未唯への手紙

未唯への手紙

戦いの世界史 戦争の革命

2014年08月10日 | 4.歴史
『戦いの世界史』より

人間が、道具や狩猟用の武器をお互い同士に向けることを初めて覚えたのはいつなのか、今となっては判然としない。ある風土に固有のいくさのあり方は、現代までも残っている、原始的なひとびとにおける部族間関係の特徴の一つである。ただし、こうした戦争は、目的があいまいで、その遂行にあっても、ほとんど人命が失われることがないのが注目される。ところが、およそ五千年の昔、世界の肥沃な地域のあちこちで、人類は時を同じくして、金属器を製作し、記号を書いて連絡を取り、自分たちの土地を協同して耕すことを覚えていった。こうした場所で、戦争の性質に機能的な変化が生じた。共通の指導者に従う、統一された武装集団が出現し、組織され、目的にかなった方式で戦うことをはじめたのである。

このような最初期の武装者は、徒歩で移動する戦士、つまり今日われわれがいうところの「歩兵」だった。彼らは、棍棒や槍、短剣で武装していたが、あわせて短射程の飛び道具、投槍、投石器、短弓も携えていた。こうした武器を以て、初期エジプト、シュメール、アッシリアの農民や都市民兵は、自らの潅漑地を守り、拡張していった。もっとも、そのころの軍隊は、必要に応じて招集される臨時的な存在で、その行動範囲も小さかった。というのは、長期の征服行が可能になるほどには、輸送・補給の手段が発達していなかったからだ。

しかし、紀元前二〇〇〇年ごろ、戦争は、第二の革命を迎えた。人類に強力な武器を与えた金属器の登場という革命と同じぐらい重要で、しかも、はるかに劇的なものだ。中央アジアに広がる大草原地帯南端のどこかで、馬が家畜として飼い馴らされたのである。もともと運搬用の馬は、騎乗できるほど強健ではなく、軍事的には単に補助的な役割を果たすのみだった。だが、技術的な実験の積み重ねにより、紀元前一七〇〇年ごろ、馬のあるじたちにチャリオットが与えられた。それは、馬が野外で牽引できるほど軽く、かつ不整地を突撃する際の圧力や負担に耐えられるぐらい頑丈だった。加えて、チャリオットは、乗り手が飛び道具をあやつることを可能とする安定性を有しており、その所有者に、徒歩で戦う敵に対しては、ほぼ無敵の力を授けてくれたのだ。チャリオット乗りは、それこそ向かうところ敵なしであったから、紀元前一七〇〇年ごろ以降、ごく短期間で、さまざまな「チャリオット帝国」が、ナイル川の渓谷、メソポタミア、ペルシア、北インド、中国北部、西ヨーロッパといった地域、ステップ地帯心臓部の、気候が穏やかな周縁部全域にわたって築かれた。

だが、チャリオット帝国は短命であることが、あきらかとなった。それらの帝国が基盤としていたテクノロジーは、利用可能だった稀少金属や技能者を、あまりにも過剰な割合で使ってしまう。その戦士階級のためだけに、他の階級を圧して費消するのだ。ゆえに、諸帝国の戦士階級は、彼らが統治する民衆に対し、貴族支配をほどこす少数派という存在にならざるを得なかった。さらに、紀元前一〇○○年ごろ、鉄器と鉄製武器が伝わり、豊富に出回るようになると、世界の肥沃な地域に暮らす農民や都市民が、再び軍事力の担い手となった。この鉄器革命がうみだした戦士の集団により、エジプト、アッシリア、中国において、伝統的な農耕帝国が復活する。当初、そうした帝国の軍事的な力は、それらの国々が展開できる徒歩兵の軍勢に拠っていた。けれども、紀元前九〇〇年あたりで、新しい種類の戦士が姿を現す。第四の軍事革命、すなわち馬を乗り物とすることによって、力を得たものたちであった。

おそらくは、優れた牝馬から種馬を選び、品種改良を加えるということが、この「騎兵革命」の下地になっている。が、ステップ地帯の遊牧民が飼っていた初期の乗馬用の馬は、背骨が充分に強くはないため、その騎手も、戦場を制圧することを可能とするような突進力を得られなかった。けれども、そうした草原の小型馬が、紀元前六〇〇年から紀元一五〇〇年にわたり、文明世界に対して行われた無数の騎馬軍の遠征において、その主人を運んでいったのである。これらの馬は、しょせん弓手を運ぶ、動く射台にすぎなかったのだが、ステップの民はまさにその弓矢のわざに熟達していたのだった。さて、軍事的にはるかに重要性があるのは、紀元前六〇〇年以後にペルシア帝国の武人たちが発達させた「大型馬」の登場だった。それらは甲冑を身につけて戦列に参じる男を背に負えるぐらい大きく、強壮だったため、その力は、ペルシア帝国の全盛期を通じて、権力の土台となった。さらに、大型馬は、アレクサンドロス大王と彼に従う「王の仲間たち」に、ペルシア皇帝の領地を征服する手段を与えた。また、アレクサンドロスが遺した帝国が、ローマに抗して、長期間にわたり存続することを可能とした。

