『戦いの世界史』より
人間が、道具や狩猟用の武器をお互い同士に向けることを初めて覚えたのはいつなのか、今となっては判然としない。ある風土に固有のいくさのあり方は、現代までも残っている、原始的なひとびとにおける部族間関係の特徴の一つである。ただし、こうした戦争は、目的があいまいで、その遂行にあっても、ほとんど人命が失われることがないのが注目される。ところが、およそ五千年の昔、世界の肥沃な地域のあちこちで、人類は時を同じくして、金属器を製作し、記号を書いて連絡を取り、自分たちの土地を協同して耕すことを覚えていった。こうした場所で、戦争の性質に機能的な変化が生じた。共通の指導者に従う、統一された武装集団が出現し、組織され、目的にかなった方式で戦うことをはじめたのである。
このような最初期の武装者は、徒歩で移動する戦士、つまり今日われわれがいうところの「歩兵」だった。彼らは、棍棒や槍、短剣で武装していたが、あわせて短射程の飛び道具、投槍、投石器、短弓も携えていた。こうした武器を以て、初期エジプト、シュメール、アッシリアの農民や都市民兵は、自らの潅漑地を守り、拡張していった。もっとも、そのころの軍隊は、必要に応じて招集される臨時的な存在で、その行動範囲も小さかった。というのは、長期の征服行が可能になるほどには、輸送・補給の手段が発達していなかったからだ。
しかし、紀元前二〇〇〇年ごろ、戦争は、第二の革命を迎えた。人類に強力な武器を与えた金属器の登場という革命と同じぐらい重要で、しかも、はるかに劇的なものだ。中央アジアに広がる大草原地帯南端のどこかで、馬が家畜として飼い馴らされたのである。もともと運搬用の馬は、騎乗できるほど強健ではなく、軍事的には単に補助的な役割を果たすのみだった。だが、技術的な実験の積み重ねにより、紀元前一七〇〇年ごろ、馬のあるじたちにチャリオットが与えられた。それは、馬が野外で牽引できるほど軽く、かつ不整地を突撃する際の圧力や負担に耐えられるぐらい頑丈だった。加えて、チャリオットは、乗り手が飛び道具をあやつることを可能とする安定性を有しており、その所有者に、徒歩で戦う敵に対しては、ほぼ無敵の力を授けてくれたのだ。チャリオット乗りは、それこそ向かうところ敵なしであったから、紀元前一七〇〇年ごろ以降、ごく短期間で、さまざまな「チャリオット帝国」が、ナイル川の渓谷、メソポタミア、ペルシア、北インド、中国北部、西ヨーロッパといった地域、ステップ地帯心臓部の、気候が穏やかな周縁部全域にわたって築かれた。
だが、チャリオット帝国は短命であることが、あきらかとなった。それらの帝国が基盤としていたテクノロジーは、利用可能だった稀少金属や技能者を、あまりにも過剰な割合で使ってしまう。その戦士階級のためだけに、他の階級を圧して費消するのだ。ゆえに、諸帝国の戦士階級は、彼らが統治する民衆に対し、貴族支配をほどこす少数派という存在にならざるを得なかった。さらに、紀元前一〇○○年ごろ、鉄器と鉄製武器が伝わり、豊富に出回るようになると、世界の肥沃な地域に暮らす農民や都市民が、再び軍事力の担い手となった。この鉄器革命がうみだした戦士の集団により、エジプト、アッシリア、中国において、伝統的な農耕帝国が復活する。当初、そうした帝国の軍事的な力は、それらの国々が展開できる徒歩兵の軍勢に拠っていた。けれども、紀元前九〇〇年あたりで、新しい種類の戦士が姿を現す。第四の軍事革命、すなわち馬を乗り物とすることによって、力を得たものたちであった。
おそらくは、優れた牝馬から種馬を選び、品種改良を加えるということが、この「騎兵革命」の下地になっている。が、ステップ地帯の遊牧民が飼っていた初期の乗馬用の馬は、背骨が充分に強くはないため、その騎手も、戦場を制圧することを可能とするような突進力を得られなかった。けれども、そうした草原の小型馬が、紀元前六〇〇年から紀元一五〇〇年にわたり、文明世界に対して行われた無数の騎馬軍の遠征において、その主人を運んでいったのである。これらの馬は、しょせん弓手を運ぶ、動く射台にすぎなかったのだが、ステップの民はまさにその弓矢のわざに熟達していたのだった。さて、軍事的にはるかに重要性があるのは、紀元前六〇〇年以後にペルシア帝国の武人たちが発達させた「大型馬」の登場だった。それらは甲冑を身につけて戦列に参じる男を背に負えるぐらい大きく、強壮だったため、その力は、ペルシア帝国の全盛期を通じて、権力の土台となった。さらに、大型馬は、アレクサンドロス大王と彼に従う「王の仲間たち」に、ペルシア皇帝の領地を征服する手段を与えた。また、アレクサンドロスが遺した帝国が、ローマに抗して、長期間にわたり存続することを可能とした。
