未唯への手紙

未唯への手紙

多様化・グローバル化に対する共有意識

2014年08月24日 | 3.社会
未唯へ

 ICレコーダーをそばつゆに落としてしまったけど、大丈夫?

 ICレコーダのバックライトがおかしい。バックライトを切りました。この状態でいきましょう。ランプだけは付けるようにします。そうしないと、録音とかポーズの状態が暗いところでは分かりません。

中学生のビブリオバトル

 14歳の中学生の発表とは思えない。ガキですね。小学生レベルです。5年生の時に書いた感想文の本をここに出している。本当の悩みはそんなものなのか。悩みを救うのが本です。

 中学の時に、「戦争と平和」、「罪と罰」、「車輪の下に」などを読んだ。「戦争と平和」の感想文は、ピエールに成りきり、ナターシャへの思いを書いた。

 14歳の時が人生で一番悩む時です。池田晶子さんの「14歳の君へ」ぐらいは読んで、本からの刺激を受けてほしい。

 終了が3時と言いながら、3時20分ぐらいになりそうな雰囲気です。だから、途中から出てきました。時間は厳守しないと。

未唯空間の第8章の大項目の見直し

 やはり、第8章は難しいですね。販売店という範囲で「クルマ社会」に持ってこないといけないから。だから、幅を狭めます。ベースはメーカーがどう変わるのか。変わる基になるのは、マーケティングが変わることと、環境社会に対応させることなんでしょう。

 第8章では、情報共有とコミュニティの設定条件だけに言及させます。実際、変えるのは、もっと大きな手段を使います。これは、販売店という仮定を使って、その上で何が重要なのかを見ていくもので、これ自体では変えれるものではない。

 問題になるのは、8.7の「社会への拡大」です。これは跳びすぎています。8.7.1を「メーカー存続条件」に変えていきます。そうすれば、ロジックは変わってきます。「メーカー存続条件」は当初から探していた条件です。

 「メーカー存続条件」は20年前に名古屋に来た時の動機そのものです。このままの関係で、メーカーが存続できるのか? 日本の社会が成り立つのかどうか? これは小さい設問だけど、大きな問題です。

健康診断

 明日は9時半から健康診断です。朝、コーヒーが飲めません。これは予定外です。かと言って、Iさんが居るのに、行かないという選択肢はありません。だから、ポットを持って行きます。

 ウェストがメタボ制約を突破。これだけ、お腹が張っているとどうしようもない。

環境社会はサファイア

 最後は、やはり、サファイアにしましょう。このシステム全体は将来のパートナーに任せます。単にメーカーの単独システムではなく、社会全体のサファイアです。

 その中で、役割分担を決めていきます。ファシリテーションする部分、提案としてのインタープリターション、そして、活性化のエンパワーメント、そして、メーカーとして、作る部分です。

サファイアという仮説

 地球的規模の課題に対して、サファイアを仮説とします。仮説1として9.2、仮説2として9.3とします。サファイアには役割と機能があります。これはあくまでも仮説です。そうなると、9.4多様化、9.5グローバル化の意味がハッキリします。

 多様化とグローバル化に対して、国民国家の形態が環境社会に耐えられるかどうかの確認です。多様化に対するには、9.6共有意識を対応させます。

多様化・グローバル化に対する共有意識

 まあ、そんなに簡単なものではないけど、多様化に対するには、分化をさせて、個人を多様化していくことしかないでしょう。従来のハイアラキカルな感覚では多様化に対応できないし、グローバル化になって、コントロールが上になればなるほど、自分たちの価値観をハッキリさせないと、発信していかないと対応できない。そう言うところから共有意識が生まれます。

 共有という力は元々、市民がもっていた力だけど、国民国家になった時に、自由を求めて、それを捨ててしまった。それは戦争というモノ、支配というモノの限界から維持できなくなった。一番大きいのは、個人が数が増え、多様化することによって、占有するということ、所有するということ、そのものの意味が変わってきている。

 だから、共産主義のような形で、国家が土地などを占有して、それを分け与えるようなカタチはムリです。中国でもそれは失敗している。国民の依存度がさらに高い、ソ連の失敗は明確です。