アーヘン大聖堂 フランク王国建国の地に建つ、登録第一号の世界遺産

2014年08月10日 | 4.歴史
『ドイツ世界遺産全踏破』より カール大帝の遺産 ローマ帝国崩壊後のヨーロッパ--中世についてI

一九七八年の第二回世界遺産委員会で、文化遺産八件と自然遺産四件の計一二件が第一号の世界遺産リストに登録されました。アーヘン大聖堂は、この栄えある第一号の世界遺産リストに登録されています。ヨーロッパで初めて登録された、わずか三つの遺産のうちのひとつです。

アーヘン大聖堂の始まりは、カール大帝が七八六年にフランク王国建国の地アーヘンで建築を始めた王宮礼拝堂の聖マリア教会です。「中世についてI」で触れたとおり、カール大帝は、古代ローマ、ゲルマン民族、キリスト教、それぞれの文化を融合して中世以降のキリスト教ヨーロッパ世界の太祖となった人物で、「ヨーロッパの父」と呼ばれています。

八一四年、カール大帝は七二年の生涯を閉じ、自身が建立した大聖堂に埋葬されました。カール大帝の死後、一〇〇年を経ずしてカロリング朝は断絶しましたが、大帝の遺体はその跡を継いだ歴代王朝の皇帝たちによって護られ、大聖堂の増改築も進められました。

一一六五年にカール大帝が聖人に列せられたときには、赤髭王フリードリヒ一世が中央空間の円蓋に青銅製のシャンデリアを献納しました。また彼は、銀製鍍金に四〇〇個もの宝石を配した「カール大帝の聖遺物箱」を発注しました。聖遺物箱は一二二五年に完成し、フリードリヒ一世の孫のフリードリヒ二世によって、カール大帝の遺骨が納められたといいます。この聖遺物箱は、現在も大聖堂の内陣に安置されています。一四二四年には、カール大帝の没後六〇〇年を記念して、「ガラスの家」と呼ばれる、華やかなガラス窓を有する礼拝堂が建てられました。こうして一〇〇〇年以上の歳月を費やして、古典主義様式、ビザンティン様式、ゲルマン様式、フランク王国様式などのさまざまな様式か混在する、些麗な姿の大聖堂が完成したのです。

古き時代の建造物は、戦や支配者層の交代などによって破壊されたり忘れ去られたりして、歴史の闇に埋没してしまうものも多いのですか、アーヘンの大聖堂は長年にわたって造営されつづけました。さすかは「皇帝の大聖堂」です。

カール大帝亡き後、九三六~一五三一年の約六〇〇年の間にアーヘン大聖堂で戴冠式を執り行った歴代のドイツ国王や神聖ローマ帝国皇帝は三〇人を数えます。アーヘン大聖堂で戴冠式を執り行うということは、カロリング朝の末裔であり、古代ローマ帝国皇帝の衣鉢を継ぐ存在であるというアイデンティティを証明するためにも重要なことだったのです。

アーヘン大聖堂は今も輝きを失っていません。現代に生きる私も、大聖堂の八角形の中央空間にたたずみ、円蓋を見上げれば、ただ息を呑み、カール大帝以降一二〇〇年以上続く歴史に思いをめぐらすことになるのです。

スターリン 国境線の変更とその代償

2014年08月10日 | 4.歴史
『スターリン』より ヒトラーとの戦い

スターリンは、独ソの友好関係を誇示する仕事をモロトフに任せ、戦略的問題に集中した。この時点でのそれは、何よりも国境線の変更にあった。まず対象になったのは、ドイツ軍の攻撃を受けていたポーランドであった。この時期にスターリンは、ポーランドはウクライナ人などの少数民族を抑圧する国家だと断言し、一七日にソ連軍に攻撃を命じた。こうして、独ソ不可侵条約でドイツが占領しないことになっていた西ウクライナと西ベラルーシは、ソ連軍によって「解放」され、やがてソ連に加えられた。そればかりではなかった。九月から一〇月にかけて、ソ連はエストニア、ラトヴィア、リトアニアの三国との間に軍事基地を置く協定を締結した。国境に集結した軍の圧力が物を言ったと見ることができよう。

