未唯への手紙

未唯への手紙

東インド会社とアジア

2014年08月02日 | 4.歴史
『イギリス史研究入門』より 帝国 環大西洋世界と東インド

イギリス重商主義帝国、環大西洋経済圏の展開・発展は、イギリス東インド会社を中心とするアジア物産(ベンガルのキャラコ・モスリン、中国の茶など)の輸入を通じた、対アジア(束インド)貿易の拡大と緊密に結びついていた。

18世紀のイギリス東インド会社は、国王の特許状を得た時代遅れの商業独占体ではなく、特権的ではあったが本国の商業・財政革命を担う資本主義的な企業体であり、のちの多国籍企業の原型であったとみなすことも可能である。しかし、東インド会社の独占は不完全であったために、同社職員やインド在住のイギリス系商人(country trader)が新市場、アジア間交易に参入することができた[p.J. MarshaU1976]。イギリス系のアジア交易商人としては、のちのジャーディン・マセソン商会のようにスコットランド出身者が活躍した[B. Tomlinso11 2001]。東インド会社やイギリス系のアジア交易商人は、インド現地では土着の商業資本、銀行家、大貿易商と取引し、彼らから借金することもあった。両者とも現地バザールのアジア商人との仲介・協力関係があってはじめて、利潤を得ることができた[三木2002]。

18世紀中葉において、イギリスのインドに対する政治的支配権が漸進的に確立される過程で、さまざまな利権を悪用して巨富を蓄える東インド会社の社員や軍人があらわれた。彼らは「ネイボッブ」と呼ばれ、当初蔑視の対象となった。彼らは不在化せずに現地で短期間の蓄財に専念し、1770年頃、インドからの私的な資産移送は年間約50万ポンドに達した。アジア間交易でもっとも重要であったのが、中国・広東の茶貿易と連動した対中貿易であり、広東で振り出されたイギリス向け送金手形は、ネイボッブがインド現地で獲得した富を本国にひそかに持ち帰る重要な手段になった[p.J. MarshaU1976]。ネイボッブのなかには、初代ベンガル総督W・ヘースティングスのように、議会での弾劾裁判にかけられる者もあったが[PJ. Marshall1965],本国での所領や爵位の獲得を通じて社会的評価は好転し、疑似ジェントルマンとして認知された[川北1983]。

東インド会社がしだいにインド統治機関に転化し、商業活動と徴税・本国送金業務が不可分となってその一体性が増大するにつれて、不適切な行為がめだつようになった。1773年には「ノースの規制法」が、84年には「ピットのインド法」が制定され、本国政府による東インド会社への監督・介入が強化された。1784年にピット首相は、密輸の防止と関税収入の増収のために、本国の茶関税の大幅な引下げを含め関税改革を実施した。このため広東からの中国茶の輸入は激増し、対中貿易は赤字に転落した。その赤字を相殺し本国からの銀の流出を阻止するために、東インド会社はベンガル地方でのアヘン専売・独占権を活用して、イギリス系のアジア交易商人を介在させたインド産アヘンの対中国向け密輸を始めた。イギリス・インド・中国を結ぶ「アジアの三角貿易」の形成である[Bowen1998,2006]。18世紀末から、ロンドンヘの送金業務が英印関係の最優先事項になった。公的債務(年金・給与の支払い、資材購入)を履行し、株主への配当金を払うために、東インド会社は年間300万~400万ポンドを必要とし、個人的送金(50万~150万ポンド)や海運料、保険・金融サービスのような「見えざる輸入」(invisible import)を決済するために、さらに一定額の資金確保が必要であった。そのためには、インド産品の本国とアジア諸地域(東南アジア・中国)向け輸出の拡大が不可欠であった。

