goo

共有意識と社会主義の違い

共有意識と社会主義の違い

 共有意識が社会主義とどう違うのかをハッキリさせないといけない。共に財産を否定している。財産という概念ではなく、所有という形態を意識している。持つのではなく、使うというところに持って行こうとしている。プラグマティズムです。

 それと大きいのは、個人の生まれてきた理由からの存在の力から変えようとすることです。それが故に、カリスマ的なモノがなくて、党などはなく、下からの完全な積上げです。

 財産の観念は人類の本能から発生しているとみなしています。持つことによって、自分を救おうという、周りの環境に対してそれを対応させていくやり方です。今の中国は、共産主義ではなく、財産主義になっています。

 原始共産主義も自分たちの力をどう使っていくか。いかに所有しようとも、ファミリーとしてのモノであり、家長のモノである。そこでは共有していない。あくまでも所有物です。

 所有は理性に根差すのではなく、本能に根差している。だからややこしいのです。だけど、車に対する所有は本能なのか。理性ならば、一日のうち2時間も使っていないモノを所有する意味がどこにあるのかが出てきます。

 我々にとって、必要なのは、持つことでなく、使うことであり、移動することである。異動して何かを得ることであり、そして社会を変えることです。10.8.1の「共有意識」の中に入れます。その中に、歴史的な社会主義との関係もこの中に入れます。

 共産主義は私有財産を廃止して、国家が全財産を所有すべきだとした。結局、国家を握る連中が全てを握るカタチになり、その中から。カリスマが生まれた。共有意識は国家に頼らずに、自分たちのコミュニティで共有して使うことをベースにしていく。この感覚をどういう風に持って行くかです。

共有意識におけるインフラの扱い

 財産と言った時にインフラというもの、鉄道網とか道路とかは私的なモノにはできない。だから、私的所有権の範囲に入らない。では、その上を走るクルマというものはどうなるのか。インフラを使う以上は共有である。

 もう一つ大きいのは、資源です。リソースそのものを何に扱っていくかの将来を含めたコンセンサスです。

所有権に対する、様々なスタンス

 現存の自由を保護し拡大しようとする個人主義者があり、他方に、所有権を共同化して、所有行為を抑制しようとする社会主義者がある。政府を維持するためのいかなる種類の租税にも我慢しようとはしない極端な個人主義者。いかなる財産といえども否定しようとする共産主義者

 大きくぶれています。だけど、これらはすべて所有です。所有する限り、その数によって、幸せが決まります。所有したからと言って、幸せではないという幸福論にもつながります。

サブテーマの表現

 サブテーマは、中項目レベルの4つをベースにします。「存在の力」などは、8つ使います。それぞれの項目でベクトル化します。ジャンルの記号はアルファベットを使います。

 パートナーへ渡すための「システム設計」「サファイア」。共有とインフラのシェアは絡みます。「共有意識」のなかに入れます。

 サブテーマは常に本体とフリップフラップします。

 そして、インフラというキーワード。それを地域で作り出す。工事だけではなく、開発そのものです。

 分化と統合、そして「社会の位相化」は同じです。ただ、観点が違います。位相化は数学の観点です。分化は個人の分化の帰結です。どちらから見ていくかです。

歴史の進化

 歴史の進化を上げたけど、本当に言いたいのは、歴史の未来です。数学のトポロジーでの経緯を入れ込むと歴史の進化になります。その意図を汲み取らないといけない

 歴史のトポロジー的な変化を支えるのは、137億年の歴史からの答えです。一つはクライシスで変化するということと今という時代の本来の意味です。137億年の果てに今の時代があるという重大な意味。そして、私の死と同時になくなる世界。

 まあ、なくなるのではなく、私の方が異なる世界に跳んでいく。この世界はこの世界でマルチバースの一つとして、いい加減に生きていくんだろうなという気がします。

発信することは簡単ではない

 スマホのトラブル事例を見ると、今の日本の文化では、発信することは容易ではない。発信することが悪いのではなく、その文化に慣れてなくて、攻撃するだけで、活かすことはできない。

 この文化を変えていかないと、いくらコミュニティを作っても、そこから外へ出れないし、つながらない。そこが、個人の分化の最大の障壁でしょう。品川さんの言動もハッキリします。経営者にとって、スタッフが発信することをいかす社会をどう作っていくのか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

28歳の決意

学校図書館の司書を活かす

 学校図書館にしても、なぜ、存在の力を出さないのか、というところに違和感を感じている。誰かが何かの為に適当なところで答を出している。本来の志のある人がそこで止まっている。そこを突破しないと答えが見つからないのに。