ヒンドゥー教とは何か

2014年08月24日 | 4.歴史
『ヒンドゥー教の歴史』より ヒンドゥー教の世界

「インド」と聞いて多くの日本人は「お釈迦さんの国だ」と答える。それはそれで間違いではないのだが、インドの歴史において仏教が占める位置はむしろ小さなものである。アジアの文化・歴史における仏教の位置はまことに大きい。しかし、インドには結局は仏教を呑み込んでしまった巨大勢力を誇る宗教がある。ヒンドゥー教(ヒンドゥイズム)である。現在インドの総人口(約一二~一三億)の約八割がこの宗教の信徒である。つまり日本の総人口の約八倍のヒンドゥー教徒が存在するのである。

インドはじつに広い。その面積は三二八万七五九〇平方キロであり、日本の総面積(三七万七九三〇平方キロ)の約八・七倍である。インドの南端から北端まで行くには飛行機でも四~五時間かかる。その広大な全領域においてヒンドゥー教は、その前身ともいうべきバラモン教を含めるならば、約三五〇〇年のあいだインド精神文化の柱でありっづけてきた。インド人一人一人がこの事実を誇りに思っている。今日の世界においてインド文明圏は無視できない。ヒンドゥー教は人類の精神の一つの柱と考えるべきであろう。日本文化もまたヒンドゥー教から多くのものを受け取ってきた。

ヒンドゥー教を一つの宗教というのは、誤解を招くかもしれない。なぜなら、ヒンドゥー教は信仰や儀礼にのみかかわるのではなく、インド人の法律、芸術、建築など人々の生活のほとんどすべてにかかわる規範だからである。かつて「ヒンドゥイズム」は「インド教」(ヒンズー教)と呼ばれたこともあったが、「ヒンドゥイズム」(Hinduism)という名称は、文字通りには、インド主義を意味する。要するに、インド人たちの生き方といってもよいであろう。「ヒンドゥー」は、元来、川、とくにインダス川を意味した「シンドゥ」(sindhu)という語がペルシアに伝えられてインドを意味する語となった。さらに英語の「ヒンドゥー」(Hindu)となって、インド教徒すなわちヒンドゥー教徒を指す語になったと考えられる。

仏教やヒンドゥー教といったインドの宗教のキーワードとして「世界」「神」および「人間」があげられる。これらの三つのキーワードが指し示す三要素(世界、神、人間)は、インドの宗教の大枠を理解するためのみではなくて、西洋文化の主軸となってきたユダヤーキリスト教的伝統の大枠を知るためにも有効であろう。すなわち、それらの三要素がそれぞれの宗教においてどのような関係にあるかを知るならば、その宗教の基本的な考え方がわかるように思われる。

例えば、ユダヤーキリスト教的な考え方にあっては、まず創造主としての神が存在して、次にその神の被造物としての人間と世界が存在すると考えられる。この伝統にあっては、神と被造物とのあいだには越えることのできない断絶がある。それゆえに、この伝統にあっては被造物としての人間が魔女のように人間の力を超えた超自然的能力を有することは許されないことであった。一方で人間たちは、自分たちの生活のための素材として自然という世界を用いることを神から許されていた。

ヒンドゥー教や仏教におけるかの三要素の位置関係は、ユダヤ・キリスト教の場合とは大きく異なる。キリスト教的な考え方では、すでに述べたように、まず神、次に人間、そして世界という順序でかの三要素があげられる。一方、インド的世界では、神、世界、人間が「縦の序列」ではなくて、いわば横に同列に並ぶ。ヒンドゥー教にあっては世界と神、あるいは人間と世界のあいだにキリスト教におけるような断絶は存しないのである。ヒンドゥー教では、神は世界であり、世界は神である。さらに神あるいは宇宙の根本原理ブラフマンと個々の人間の有するアートマン(自己、扮)が本来同一であるというのが古来、インド精神のテーゼであった。すなわち、インドでは神は人間であり、人間は神である。ヒンドゥー教的世界観においては、キリスト教におけるような神と人間との断絶は想定されていない。