東インド会社特許状は、20年ごとに更新されていたが, 1813年には会社のインド貿易独占権が廃止され、33年には残された特権であった中国貿易独占権が撤廃された。従来、これらの措置は、綿製品市場の開拓をめざした新興の本国綿工業資本、その圧力団体であるマンチェスタ商業会議所による反対運動と政治的圧力の結果であると理解されてきた。しかし、ナポレオン戦争中の1813年の貿易自由化は、イギリスヘのインド産品の流入を促す戦時措置であり、東インド会社の支配領域を越えて成長した通商利害を有するロンドン商人の利害を反映していた[A.Webster1990]。また、1833年の中国貿易独占権廃止も、29年の経済不況で打撃を受けたインド現地の経営代理商(agency house)が、ロンドンヘの送金を確保するために、インド綿製品やアヘンの輸出市場の拡大をめざして対中貿易の開放を強く要求したことから実現した。このように、東インド会社の貿易独占権撤廃には、マンチェスタの綿工業者たちが行使した政治的圧力よりも、ロンドン・シティの金融・サービス利害と、インド在住のイギリス系アジア交易商人に代表されるイギリス商業資本の利害が貫徹されていた[Bowen1998, 2006]。

グローバリゼーションとアメリカ

2014年08月02日 | 3.社会
『アメリカ史研究入門』より 現代のアメリカ 1990年~

世界のフラット化

 グローバリゼーションとは1980年代以降の資本主義市場経済の世界的優位を背景にテクノロジーや通信、貿易、金融などの諸活動が国境を越えて地球全体に広がり、世界の相互依存性が強まった現象を一般にいう。多国籍企業によるグローバル経済の進展が中心だったグローバリゼーションは、2000年前後から新しい段階にはいったと論じているのは、ジャーナリストのトマス・フリードマンである。彼によるとあらゆる国々の企業、個人や集団が地球規模の競争や共同作業に自由に直接参加するようになり、世界は小さくなると同時に「フラットになった」(平坦化した)。彼はその好例としてアメリカの情報サービス分野の多くの仕事がインドヘ大規模にアウトソーシングされている様態を伝えている。フリードマンはこの時代に世界のフラット化をもたらした要因を10あげているが、ベルリンの壁の崩壊による自由主義経済への流れの加速、中国の世界貿易機構(WTO)加盟の2つを除いて、インターネットの普及と接続の拡大、新たなソフトウェアの開発など情報技術革命によるものである。彼はこの世界のフラット化を動かしがたい歴史的流れと肯定的にとらえ、そのような世界に人びとはどのように適応すべきかを論じている。また彼は世界のフラット化による知識労働の国境を越えた取引によってアメリカ人の仕事が一部外国に流失したとしても、自由貿易の原則を貫くほうが国全体により大きな利益をもたらすと主張する。

グローバル経済の推進と反対運動の高まり

 しかしグローバリゼーションのさらなる進展は、フリードマンが分析しているように必ずしも自ずと進んだわけでない。それはアメリカの大企業や金融機関による世界経済自由化への働きかけや、それを促進する通商政策をとったアメリカ政府の行動によっても促された。ことに1990年代のクリントン政権はグローバリゼーションを歴史的必然ととらえ、貿易、金融、情報などの自由化政策を積極的に推進してアメリカをその流れに一体化させようとした。 1995年にはWTOがっくられグローバリゼーションの制度化が進んだ。アメリカは国際通貨基金や世界銀行などの国際金融機関に影響力を行使して発展途上国の経済の自由化を促進し、近隣諸国と自由貿易協定を結び、中国に対してもWTOに加盟させて経済の相互依存関係に巻き込もうとするなど、グローバルな経済秩序の確立に努めた。

 一方、1999年のシアトルでのWHO閣僚会議に各国の労働組合や市民運動か結集して抗議デモを展開したのを皮切りに、反グローバリゼーションの動きが世界中で活発になった。経済評論家ジェフ・フォーは The Global Class War のなかでこのような動きを、世界主要国のエリートと世界の民衆との国境を越えた階級闘争が始まったと論じている[Faux 2006]。彼によればグローバリゼーションとは、諸国とりわけアメリカのエリートが世界経済における大企業資本の利益増進のために進めているものであり、諸国の民衆の利益はまったく省みられていない。彼はアメリカのエリートが1993年に超党派で成立させた北米自由貿易協定(NAFTA)が以後のグローバル経済の「憲法」の雛形になったとみる。そしてこのアメリカ国内での意義は、第二次世界大戦以来この国の支配層と国民の経済的命運とを結びつけていた社会契約が破棄されたことだと指摘する。その結果アメリカの雇用が流出すると同時にメキシコの環境が悪化し、両国内で経済的格差が拡大した。しかしグローバル経済の批判者たちもグローバル化している経済の現実を全面的に否定しているのではなく、それをコントロールする政治システムの創出を求めている。フォーが主張するのはNAFTAの民主化、すなわち加盟三国に共通する経済的権利章典を定めて労働者の権利を各国共通に規定し、投資家との力のバランスを取り戻すことである。

