『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』より 攻守の逆転--中東におけるイラクの役割の変化
対米関係と同様イラン政府との関係においても、外見以上の自律性をイラク政府は維持している。イランは一九八○年にイラクから軍事攻撃を受け、八年に及んだ戦争では化学兵器の被害にもあった。イラクに対するイランの利害を規定するのは、この経験である。つまりこうした歴史的背景があるために、イランはイラクの力と脅威を抑制することに一貫して意を用いている。もっとも、イラクの突きつける問題は軍事的脅威にとどまらない。シーア派の学問的中心地ナジャフは新生イラクにおいて新たな位置を確保し、自らシーア派の盟主をもって任じるイランを脅かしかねない勢いである。このような見地から、イラン政府はイラクを従属的な地位に留め置こうとしている。
イラク戦争後の二年間、すなわち二○○三年から○五年ごろまでは、イラクのシーア派政党に働きかけることで目的を遂げようとしていた。シーア派政党の多くはかつて亡命を強いられ、イランで活動していた。これらの政党に民主的選挙の推進活動を展開させ実施にこぎ着けることかできれば、シーア派政党が政権をとることになると考えられた。しかしイラクを内戦の渦が呑み込むと、シーア派民兵に対する資金提供により影響力の行使をはかるようになった。両者のパイプとなったのか、イランの革命防衛隊傘下のゴドゥス部隊とその指揮官ガーセム・ソレイマーユーである。ムワッファク・ルバイイ・ハイラク統治評議会メンバーを務め○四年から○九年まで国家安全保障評議会議長)は一〇年、ソレイマーユーを評し「イラクの最有力者。彼なしでは何もできない」と極言している。イラクの政府および社会に対するイランの影響力が頂点に達したのは、内戦期である。イラクにはゴドゥス部隊の構成員が常時一五〇人いると米軍はみなし、○七年と○八年には一部を逮捕した。イランがイラクの民兵組織に高性能兵器を提供し軍事技術を伝えたことを示す情報もある。決定的だったのはレバノンのヒズブッラーの構成員アリー・ムーサー・ダクドゥークがバスラで身柄を拘束された一件で、ダクドゥークはシーア派民兵組織リーダーのカイス・ハズアリーとともに拘束されている。
イランの関与は民兵への資金供与にとどまらない。イランのマフムード・アフマディ・ネジャード大統領は二〇〇八年三月のバグダード訪問を成功裏に終え、それ以来マーリキーは頻繁にテヘランを訪れるようになった。またガーセム・ソレイマーユーはイラクのジャラール・ターラバーユー大統領と密接な関係にあるだけでなく、ムクタダー・サドルとのつながりも強い。○八年の「騎士の襲撃」作戦の後にはマーリキーとサドルの仲介役を務め、対立を収束に導いている。
二〇一〇年三月の国民議会選挙の際には、イラン政府はサドルの政党とイラク・イスラーム最高評議会(ISCI)を主軸とする連合「イラク国民同盟」を支援することでシーア派の票をマーリキーから奪おうとした。予想以上にマーリキーに権力が集中し、自律性を高めていたことを懸念したためである。アメリカ政府の推計によると、○九年にイラクの政党に対してイランが行った支援の規模は一億から二億ドルにのぼり、うちISCIに対する寄付金は七〇〇〇億ドルだという。しかし結果としてイラク国民運動(イラーキーヤ)が多くの票を集め、イランとの関係の深い政党を孤立させる危険が生じたため、イラン政府は方針を変更し、懸念をいだきつつもマーリキー支援に舵をきった。一〇年五月にマーリキーの法治国家同盟とイラク国民同盟との連合が実現した背景には、イラン政府の働きかけがある。サドルが不承不承とはいえマーリキーを支持したのも、直接的にはイランの圧力ゆえといえる。
イラクとイランの関係は選挙後にいっそう密接となった。二〇一一年四月にはマーリキーがイランを公式訪問し、貿易も活発になっている。二一年の両国間の貿易額は、イランの試算によると一一〇億ドルに達した。イラクにおける電力不足も、電力と天然ガス、石油をイランから輸入したことで緩和された。一方で、イランがイラクを経由してシリアのアサド政権に水面下で武器の供与や資金援助を行っているとの情報が流れている。対イラン制裁の国際包囲網をかいくぐる経路としてイラクが使われていると取り沙汰されているのだが、しかしマーリキーは○六年に首相に就任して以来、イランとの間に距離を置き自律性を最大限に高めることを目指してきた。このことは政権維持のための戦略を追求するマーリキーにとって重要な拠り所となっている。ある意味でこれは強いイラク・ナショナリズムが存在することの現れであり、その対イラン観にみられるものも猪疑心以上の何ものでもない。イラクのナショナリズム、そして自律性を保たなければならないマーリキーの事情。かりにイランが隣人を衛星国にすることを考えているとしても、こうした制約が今後も課せられる可能性は高い。