ソ連指導部はフィンランドに対しても同様の協定を結ぶよう迫った。これにフィンランド政府が抵抗すると、一一月一三日に外交交渉を打ち切り、二六日に宣戦を布告した。フィンランド側からソ連軍に向けて、砲撃があったというのである。このときも、そしてこの後も、フィンランド側がこの事実を否定し続けたのは言うまでもない。この方面に二四万の兵力と一〇〇〇輛の戦車などを配備するソ連側が、一四万の兵力と六〇輛の戦車しか持たないフィンランドを簡単に踏みつぶせると考え、工作したと考えるのが、最も自然な解釈であろう。このときスターリンは、コミンテルンで活躍していたフィンランド人のクーシネン(一八八一~一九六四)を首班とするフィンランド民主共和国を設立し、軍事援助の要請を出させていた。疑いもなく、戦争を正当化するばかりか、勝利した後の後継政権にしようと目論んでいたのである。

しかし、必死に自国を守ろうとするフィンランド軍は、深い雪とカレリア地峡の地の利を活かして幾度もソ連軍を撃退した。この結果、一九四〇年E月一二日に講和条約が締結されるまでに、ソ連軍は二二万から一三万人の死者と二六万四〇〇〇人以上の負傷者を出した(当時、モロトフは演説で四万八〇〇〇人の死者と一五万八〇〇〇人の負傷者を出したと発表した)。フィンランド軍のそれは各々二万三〇〇〇人と四万三〇〇〇人だった。

この戦争でともかくも勝利したソ連は、カレリア地峡全域とハンコ岬、ラドガ湖北部などをフィンランド側に割譲させた。これでレニングラードは見かけ上は安全になった。しかし、この成果が軍事的には無益であったことは、一九四一年に独ソ戦が始まるとすぐに明白になる。これだけの成果を得るためにソ連側が支払ったのは人的損失と軍事面での評判だけではなかった。ソ連は一九三九年一二月一四日に国際連盟から追放されたのである。

それでもスターリンは一九四〇年四月半ばに開かれた会議で、フィンランドとの戦争はレニングラードの安全を確保するために不可避であったと強弁した。あまりに多くの兵士を失ったので、言い訳をせざるをえなかったのである。おそらく軍部の誰一人として、彼の発言をそのまま受けとらなかっただろう。やがて「冬戦争」として知られるようになるこの戦争は、スターリンが生きている間は「忘れられた戦争」になった。

このような失敗を犯しても、スターリンの決意は変わらなかった。彼は六月から八月にかけて、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの三国をソ連に「自発的に」加盟させた。ソ連軍の威圧と、それぞれの国の少数の共産主義者の示威行動がこの動きの背後にあった。ほぼ同時に、ソ連は長くルーマニアと係争していたべッサラビアと北ブコヴィナも併合した。これらは第二次大戦後のソ連の膨張を予告するものだった。

カンブリア紀に出現した生物群の多くは後に多様化した

2014年08月10日 | 4.歴史
『大学生物学の教科書』より 地球上における生命の歴史 地球の歴史において生じたできごとは時期を推定できる 地球の物理的環境の変化は生命の進化に影響を与えてきた 生命史で生じた主要なできごとは化石記録から読み解くことができる

地質学ではカンプリア紀以降の古生代をオルドビス紀、シルル紀、アボン紀、石炭紀、ペルム紀にわける。各紀は特定の生物群の多様化で特徴付けられている。オルドビス紀、デボン紀、ベルム紀の終末は大絶滅によって区切りがつけられた。

オルドビス紀(4.88億~4.44億年前)オルドビス紀のあいだ、主に南半球に位置していた大陸群には、まだ多細胞の植物は存在していなかった。オルドビス紀初期には海産生物の放散進化は劇的であり、特に動物においては、腕足動物と軟体動物という海底に住んでいて水から小さな獲物をこす生物が繁栄した。オルドビス紀の終わりごろには、南方の大陸に巨大な氷河が形成され、海水面が50mほど低下し、海洋の温度も低下した。おそらくこれらの主要な環境変化により、全動物種のおよそ75%が絶滅した。

シルル紀(4.44億~4.16億年前)シルル紀のあいだ、大陸はまとまり始めた。海洋中の生命はオルドビス紀末の大量絶滅から回復をとげた。開放的な水中で泳ぎ、海洋底の上で食物を見つけることができる動物がはじめて現れた。無顎魚類が多様化し、鰭にそれを支持する条を持つ最初の魚類が進化した。熱帯の海は陸にさえぎられることがなく、ほとんどの海産生物が広く分布した。陸上では、シルル紀の終わり(およそ4.2億年前)に最初の維管束植物が進化した。最初の陸上節足動物--サソリ類とムカデ類--が同じころに進化した。

デボン紀(4.16億~3.59億年前)デボン紀には、多くの生物群において進化的変化の速度が上昇した。主要な陸塊はたがいにゆっくりと集まりつつあった。大洋では、サンゴ類と殻を持つイカに似た頭足類の軟体動物が巨大な放散進化をした。魚類では有顎類が無顎類と置き換わり、骨性の甲冑が現代の魚類が持つより柔軟な鱗にとってかわられた。