アメリカン・グローバライザー

 グローバリゼーションは多国籍企業の経済活動だけでなく、ポピュラーカルチャーの伝播や、アメリカ系諸団体の世界への慈善、教育活動、道義的課題の輸出など多くの側面をもっている。ジェームズ・ハンターらは多国籍企業のために働くピジネスエリートや地球大の公共善の実現をめざす各種の国際NGOのスタッフら、アメリカ人グローバライザーたちの意識を調査分析している。それによれば各種国際NGOのリーダーたちは一般に覇権的なグローバル経済秩序の批判者であるが、彼らが求めているのはフォーも主張していたように、より経済的に公正で政治的に民主的で環境的に健全なグローバリゼーションである。これに対して国際ビジネスのリーダーたちは、そのような動きをグローバル化の流れに抵抗し、むしろ諸国民に害をもたらすとみる。彼らは自己の活動を普遍的な個人の権利と必要に合致しているとして正当化している。その点は国際NGOのリーダーたちの普遍的な人権への訴えという信念とも類似している。そして両者ともグローバリゼーションの結果、世界はアメリカのようになっていくだろうとみていると、ハンターらは指摘する。

 The Paradox of a Global USA はグローバル化する世界とアメリカに関する9人の研究者の論文集である。日本人研究者、入江昭は、かつてアメリカ人のなかでグローバリゼーションと一致していたアメリカニゼーションが、近年の彼らの世界に対する内向きの態度によってかけ離れつつある現象を分析している。またジェームズ・カースは1990年代のグローバリゼーションの進展とアメリカの帝国化との関係を論じている。

生きることに「理由」があるか

2014年08月02日 | 1.私
『考える日々Ⅱ』より 池田晶子

毎週毎週、偉そうなことばかり書いているが、言葉というのはよくしたもので、実際の気分は少々違っても、言葉のうえだけでは虚勢を張り通せるという利点がある。

いかな形而上好きの私とて、悔しいかな、「半分は」生身のわけだから、身体上、生活上、人間関係上の「えいくそっ」は、やはり常にあるわけである。しかし、それを「えいくそっ」と思うというそのことが、我が身がいまだ至らないというそのことであると、よくわかっているからこそ逆に、その至らない我が身を生きていられるということでもある。

じっさい、私の場合、下手に哲学的思考が得手なものだから、よく人が「落ち込む」とか「ドツボにはまる」という言い方で言うあの状態、あれがじつは、人間存在の根源的絶望状態であるということがわかってしまったりする。まこと、哲学は両刃の剣である。

私が、その状態に落ち込むと、そういう場合の打開策としてよく人が使う、「気晴らし」とか「気分転換」とかの方策が、一切無効である。なぜなら、「気晴らし」とか「気分転換」とかを含めた、生きて在ること、「在ることそのもの」、その「否」の方向へと、気分が、ああ、無力な意志を越え、怒濤の如く崩落してゆくからである。

しかし、「在ること」の「否」、すなわち「無」ということは在り得ないということをもまた、イヤになるほど知悉しているから、「存在」と「無」の間、在るか無きかの如きその隙間に、妙な具合に挟まって私は悶絶し、文字通りの仮死状態へと至る。頭からふとんを被って、終日身動きせず、寝返りひとつ打たない。打てなくなるのである。宇宙大の努力がそこに要求されていると感じるのである。

しかし、そんな日でも、夕方になれば犬が散歩の催促にやって来るし、電話に居留守は使っても、なんやかやと形而下の続きは始まってゆくわけで、通り過ぎれば嵐もまた二興と、思える程度にまでは浮上してくる。修行の道は、まだまだ遠い。