対米関係と同様イラン政府との関係においても、外見以上の自律性をイラク政府は維持している。イランは一九八○年にイラクから軍事攻撃を受け、八年に及んだ戦争では化学兵器の被害にもあった。イラクに対するイランの利害を規定するのは、この経験である。つまりこうした歴史的背景があるために、イランはイラクの力と脅威を抑制することに一貫して意を用いている。もっとも、イラクの突きつける問題は軍事的脅威にとどまらない。シーア派の学問的中心地ナジャフは新生イラクにおいて新たな位置を確保し、自らシーア派の盟主をもって任じるイランを脅かしかねない勢いである。このような見地から、イラン政府はイラクを従属的な地位に留め置こうとしている。
イラク戦争後の二年間、すなわち二○○三年から○五年ごろまでは、イラクのシーア派政党に働きかけることで目的を遂げようとしていた。シーア派政党の多くはかつて亡命を強いられ、イランで活動していた。これらの政党に民主的選挙の推進活動を展開させ実施にこぎ着けることかできれば、シーア派政党が政権をとることになると考えられた。しかしイラクを内戦の渦が呑み込むと、シーア派民兵に対する資金提供により影響力の行使をはかるようになった。両者のパイプとなったのか、イランの革命防衛隊傘下のゴドゥス部隊とその指揮官ガーセム・ソレイマーユーである。ムワッファク・ルバイイ・ハイラク統治評議会メンバーを務め○四年から○九年まで国家安全保障評議会議長)は一〇年、ソレイマーユーを評し「イラクの最有力者。彼なしでは何もできない」と極言している。イラクの政府および社会に対するイランの影響力が頂点に達したのは、内戦期である。イラクにはゴドゥス部隊の構成員が常時一五〇人いると米軍はみなし、○七年と○八年には一部を逮捕した。イランがイラクの民兵組織に高性能兵器を提供し軍事技術を伝えたことを示す情報もある。決定的だったのはレバノンのヒズブッラーの構成員アリー・ムーサー・ダクドゥークがバスラで身柄を拘束された一件で、ダクドゥークはシーア派民兵組織リーダーのカイス・ハズアリーとともに拘束されている。
イランの関与は民兵への資金供与にとどまらない。イランのマフムード・アフマディ・ネジャード大統領は二〇〇八年三月のバグダード訪問を成功裏に終え、それ以来マーリキーは頻繁にテヘランを訪れるようになった。またガーセム・ソレイマーユーはイラクのジャラール・ターラバーユー大統領と密接な関係にあるだけでなく、ムクタダー・サドルとのつながりも強い。○八年の「騎士の襲撃」作戦の後にはマーリキーとサドルの仲介役を務め、対立を収束に導いている。
二〇一〇年三月の国民議会選挙の際には、イラン政府はサドルの政党とイラク・イスラーム最高評議会(ISCI)を主軸とする連合「イラク国民同盟」を支援することでシーア派の票をマーリキーから奪おうとした。予想以上にマーリキーに権力が集中し、自律性を高めていたことを懸念したためである。アメリカ政府の推計によると、○九年にイラクの政党に対してイランが行った支援の規模は一億から二億ドルにのぼり、うちISCIに対する寄付金は七〇〇〇億ドルだという。しかし結果としてイラク国民運動(イラーキーヤ)が多くの票を集め、イランとの関係の深い政党を孤立させる危険が生じたため、イラン政府は方針を変更し、懸念をいだきつつもマーリキー支援に舵をきった。一〇年五月にマーリキーの法治国家同盟とイラク国民同盟との連合が実現した背景には、イラン政府の働きかけがある。サドルが不承不承とはいえマーリキーを支持したのも、直接的にはイランの圧力ゆえといえる。
イラクとイランの関係は選挙後にいっそう密接となった。二〇一一年四月にはマーリキーがイランを公式訪問し、貿易も活発になっている。二一年の両国間の貿易額は、イランの試算によると一一〇億ドルに達した。イラクにおける電力不足も、電力と天然ガス、石油をイランから輸入したことで緩和された。一方で、イランがイラクを経由してシリアのアサド政権に水面下で武器の供与や資金援助を行っているとの情報が流れている。対イラン制裁の国際包囲網をかいくぐる経路としてイラクが使われていると取り沙汰されているのだが、しかしマーリキーは○六年に首相に就任して以来、イランとの間に距離を置き自律性を最大限に高めることを目指してきた。このことは政権維持のための戦略を追求するマーリキーにとって重要な拠り所となっている。ある意味でこれは強いイラク・ナショナリズムが存在することの現れであり、その対イラン観にみられるものも猪疑心以上の何ものでもない。イラクのナショナリズム、そして自律性を保たなければならないマーリキーの事情。かりにイランが隣人を衛星国にすることを考えているとしても、こうした制約が今後も課せられる可能性は高い。