本書においては「聖なるもの」を重要な基礎的な概念として用いたい。ほとんどの宗教において人々を畏怖させるかあるいは崇めさせるか、ともかくも威力あるものとして人々を捉える何ものかの存在が認められているが、その何ものかを、ドイツの宗教哲学者R・オットーやルーマニア出身でのちにシカゴ大学教授であった宗教学者M・エリアーデたちは「聖なるもの」と呼んだ。本書においても、オットーやエリアーデの概念の規定の仕方と同一ではないが、基本的にはかの先達たちに倣って「聖なるもの」という概念を用いたい。

ヒンドゥー教徒は、世界に対して神と等しいものとしての「聖なる」価値を与えた。また、それぞれの人間の自己(我)は宇宙の根本原理と本質的には一体のものであるゆえに、人間も「神」に等しく「聖なるもの」であると考えられた。本書では、ヒンドゥー教において世界がいかにして「聖なるもの」としての意味をもつに至ったのか、を考えたい。

ジャンヌ・ダルクは聖女か異端者か

2014年08月24日 | 4.歴史
『フランス人の不思議な頭の中』より ジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルクを巡って争奪戦

 二〇一二年はジャンヌの生誕六百年と大統領選(任期五年、直接選挙、二回投票)が重なったことで、特にジャンヌの話題がメディアを賑わせた。五月にはゆかりの地オルレアンを中心にさまざまな行事が行なわれ、生地ドムレミでも盛大な式典が開催された。パリからアンドレ・ヴァン川トロワ大司教が駆けっけて式典を主宰したほかジャンヌの子孫をはじめロレーヌ大公の子孫で現在はウィーンに住むハプスブール=ロレーヌ大公子らも参列した。一方、フランスの大統領選挙は国民が直接投票して、「われらの大統領」を選出するため、政治行事ではあるものの、五年に一度(二〇〇二年以来、それ以前は大統領の任期は七年)の国民的大祭典でもある。国民の関心はいたって高く、毎回投票率は八〇パーセントを超える。

 その大祭典で再選を狙ったニコラ・サルコジとFN候補者マリーヌ・ルペンの間で、「ジャンヌ・ダルクはわれらの味方」として争奪戦が展開された。サルコジとしては、この輝かしい存在である「ジャンヌ」を国民戦線に一人占めさせる手はないというわけでジャンヌの誕生月の同年一月にはオルレアンに出向き、「フランスの国家元首として本日、この生誕の地でフランスが自由で偉大な国であることに尽くした人物の一人であるジャンヌ・ダルクに厳粛なる賛辞を捧げる」とのジャンヌ賛歌の演説を行なった。さらに五月一日には社会党候補フランソワ・オランドとの七日の決戦投票を前に、「ジャンヌ・ダルクは国民全体の英雄」と宣言し、エッフェル塔を背景にトロカデロ広場で大集会を開き、約十万人の支持者を集めた。トロカデロ広場には一九四八年十二月の国際連合の総会で採択された世界人権宣言の記念碑が設置されているシャイヨー宮があるため、バスチーユ広場やレピュブリック広場と並んで人権関係のデモがしばしば開かれるデモ集合の名所だ。

 サルコジは選挙演説でしばしば、「国民の団結」を導いた人物を列挙したが、この日も共和主義の議員として活躍して文豪ヴィクトル・ユゴー、ナチ・ドイツに占領されたパリからロンドンに亡命し、一九四〇年六月十八日にレジスタンス(対独抵抗運動)の「呼びかけ」を行なったドゴール、そのドゴールの率いるレジスタンスに参加してナチ・ゲシュタポによる拷問で亡くなったジャン・ムーランとともにジャンヌ・ダルクの名を真っ先に挙げた。「ジャンヌを(移民排斥などで)フランスの二分化を望んでいる者たち(国民戦線やその支持者)の手に渡すな」と述べ、ジャンヌ・ダルクを「共和主義者」と位置付けて、フランス共和国の「団結」の象徴とした。