ところで、右のような状態も、「修行」と思うから、「どっこいしょ」という感じにもなるのだが、そんなものだと思えば、じつは、なんてこともないのである。

先に私は、「絶望状態」と言ったが、人が絶望するのは、あらかじめ希望をもっているからに他ならず、希望がなければ絶望するはずもない。と言って、希望を捨てる、希望をもたないようにするというのも、一回転した希望である。そうではなくて、私が言っているのは、「生きて在ること」すなわち「人生」が、そもそも希望をもったりもたなかったりするべき何事かであり得るのか、ということである。

人が絶望した時の一般的表現として、「なぜ生きているのかわからない」「生きている理由がない」という言い方をする。しかし、なぜ、生きていることに理由が要るのだろうか。要るものだと、なぜ人は思っているのだろうか。

昔、有名な登山家が、「なぜ山に登るのか」と、その理由を問われ、「そこに山があるからだ」と答えた。真意のほどは知らないが、至言である。あれと全く同じことである。

「なぜ生きているのか」という問いには、「生まれたからだ」という答えが、最も正確なのである。「なぜ生きているのか」の「なぜ」に対して、何らかの「理由」、すなわち生きているというそのこと以外の何事かがあり得ると思うから、希望をもったり絶望したりということにもなるのだが、生きているということそのことには、そもそもいかなる「理由」もない。山がそこに在るのと同じである。たんに、在るのである。

五木寛之氏の『大河の一滴』というのがミリオンセラーだそうで、私は読んではいないけれども、タクシーに乗るとよくその宣伝ステッカーが張ってあるので知った。「希望をもつ、から絶望するのだから、絶望から始めるのが生き抜くコツだ」というふうな内容らしい。

これだけ読むぶんには、この考え方は、したがって間違いである。哲学的に正確を期すならば、「希望も絶望もじつはないと知ることが、生きて在るそのことだ」と言うべきだろう。まったく、ミもフタもない。

ところが、修行至らない我が身には、このミもフタもなさ自体が、たまらなく面倒くさく感じられる瞬間が、もう一回りして、やってくる。それで、ふとんを被ってフテ寝を決め込む次第になるのだが、やはり人が「生きる」「何かをする」というのは、かなりの高等技術であると私には思われる。

精神科医をしている知人に、「あなたは廃人のサラブレッドだ」と評されたことがある。これもまた、至言であろう。私は自分が人間を廃業していることを自覚しているし、言ってみれば、生まれてきたこと自体が余生みたいなもんだからである。

しかし、余生を生きている廃人の口から、毎週毎週よくも偉そうな言葉が出てくるな。

読者は思われるだろう。私もそう思う。

だから、言葉というのはよくしたものだと私は言うのだ。実際の気分は少々違っても、偉そうな言葉を言ったり書いたりしているうちに、実際にそういう気分になってくるのだから不思議である。それで自分も読者も元気になるなら、それに越したことはないではないか。

考えるほどに、人は、「自分のために」何かをする理由がない。何かをするということは、いかなる理由もなく、人のためにすることであるということに、どういうわけだかこの世界はなっているのである。率直なところ、私は自分がヤケなのだか真面目なのだが、わかっていない。

未唯空間という独学の目標

2014年08月02日 | 1.私
ICレコーダー

 いつものICレコーダーを忘れたから、ラジオ録音用のICレコーダーを使います。こういうこともあるんですね。どんどん持ち運ぶものが増えています。

 やはり、録音する時には、ふだんのICレコーダーの方が慣れています。かなり、情報量が違います。

未唯空間という独学の目標

 全てを知りたいというのも独学の目標になります。というか、多分、これは唯一の目標でしょう。独学の方法としては、私のやり方は大きなものです。

 そういう意味では、同じようなことを考えている人がいるかどうかです。Iさんぐらいでちょうどいいかもしれない。

 最初に入門編で、次が概説編というような手順を踏むことはできない。本当にランダムです。私の好奇心に的は絞れない。そのために新刊書をターゲットにしました。時代がどう変わるかを知るためです。勉強するということは、多分、このような独学勉強法などの意味なんでしょう。

 権威を使わずに、こんな書き方をするのでしょう。迫力がないですね。かなり、本が増えているけど、どっちかというと、そのやり方と私のやり方が違うということを言うために、そのやり方を出しています。その分を含めて書かないと分からないでしょう。