化があった。明治以降は、もちろん、欧米の文化のつよい影響をうけとるし。そういう多様な文化の姿をよう見もせんでから、一足飛びに「日本」でくくっちゃ、いけんじゃ

大学生 ははは、広島のことばって怖いと思ってたけど、ほのぼのとしてるんですね。

商社員 ほれ見てみんさい、ほかの地方にあ、そんなかたよったイメージしか持っとらんじゃろうが。じゃのに、かんたんに「日本」で結束するのはおかしい、いうとるんじゃ。もちろん、そげな多様な地域と人々がおっても、それでも日本列島に暮らしてきた人々は、ある程度おなじょうなことばと生活のしかたを共有しとるけぇ、政治の単位として都合がええ。ほいで、政治ちゅうのは、多様な人々が折りあいを付けながらみんなで、うもう生きていくことができるためにある。国ちゅう政治の単位で作る決まりが法律じゃ。その点じゃ、法律も他の決まりと、かわりゃーせん。ありかたいことに、いまの日本にはそのための仕組みがある。

大学生 民主主義ですね。

商社員 そうじゃ、民主主義。

大学生 みんなでうまく生きていくために、自由な人々がいいたいことをいいあって、折りあいを付けて決まりを作っていく。さっきの公共の場の話につながってるのか。

商社員 そうじゃ。そういう公共の場の決まりを作り、みんなで、うもう生きていくために「日本」で結束するんじゃったら、べつに違和感はありゃーせんょ。ほいでその結束が熱狂に陥らんのなら。

大学生 自由な人々の公共心としての愛国心ですね。

商社員 なかなかええこというのぅ。ほれ、フランクフルトの町が見えてきた。あそこの市庁舎を見てみんさい。EUの旗とドイツの旗が仲よう、ひるがえっとるのぅ。

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「会社人」か「仕事人」かで、評価は雲泥の差

『60歳までに知らないとヤバい定年再雇用の現実』より 再雇用の現場で「好かれる人材」「嫌われる人材」

「高齢者にも色々なタイプがあるかと思いますが、グルーピングをするとどのように分けられますかね……」。多数の建設系販売会社を傘下に抱えるホールディング会社の若手の人事担当者からの思わぬ質問であった。筆者は各社で聴取した内容との前置きをしてこんな回答をした。

「各社の担当者のコメントをまとめれば、二つのグループに大別されるようです。一つは価値感を会社中心に置いている人達、他は仕事や技術を中心に自身を位置付ける人達です。表現を変えれば〝会社人・組織人〟と〝仕事人・職人〟ということです」。

彼は「フーン」と言った表情で筆者の回答、説明に耳を傾けていた。

アドバイザーとして訪問した企業では、地域や業種特性を考慮しないとならないが、このグルーピングは全てに共通していたと言っても過言ではなかった。

訪問した企業で未だに多数を占めていたのが転職・転社の経験が無いか、経験が少ない高齢者、〝会社人〟であった。入社から定年時まで一社で社会人生活を全うする(した)人達だ。〝会社人〟の多くが転職・転社経験者とは違って〝純血〟故の長所と短所を併せ持つ人達だ。

ただ定年を機に環境は一転する。〝会社人・組織人〃と〝仕事人・職人〟の関係だ。

定年前は価値観のウエートを組織忠誠度に置いた会社人が、必要人材であった。ところが一転、定年後これが問われなくなる。反対に組織忠誠度以上に一人の仕事人としての対応が要求されるため、嘱託者に価値観転換を各企業で待望しているのだ。

ある企業の人事部長から面白いエピソードを聞いた。彼は定年を間近に控える社員を集めた「嘱託者説明会」で、必ず伝え、呼びかける言葉があるそうだ。

「皆さんは従来の〝広く浅く〟の事務屋を卒業して、定年後は誰もが一目置くその道の事務屋の〝一職人〟を目指して下さい!」と。

「なぜ『職人を目指せ』との呼びかけなのでしょうか」と真意を訊ねたところ、彼はこんな説明をした。「彼らには嘱託者としての生きざまを強調したいからですよ。つまり『有期雇用になったら組織にしがみつくな。新たな環境の中で自分の頭・能力、技術を武器に自立せよ』の明確なメッセージを伝えたいからこそ、敢えてこの職人という表現を使うのです」