 サルコジがジャンヌ・ダルクの名を引用した背景には、世論調査でのマリーヌールペンの支持率が高く、従来の右派支持者を食いつつあったため、極右の進出を恐れると同時に極右支持者の票の取り込みも狙ったことがあった。その結果、キャンペーン後半のサルコジの演説には極右寄りの発言が目立つようになり、サルコジの出身母体政党、右派政党の国民運動連合(UMP)内からも批判の声が漏れるなど、かえって従来の正統的右派支持者離れを起こし、オランドに敗北した要因の一つにも挙げられた。

時代を映すジャンヌの肖像

 フランス人のジャンヌ・ダルク観は時代の政治的趨勢を敏感に反映してもいる。例えば絵画にはジャンヌが馬で軍旗を掲げて疾駆する姿が描かれることが多いが、この軍旗は時代によって異なる。オルレアンを解放した時のフランス王軍、つまり最初に率いたフランス中部ポワチエの部隊旗を描いたものが目立つが、第一次世界大戦後に描かれた絵画では初の国民総動員となった大戦を反映して国旗・三色旗が多い。

 一方で百年戦争の相手、英国側にあるジャンヌの絵画などには当然ながら「仇敵ジャンヌ」の火刑の場面が多い。特にジャンヌが「聖女」ではなく「普通の女」であることを強調して、炎で着衣が焼かれ、乳房を丸出しにして苦しむ姿を描いた悪趣味なものもある。

 日本では明治維新後にジャンヌ・ダルクが西洋を代表する人物として紹介されることがあった。ジャンヌを国防、愛国の象徴とみなし、当時の富国強兵の政策と一致したからかもしれない。「最も有名なフランス女性」として銅像などもいくつか建てられた。

 フランスでは当然ながらジャンヌ・ダルクの名がさまざまな分野で冠されている。軍人であったところから、日本にも寄航したことのあるフランス海軍の訓練船や軍用ヘリコプターに命名されているほか、勇気があり聡明だった彼女にあやかろうと彼女の名前を冠した公立の中学や高校がいくつかあるほかクリニックやホテルまで存在する。

 ジャンヌ・ダルクに関する著作は「無数」と言われているが、文学作品としての唱矢はフランソワ・ド・ビヨンが一五五五年に発表した作品とされる。ヴォルテールの詩とシラーの『オルレアンの乙女』も名高い。シェークスピアも『ヘンリー六世』の中で取り上げているほかバナード・ショーの『聖ジャンヌ』など仇敵英国人の作品もある。米国のマーク・トウェーンもほかの筆名でフィクションの形で彼女の伝記を書いている。

 かように国際的にも人気のあるジャンヌ・ダルクだが、「乙女」だったのかどうかの疑問や、年齢に関してもナゾが多い。当時は婚約を二十歳で行なうのが慣例だったので、十七歳で故郷を出発し、処女のまま十九歳で死去したとするなど年齢に関するナゾもある。最大の謎は、宗教裁判でも問題視された「神の声」を聴いたとの主張だが、貧農なので当時、流行っていた肺結核による「幻聴」ではないかなどの指摘もされている。しかし、いずれにせよ、大半のフランス人にとってジャンヌは「われらの国母、聖女」という点で一致している。

子どもを勇気づけよう

2014年08月24日 | 1.私
『子育てのためのアドラー心理学入門』より 子どもを勇気づけよう

勇気づけ

 学校から帰った後、寝たきりの祖母の介護をする小学生に親は何といえばよかったのでしょうか? また、カウンセリングの間おとなしく待っていた子どもに親は何といえばよかったのでしょうか? 何もいわないという答えは今は除外します。何か必ず声をかけてほしいのです。このような問いをカウンセリングなどで親に投げかけると、親は、大抵、考えが浮かびません。しかし、育児や教育の場面では、いつも待ったなしですから、どんな声をかけようかと思っているうちに、子どもに声をかけるタイミングを逸してしまいます。子どもに声をかけても、その言葉が子どもには少しも嬉しくないということも往々にしてあります。「えらいね」「おりこうさん」が適当ではないことは、同じ言葉を同じ状況で大人にすればおかしいと感じることから明らかです。しかし、大人と子どもでは話が違うという人には、そうではない、大人とも子どもとも対等の関係でつきあってほしい、といいたいのです。