陸上の生物界はデボン紀のあいだに劇的に変化した。ヒゲノカズラ類、トクサ類、木本性シダ類が一般的になり、あるものは巨木の大きさとなった。それらの根は岩石の破砕を促し、最初の森林土壌の発展をもたらした。最初の種子植物はデボン紀のあいだに誕生した。最初の化石ムカデ類、クモ類、ダニ類、昆虫類、さらには陸生の両生類はデボン紀に登場した。

すべての海生生物の75%の大量絶滅がデボン紀の終末となった。その理由についてはっきりとは突き止められていないが、2個の巨大な限石がそのころ地球に(1つは現在のネバダ州に、もう1つは西オーストラリアに)衝突しているので、それらが主たる理由であるのか、あるいは少なくとも原因の1つだったかもしれないと古生物学者は考えている。大陸が引き続き融合していき、大陸棚が減少していったこともこの大量絶滅にかかわったかもしれない。

石炭紀(3.59億~2.97億年前)石炭紀には、南の陸塊の高地帯に大きな氷河が形成されたが、熱帯地方の大陸には湖沼林が多数生育した。これらの森林にはもっぱら木本性シダ類や小さな葉のトクサ類が生えていた。これらが化石化して現在エネルギー源として鉱山から掘り出される石炭が生成された。海では、ウミユリ類が多楡匪の頂点に達し、海底に「草地」を形成した。

石炭紀のあいだに、陸上動物の多様性は大きく高まった。カタツムリ、サソリ、ムカデ、昆虫が多様かつ豊富に存在した。昆虫は羽が進化し、飛翔する最初の動物となった。飛翔能力によって、草食性の昆虫は高い木に簡単に近づくことができるよ引こなった。この時期の植物化石からは、昆虫に噛まれた証拠が見つかっている。陸上の脊椎動物は2つの系統にわかれた。両生類は巨大化し、陸上生活に適応していった。一方その姉妹群は、乾燥した地域にも産むことができる、よく保護された卵を持つ羊膜類となった。

ぺルム紀(2.97億~2.51億年前)ペルム紀のあいだ、大陸前はパングアとして知られる単一の超大陸に合一した。ペルム紀の岩石には、今日我々が知っている昆虫の主要なグループの咎くを代表する化石が含まれている。この紀の終末までには、い膜類は㈹虫類といずれ哺乳類となる2系統に分岐した。条鰭魚類はパングア内の淡水域でよく見られるようになった。

ペルム紀の終末に近づくにつれて、生活条件は悪化していった。大規模な火山の噴火により、地球の多くの地域で溶岩が噴出した。火山から噴出した灰やガスは太陽光をさえぎり、気候が寒冷化し、地球の歴史において最大の氷河が形成された。大気中の酸素濃度は30%から15%へゆっくりと低下していった。そのような低濃度では、高度500m以上ではたいていの動物は生存することができなかった。したがってペルム紀の終わりには、陸地の半分は動物が生息していなかったと考えられている。これらの変化が組み合わされて、地球の歴史においてもっとも劇的な大量絶滅が生じた。科学者は全多細胞生物種のうち約96%がペルム紀末に絶滅したと推定している。

岡崎市図書館と豊田市図書館で17冊

2014年08月10日 | 6.本
岡崎市図書館の10冊

 209.7『第一次世界大戦 3 精神の変容』

 209.7『第一次世界大戦 4 遺産』

 070.1『報道記者の原点』記者入門ガイド

 141.6『なつかしさの心理学』思い出と感情

 104『境界の現象学』始原の海から流体の存在論へ

 295.3『アラスカに行きたい』

 336『トヨタのPDCA』新人OLひなたと学ぶ どんな会社でも評価される

 336.3『独裁力』ビジネスパーソンのための権力学入門

 331『インフォメーション・エコノミー』情報化する経済社会の全体像

 210.7『明と暗のノモンハン戦史』

豊田市図書館の追加の7冊

 238.95『デンマークという国を創った人びと』“信頼”の国はどのようにして生まれたのか

 210.75『もうひとつの「永遠の0」』筑波海軍航空隊--散華した特攻隊員たちの遺言--

 336.1『事業計画書』自分でパパッとできる プロがつくった7つの事業計画書+α! 役立つシート99枚

 367.1『ジェンダー論をつかむ』

 295.39『カリフォルニア・オーガニックトリップ』サンフランシスコ&ワインカントリーのスローライフへ!

 335.21『F・E・D社員を大切にしなさい』会社を元気にしたければ F女性・E高齢者・D障がい者

 367.21『「女子」の誕生』

 234.6『ウィーン』[栄光・黄昏・亡命]