ただこの言葉に反応する嘱託候補者は少ない。彼らは至ってクールに聞き流すそうだ。

この人事部長が危惧するように、ズ匹社人〃から脱皮できない嘱託者が実に多い。

他社の人事担当取締役からは、彼らへの更なる厳しい注文とコメントがあった。

「相変わらず彼らはヒラメですよ。目は(組織の)上ばかりを見ている奴等ばかりです。更に中には不心得者も出てきますよ。私を挑発するようにこんなことを言いますよ。『仕事は定年時までで終わった。今まで捺一杯働いたのだから今度は会社の番だ。卒業後は面倒を見てくれるはず。五年間は無条件で働き口を用意してくれているのだから、そこに居座らせていただくだけだ。仕事は後輩達がキチンとやってくれるのでしょう……』と公言しています。定年後も会社にしがみつき、おんぶに抱っこを決め込もうとする。未だにこんな甘えができる時代とオマエは考えているのかよ、と言いたくなりますね」

会社人のホンネの甘えた一面と、それを苦々しく思う使用者の関係を端的に表現したコメントのように、それは聞こえた。

居座る会社人への警告が、正に職人=仕事人の勧めだ。配属された職場、与えられた職務で、創意工夫をして彼らの「モノ作り(会社への成果貢献)」をして欲しい。
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ソーシャルクオリティの4つの領域

『対話型行為を基礎とした地域福祉の実践』より 地域アセスメントとソーシャルクオリティ ソーシャルクオリティという考え方

2つの軸で区切られた4つの領域には、社会・経済的保障、社会凝集性、インクルージョン、エンパワメントという要素が配置されている。

1)社会・経済的保障

 社会・経済的保障の内容は、雇用・労働の保障、収入保障、健康の維持、食物の安全、環境問題などである。ここは社会を構成する制度の領域である。この領域に関する論点は2つある。個人生活の基本的保障と選択肢を拡大する人生の機会の提供である。

 第1の点は、社会的不平等に関するもので、個人や集団に対する社会的排除や差別を問題にする。不平等は金銭や権力だけでなく、アイデンティティや行動可能性という課題もある。これに対応するために国家の役割は重要である。社会的不平等に対する社会・経済的保障について国家の役割が明確にされなければならない。

 第2の点は、人生の機会に関することである。これについても国家の役割は重い。国家には、個人が自分の社会的環境を理解できるようにする役割が求められている。また、国家は個人が自己支援、自己実現、自助できるようにツールや知識を提供しなければならない。この点では、福祉多元主義や第三セクター、イネーブリング国家という方向が求められる。以上のことは、単なる社会保障とソーシャルクオリティが決定的に違う点である。ソーシャルクオリティは活動的な個人、生産的なコミュニティ、集団の近代化を生み出すことを目指している。

2)社会凝集性

 社会凝集性は、端的には諸々の社会的関係が強まるか、弱まるかに関することである。友人、家族、近隣コミュニティなどのほか、富の分配などに関する経済的凝集性、市民社会の基盤である社会的状態の凝集性、政治へのかかわりや投票率に現れる政治的凝集性、公共の安全性、他者に対する社会的な規範にもとづく利他主義、というものが含まれる。それはミクロレベルからマクロレベルまで及んでいる。

 社会凝集性には、さまざまな阻害要因がある。失業、家族・人口構造の変化、移民、都市の暴動などである。これらのことは社会の統合/不統合の理論で分析されるが、その枠組みだけでは社会凝集性を扱うのには充分ではない。ソーシャルクオリティの考え方からすれば、社会の統合はシステムの統合と生活世界の統合に分けられる。システムの統合は、社会・経済的保障への市民の参加により実現する。生活世界の統合が、社会凝集性に相当する。