 そういう意味では「承認」を受けようとする心で動いている。それが金になる。金になることがそんなに重要なのかと言っても、それを気にはしない。

国家のために死ぬ

 国家のために死ねることはムリでしょう。紙と一体化していない国のために、有限たる個人が死ねるか。その意味では、個人の自己絶対化が起こっている。それを存在の力とつなげれば、答が出てきます。

 国家にために死ぬという言葉自体がなくなる。国家は単なる機関です。唯一の単位が国家だと融通が利かないので、もっと小さなベースを単位をすることで、国家を上回るのが超国家です。

ゲーム化からコミュニティ化

 エレベーターを内部はスマホで、完全に女子化しています。これを存在の力に使わない手はないです。奴隷が自分の首輪を買っているようなもんです。

 それにしても、男性の姿は絵になっていない。

サブテーマのためのシート

 サブテーマのためのシートを作ります。項目をいくつに設定していくかです。とりあえず、10個を設定しましょう。横断的なモノを候補にします。今日はそれを決めましょう。サーベージして。

週間での習慣化

 シネマでポップコーンを習慣化します。候補としては火曜日ですね。木曜日はサウナで、金曜日は図書館。水曜日は食事ですから、月曜日か、火曜日のいずれかだけど、月曜日は週末の本の処理が残っているのは、早く、家に帰りたい。

 バックとか荷物の量も曜日で決めます。金曜日はトート大×2です。火曜日はポーチ一つにする。月曜日は、本が残っているので、大きめのバックを持って行きます。

 土日の午前中を使うようにしましょう。日曜日は早めに起きた上で、7時から8時までスタバで処理です。土曜日の6時から9時までも使いましょう。

ベーコンの気持ち

 もしかすると、私の気持ちにベーコンが一番近いかもしれない。「意思の力」に依存している人々をどう救うのか。

 キリスト教の絶対的な世界で「教条や権威によって支配されることをやめよ。世界を見よ!」という人類に対する叫びを上げた。

 彼は無知の主要な源泉として四つのものを非難した。それは権威に対する尊敬、慣習、無知な群集の意向、人の言うことを聞こうとしない、人間の性向である。これだけを克服してみよ、そうすれば力の世界が人類の前に開かれるであろうと。

28歳の決意の最終段階に来ている

 28歳の決意の意味。これは重要です。なぜ、28歳だったのか。そして、なぜ、社会までをターゲットにしたのか。

 入社して、5年間で、数学がいかに使える武器であるかを理解した上で、数学のすごさを他の人が理解していないことを確認した。特殊な武器を持っていることを確認できた。

 数学は仕事だけでなく、もっと大きな、社会全般に使っていけると確認できたから、それを実証しようと思ったんでしょう。

 つまり、武器と適用範囲と時間。パートナーが設計能力を武器にできるようにさせましょう。その機会が与えられたら。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ICTと学校図書館

『学校図書館に司書がいたら』より これからの学校図書館と司書

昨今のデジタル化の波は、子どもたちの生活を大きく変えています。「情報」というくくりで考えれば、図書館がなくても、アナログな本がなくても、コンピュータで検索すれば、何かしら答えらしきものが瞬時に出てくる、そんな時代にあって、学校図書館はもう不要と考える人たちがいてもおかしくありません。事実、「調べ学習に図書館を使われますか?」と司書が聞いたら、若い先生に「いえ、コンピュータルームで行いますから」となんのためらいもなく答えられたという話も聞きます。

さらにタブレットPCやスマートフォンの登場により、デジタル情報にアクセスすることがどんどん容易になっています。また、様々なコンテンツが用意されたデジタル教科書は、先生の使い方しだいでは、児童・生徒の興味・関心を引き出し、理解を深めることに役立つことでしょう。以前なら課題が出ると図書館にやってきて調べていた生徒も、どこでも手軽に調べられるパソコンやスマートフォンを使って、目的の資料を探し出し、書き写して提出。あるいはそれすらせずにコピー&ぺーストし、体裁を整え、メールで先生へ送信、ということもあるでしょう。

少し前までは、ネットの中の情報は玉石混淆、信頼できる情報を得るには、やはり書籍が一番、という言い方も通用しましたが、有料データベースを使う、あるいはサイトの運営元を確認するといったスキルを身につければ、ネット情報は有効活用が可能です。

私たち司書も、今やネットの情報を使わずにレファレンスをするのは困難な状況に陥っています。むしろ予算の少ない小規模な学校図書館にとって、インターネットの躍進は、強い味方でもあります。そのネット社会の進化により、学校図書館は無要の長物となってしまうのか……。いえ、そうではないと最近強く感じています。