人間が、道具や狩猟用の武器をお互い同士に向けることを初めて覚えたのはいつなのか、今となっては判然としない。ある風土に固有のいくさのあり方は、現代までも残っている、原始的なひとびとにおける部族間関係の特徴の一つである。ただし、こうした戦争は、目的があいまいで、その遂行にあっても、ほとんど人命が失われることがないのが注目される。ところが、およそ五千年の昔、世界の肥沃な地域のあちこちで、人類は時を同じくして、金属器を製作し、記号を書いて連絡を取り、自分たちの土地を協同して耕すことを覚えていった。こうした場所で、戦争の性質に機能的な変化が生じた。共通の指導者に従う、統一された武装集団が出現し、組織され、目的にかなった方式で戦うことをはじめたのである。
このような最初期の武装者は、徒歩で移動する戦士、つまり今日われわれがいうところの「歩兵」だった。彼らは、棍棒や槍、短剣で武装していたが、あわせて短射程の飛び道具、投槍、投石器、短弓も携えていた。こうした武器を以て、初期エジプト、シュメール、アッシリアの農民や都市民兵は、自らの潅漑地を守り、拡張していった。もっとも、そのころの軍隊は、必要に応じて招集される臨時的な存在で、その行動範囲も小さかった。というのは、長期の征服行が可能になるほどには、輸送・補給の手段が発達していなかったからだ。
しかし、紀元前二〇〇〇年ごろ、戦争は、第二の革命を迎えた。人類に強力な武器を与えた金属器の登場という革命と同じぐらい重要で、しかも、はるかに劇的なものだ。中央アジアに広がる大草原地帯南端のどこかで、馬が家畜として飼い馴らされたのである。もともと運搬用の馬は、騎乗できるほど強健ではなく、軍事的には単に補助的な役割を果たすのみだった。だが、技術的な実験の積み重ねにより、紀元前一七〇〇年ごろ、馬のあるじたちにチャリオットが与えられた。それは、馬が野外で牽引できるほど軽く、かつ不整地を突撃する際の圧力や負担に耐えられるぐらい頑丈だった。加えて、チャリオットは、乗り手が飛び道具をあやつることを可能とする安定性を有しており、その所有者に、徒歩で戦う敵に対しては、ほぼ無敵の力を授けてくれたのだ。チャリオット乗りは、それこそ向かうところ敵なしであったから、紀元前一七〇〇年ごろ以降、ごく短期間で、さまざまな「チャリオット帝国」が、ナイル川の渓谷、メソポタミア、ペルシア、北インド、中国北部、西ヨーロッパといった地域、ステップ地帯心臓部の、気候が穏やかな周縁部全域にわたって築かれた。
だが、チャリオット帝国は短命であることが、あきらかとなった。それらの帝国が基盤としていたテクノロジーは、利用可能だった稀少金属や技能者を、あまりにも過剰な割合で使ってしまう。その戦士階級のためだけに、他の階級を圧して費消するのだ。ゆえに、諸帝国の戦士階級は、彼らが統治する民衆に対し、貴族支配をほどこす少数派という存在にならざるを得なかった。さらに、紀元前一〇○○年ごろ、鉄器と鉄製武器が伝わり、豊富に出回るようになると、世界の肥沃な地域に暮らす農民や都市民が、再び軍事力の担い手となった。この鉄器革命がうみだした戦士の集団により、エジプト、アッシリア、中国において、伝統的な農耕帝国が復活する。当初、そうした帝国の軍事的な力は、それらの国々が展開できる徒歩兵の軍勢に拠っていた。けれども、紀元前九〇〇年あたりで、新しい種類の戦士が姿を現す。第四の軍事革命、すなわち馬を乗り物とすることによって、力を得たものたちであった。
おそらくは、優れた牝馬から種馬を選び、品種改良を加えるということが、この「騎兵革命」の下地になっている。が、ステップ地帯の遊牧民が飼っていた初期の乗馬用の馬は、背骨が充分に強くはないため、その騎手も、戦場を制圧することを可能とするような突進力を得られなかった。けれども、そうした草原の小型馬が、紀元前六〇〇年から紀元一五〇〇年にわたり、文明世界に対して行われた無数の騎馬軍の遠征において、その主人を運んでいったのである。これらの馬は、しょせん弓手を運ぶ、動く射台にすぎなかったのだが、ステップの民はまさにその弓矢のわざに熟達していたのだった。さて、軍事的にはるかに重要性があるのは、紀元前六〇〇年以後にペルシア帝国の武人たちが発達させた「大型馬」の登場だった。それらは甲冑を身につけて戦列に参じる男を背に負えるぐらい大きく、強壮だったため、その力は、ペルシア帝国の全盛期を通じて、権力の土台となった。さらに、大型馬は、アレクサンドロス大王と彼に従う「王の仲間たち」に、ペルシア皇帝の領地を征服する手段を与えた。また、アレクサンドロスが遺した帝国が、ローマに抗して、長期間にわたり存続することを可能とした。