3)インクルージョン

 インクルージョンは個人が社会制度等に包摂されることであり、社会保障や労働市場、住宅、医療、教育、政治、コミュニティサービスでのインクルージョン、また、社会的地位のインクルージョンというものがあげられる。ここで問題となるのはシチズンシップである。それは経済や政治、文化というシステムヘの参加の可能性に関わっている。公的な場への参加には3つの側面があると言われる。1つは、特定の利害について意見を述べることの可能性。2つ目は市民としての私的、公的な独立の保証。3つ目は、自発的な参加に関することである。

 しかし、現代社会は異なるサブシステム(経済、政治、法律、教育、科学、医療等)から成り立っている。その結果、現代では規範や文化の同一性が失われている。したがって今や、分化した社会におけるインクルージョンが求められている。個人の側から見れば、いくつもの異なるサブシステムに参加することが求められる。サブシステムヘの参加方法は共通のものではなく、時に対立したり反目したりする。個人の側からそれらを統一させていくことが求められる。日々の生活はサブシステムを横断してはじめて成り立つことになる。インクルージョンは、それぞれのサブシステムで期待される役割を遂行することで可能となる。

4)エンパワメント

 ソーシャルクオリティにとってエンパワメントという要素は特別な位置にある。エンパワメントは社会・文化分野をはじめ、政治、経済、社会心理など多くの政策分野に適用される。エンパワメントの主題は、個人の選択の範囲の拡大である。これはニーズに対するトップダウン型のアプローチではなく、個人が自らを開発するプロセスの主体であることを意味する。

 ソーシャルクオリティの観点から注目されるエンパワメントの2つの特徴は「人間の能力に関する肯定的な態度」と「ネットワークの持っている特別な役割」である。これは社会関係資本の考えを援用したものである。能力に関する肯定的態度に関するエンパワメントの目標は、参加の機会が最大限になるように当事者が知識や技能を身につけられるようにすることである。ただしエンパワメントの視野は非常に広いので、何がエンパワーされるべきかを明確にする必要がある。ソーシャルクオリティで重要なのは「個人」、「社会」、「政治」に関するエンパワメントである。個人のエンパワメントは、自尊心や自己発展を導く知識、技能に関することである。社会のエンパワメントは個々の主体間に形成される諸関係が主題となる。政治的エンパワメントは意思決定プロセス、情報、資源へのアクセスにかかわっている。他方、ネットワークは新たな社会形態の構築をすすめている。ネットワーキングの論理は生産のプロセスや権力、文化の行動や結果を変えている。ネットワークは組織の基本となり、近代社会の構造を生み出す。だが一元的なネットワーク社会となってしまうと、そこでは人間の主体的性格が失われるという危惧もある。
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個人化社会

存在の力への戦い

 存在の力への戦いは、もしかすると、アパルトヘイトに対する戦い以上のものになる。だから、マンデラに学ぶことも多い。存在の力の抵抗へのシンボルがない。アパルトヘイトでは黒人であることがシンボルであった。どこで存在の力の人間であるかを分けるか。

 マンデラのM計画はすべての意図を束ねた。私は誰からも承認されないことで、存在を示す。分かるはずはないんだから。

個人化社会

 個人化社会では「逃げちゃダメ」。エヴァにおいても、自己決定を責められる。自己を追求した作品である。放り込まれた現実の世界で、周りから自己決定を迫られ、時にめざし、時には戦いながら、目の前の現実と折り合いをつけていく。

 現代の社会でいくには、色々な制度に頼らなければならない。全うできない。制度に頼るということは、制度に従属することである。個人化社会においては、自分自身が一人ひとりの人間の行動の拠点になる。個人という存在が決定的な重要なポイントとして、社会の中で高められる。
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