子どもたちがネットの情報を使いこなせるためにも、まずは紙媒体の情報を使って調べる作業を丁寧にやっていくことが大切です。一冊の本を丁寧に読む。書かれている事柄を理解する。短く要点をまとめてみる。自分の言葉にして誰かに伝えてみる。同じテーマの複数の本を読んで比較してみる。このような作業を行う中で、情報を扱うスキルが身についていきます。電源を消せば消えてしまう文字と、紙に書かれた文字は、内容は同じであっても、記憶の残り方が違う気がします。まして本であれば、表紙のデザイン・本の厚さ・紙質・イラストや写真・手触り、といった要素も入ってきます。そのような本が、分類・組織化された図書館という空間を体感することで、やがてはバーチャルなネット情報もその奥行きや関連性を想像しながら使えるようになるのではないでしょうか(デジタルネイティブと呼ばれる世代では、その受け止め方も違ってくるのかもしれませんが)。

一方で、最新の情報やデータを手に入れたり、図書資料の不足をデジタル資料で補ったりできるようになったことは、小さな学校図書館にとっては大きなメリットです。本だけでは調べられなかったことを、インターネットで調べることも、インターネットの情報の真偽を確かめる意味で図書資料を活用する、といったこともできます。

調べたことを発表する際、ICT機器を使う場合もあります。生徒の作品をデジタル情報として保存し、次の学年の学びにいかすことも可能です。双方向性を持つメディアの特性をいかした新たな学びも今後出てくることでしょう。私たち司書も、必要なスキルを補いながら、使える学校図書館をつくっていくことが求められているのだと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

さまざまな「歴史をみつめる目」

『東アジアの危機』より 世界における歴史認識と日本

今日は、国際社会の中で「歴史認識」という言葉がどのように理解されているのか、また国際社会にはどのような形の「歴史認識」があり、それぞれの内容について日本ではどういった理解をされているのか、ということを中心に、三つのパートにわけてお話ししていきたいと思います。

まず一番目は、「歴史をみつめる目」について、これは「歴史観」または「歴史認識」といった言葉で語られます。二番目に、学問的な領域にとどまらず、われわれが生きている日常そのものが歴史だと考えるならば、ジャーナリズムとはまさにその日常にある歴史を代弁するものであり、そうしたことを踏まえ、ジャーナリズムの中に歴史をどう見るかということを考えたいと思います。そして三番目に、私たちの実体験や私たちが選択してきた歴史的事実を次の世代にどのように伝えるか、つまり歴史というものをどのように語り継いでいくか、ということをテーマにしたいと思います。

最初の「歴史をみつめる目」ですが、アカデミズムとしては、いくつかの法則ないし原則があります。たとえば、唯物史観という形の歴史記述があります。戦後の日本では、この唯物史観が主流でしたが、わかりやすく言えば、歴史というものは社会主義的な方向に向かう人類史の歩みである、という考え方です。

それに対し、戦前の日本で唱えられていたのは皇国史観です。天皇を中心とする歴史観で、われわれは天皇の赤子であり、日本の歴史は天皇によってつくられてきたとするものです。その根拠となっているのは『古事記』『日本書紀』、つまり神話であって、これは日本に限ったことではありませんが、国の物語の始まりとしてはあまり科学性がないと言えます。

比較的最近のものでは文明史観というものも挙げられるでしょう。サミュエル・ハンチントンというアメリカの学者が「人類史には、キリスト教文明、イスラム文明、中国文明など八つの文明がある」と言っているのですが、それぞれの文明を検証・分析しながら、「歴史というものは文明の衝突である」ととらえているのが特徴です。八つの文明の中には、日本文明も入っていて、なぜそう考えるかというハンチントンの分析には興味深いものがあります。

理由はいくつかあるのですが、そのひとつは、日本文明というのは日本だけ、日本人だけのものであり、言語も日本語しか用いない、そして日本という国の国土の中に押し込められている文明だというものです。たとえばキリスト教文明であれば、国を超え、民族を超えて広がっていき、ひとつの文明の中にさまざまな言語があるのとは対照的です。

だからこそ日本にはほかの文明同士が衝突したときに仲裁、あるいは斡旋の役割を果たすことができるというプラスの面がある、とハンチントンは言います。ではマイナス面は何かと言えば、それは孤立し唯我独尊に陥りやすいということです。一九三〇年代からの日本は明らかに「自分の文明が一番正しい」という独善に陥っていました。

このほかに、物語史観というものもあります。アフリカの民族などに多いのですが、それぞれの国の歴史というものが物語によって伝承されていて、国の始まりがどういうふうな形であったかはさまざまですが、共通しているのは文明が伝承でつくられていくということです。この物語文明は、ある種の共同体の紐帯として非常に強い力を持っているものの、その影響力の広がりはそれほど見られないという欠点もあります。