 そこでこのような場合には、「ありがとう」「たすかった」などということを提案します。「ありがとう」はほめ言葉ではありません。ほめ言葉が能力がある人がそうでない人に向かって上から下に発せられる評価であるのに対して、「ありがとう」は相手の貢献に注目する言葉です。あなたのおかげで昼間、安心して外に働きに行くことができた、あなたが、カウンセリングの間、静かにしていてくれたので、ゆっくりと話ができた、こんなふうに相手が貢献したことを伝えたいのです。

 自分が誰の役にも立っていないと思うことは怖いことです。子どもが注目されたいと思うのは、せめて無視されたくないと考えるからです。それなのに、親から思うような注目を得られなければ、最初は親がイライラするような、後には、本気で腹が立つようなことをしてまで親からの注目を得 また、先に、ここにいてもいいと感じることは、人の基本的な欲求であることを見ました。その意昧での所属感を得たいと誰もが思いますが、親から注目を得ることは、所属感を得るための方法としては適切ではありません。適切な行動では注目されないと思い、無視されるくらいならせめて叱られてでも、親から注目され、そのような形で家庭に所属しようとする子どもがいます。もちろん、叱られることを子どもが望んでいるとは思いません。親としては子どもにそんなことをしなくても、ここにいてもいいのだということを教えたいのです。「ありがとう」という言葉をかけることの一つのねらいはここにあります。

 私がここで「ありがとう」という言葉をかけるという時、それは叱ったり、ほめることとは違って、「勇気づける」ことです。そのことの意味は少しずつこれから考えていきますが、勇気づけるということのねらいの一つは、叱られるようなことをしてまで注目されようとしなくても、他の人に貢献することで、ここに、例えば、家庭や学校の中に居場所があると感じてほしいということです。

勇気づけのねらい

 ここで何のために子どもを勇気づけるのかという確認をしておきたいと思います。というのも、勇気づけを「ありがとう」ということだというふうに理解した人は、ほとんどほめ言葉と同じような感覚でこの言葉を使うということがあるからです。実際、子どもの方も、親が「ありがとう」といい忘れたら、こんな時はありがとうというのではなかったか、とありがとうということを親に強要します。明らかに親の方にもいわば下心があって、子どもが次の機会も適切な行動をしてくれるようにと思ってありがとう、助かった、といっているのです。子どもの立場ではありがとうといわれたら嬉しいでしょうが、たとえありがとうといわれなくても適切な行動ができる子どもになってほしいのですが、ここでは親の方が勇気づけについて誤解することがないように、勇気づけが何のために、何を目標としてされるものなのかということを見ておきましょう。

 端的にいうと次のようになります。子どもたちは生きていくに当たって、人生の様々な課題に直面することを回避することはできません。勇気づけは、子どもが人生の課題を解決しうるという自信を持てるように援助することです。

 そのような援助ができるために親ができることはたくさんありますが、今しがた見たように、貢献に注目することで、他者に貢献できる自分を好きになることができ、そのことで得られた自信を提子にして、自分が解決していかなければならない課題を解決するべく、そこから逃げないで立ち向かうことができるようになるのです(この点については後にさらに詳しく見ます)。

 このような注意をすると、親にとってはいささか難しく感じられる「ありがとう」も子どもたちは的確に学びます。親がとにもかくにも勇気づけの言葉を使っていると、子どもは自然に真似るようになります。親にありがとうを強調するのは理解が十分ではないからですが、しかし、少なくともモデルがあればこそ、子どもがこのような言葉を使うようになるのだと思います。子どもたちは、そのうち大人よりも上手に勇気づけの言葉をかけるようになります。たとえ、そのモデルが不完全であったとしてもです。

 私が勇気づけについて学んだ時、息子はもうすぐ三歳になろうとしていました。ですから、息子はそれ以前には「ありがとう」という言葉を発したことがなかったように思います。ところが、娘は一歳になって保育園に入って間もない頃、ある日、いつものように保育園に着き、自転車から降ろそうとした時に「あーがとー」といいました。一瞬耳を疑いましたが、「ありがとう」といっていることはすぐ理解できました。