最後になりましたが、実証主義史観という歴史観をあえて挙げたいと思います。そもそも二〇世紀の科学そのものが、実証主義的に裏付けできないものは存在しない、という立場をとってきましたが、歴史で言えば証拠となる文書、記録といった誰もが納得できる形あるものによって歴史を分析しているのがこの歴史観の特徴になります。ですから、実証主義史観においては、そうした確かな裏付けがないものについては、わからない、考えないという態度をとります。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

非連続の発想を実現する「創造力」

『オックスフォードの教え方』より 非連続の発想を実現する「創造力」

「創造力」はO(ゼロ)から生まれる

 「創造力」は一体どこから生まれてくるのでしょうか。創造性をめぐる議論は脳生理学などの最先端科学分野で盛んに行われていますし、またそれは哲学や教育学でも取り上げられることがよくあるトピックスでもあります。

 遠い昔からOXONは歴史に名を連ねるような天才や偉人を多く輩出しています。

 例をあげると枚挙にいとまがありませんが、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作『指輪物語』の著者J・R・R・トールキン、「驚嘆的博士」との異名をとる哲学者の口ジャー・べーコン、経済学の父と呼ばれるアダム・スミス、「鉄の女」政治家マーガレット・サッチャー、理論物理学者のスティーヴン・ホーキングなどもOXONの出身です。

 OXONの教育では、どのような事実であれ、まず疑ってみること、批判精神を持つことの大切さを教えます。チュートリアルのときに指導教授が「日本人の学生はまじめで優れているが、現実に疑いを持って批判的な観点から分析することが苦手である」、と言われたことがあります。

 つまり、OXONでは疑いや批判力を持たない秀才よりも、多少成績が悪くても批判力を持ち、独創的な考え方を持つ人物が評価されるのです。OXONに関する文献などを読んでいて気付くのは、歴史に名を残しているような人々はそのような性質を兼ね備えているのです。疑いや批判を持だない日本の秀才のように先生の話をよく聞いて試験で良い成績をとるのとは違うのです。

 実のところ、創造力のある人になるためには、知識を豊富に持っているだけでは十分ではないのです。つまり最初からいろいろなことを知っていなくてもいい、たとえ「O」であってもかまわないのです。肝心なことはさまざまなことに興味を持ち、果敢に行動する習慣を身に付けることです。その上でさまざまな情報を収集・分析し、思考を整理しながら、論理的に考えるという基本のプロセスを形成していくことです。

 こうした基本を身に付けることを通して、新たな関心や発見が生まれ次第に創造力へと繋がっていくのです。

創造性は言語化して伝えることが必要

 創造性を発揮することは、見方を変えれば、多くの人が共有している「常識」を打ち破り、ほとんどの人が共感してくれないことを考え出し、それを言語化して、周りの人々に伝える作業に他なりません。

 感覚や価値観は人によって違うもので、究極的には分かり合えないものです。

 「何もしなければ自分の考えは相手に伝わらない」という意識を持ち、筋道を立てて周りに伝えていく過程で思考が整理され、新たな発想を生み出すのです。

 このプロセスの中で一見関係ないように見えていた問題が思わぬところでつながっていたりすることが分かったり、膨大な情報の中に隠れているきらりと光る新しい創造の小さな糸口を発見するのです。

行き詰まったらやり方を変えてみる

 学業であれ、ビジネスであれ、いつもと同じやり方が通用するわけではありません。その時の状況によって、さまざまな対応が求められるのですが、人は自分のなれたやり方に固執するあまり、失敗してしまう経験があります。このようなことが続いてしまうと、新たな創造性の芽を摘むことになりかねないでしょう。

 インド独立の父、マハトマ・ガンジーは「世の中に変化を望むのならば、君自身がその変化にならなければいけません」という言葉を残しています。ビジネスパーソンとして「変化」を巻き起こすような人物になりたいのであれば、自分自身を変えることを通じて新しい人間性を創造できるかについて話し合う機会を設けることから始めましょう。

 また、自分の考え方の「クセ(傾向)」を知ることも必要でしょう。いつも楽観的に物を見る人、反対に悲観的に見てしまう人、人には考え方に一種のクセがあるのです。

 たとえば、天気が良い日であっても「晴れて最高」と思う人もいれば「日差しがきつい」と嫌がる人もいます。実際に起こった「事実」とそれを解釈する「クセ」を分けて考えてみましょう。「天気の良い日」はすべての人にとって事実ですが、その解釈に自分の考え方のクセが入り過ぎると、物の本質を見失うこともあるからです。

 考え方を変えたり、クセを理解したりするためには、普段は話さない相手と話してみる、読まない分野の本を手に取ってみる、新たな習い事を始めてみる、同じ仕事でもやり方を変えてみるなどは、創造力を養ううえでも重要です。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )