第1章の大項目の見直し
自分のことは第1章にまとめています。まず、存在と無から始まっている。自分が居るのに、宇宙から見たら無であること。これは自分中心であると同時に、宇宙中心が一緒になっている。数学でいうと、0と1が一緒になっている状態です。
この違和感を埋めるために考えることを始めた。存在にとっても、考えることで、その二つが結びつく。その心もとさです。他者は関係ないです。自分と宇宙との関係です。
考えることによって、自分に与えられたものは、夢というものとそれを成し遂げるための時間です。それらはすべて、考えることから出てくる。それによって、自分の存在を確かめる。その上で、外なる世界として、社会の構造を見ている。
内なる世界と未唯空間
その社会の主役は自分でないから、自由にハンドリングできない。自分の内なる世界に社会を取り込んで、自分が主役になる。その世界に全ての社会を巻き込むために、未唯空間を作り出した。そうすると社会がどうなるか。つまり、位相化していくことが見えてきた。
そして、全てを知ること、考えること、そして、問われたことに応えること。これで第1章の大項目の見直しは終われます。
このシナリオで大きいのは、数学という考えるためのベース、そして、池田晶子さんの宇宙の旅人です。宇宙とつながることができた。存在と無に対する答が用意された。
世の中へ拡げること
この考え方を世の中に拡げるつもりはありません。宗教家はなぜ、拡げようとするのかよく分かりません。最大のポイントは私にとって、他者が存在していない。それが故に拡げる相手が存在しない。他者から何を言われようとも、何も感じない。あくまでも自分の問題です。そして、自分が宇宙そのものです。
多分、ウィットゲンシュタインが問題にしているのは、この辺なんでしょう。それで完結してしまう。真理が存在しないじゃないか、そんなことを彼は言いたいのでしょう。
それならば、なぜ、社会に関与するのか。どうでもいい社会じゃないですか。それもマルチバースの偶々の地球じゃないですか。食うためならば、大いなる意思の力を使えば、いくらでも成り立ちます。
ちゃんと回ってきたものを捉えればいいだけのことです。偶然が自分の所にあるのだから。同時に周りのモノは自分を気づかされるためにあるという感覚を持てば、どんな状況でも考える元になります。考えるのは存在することです。
中学の時に、他者がいないと思った時、全ての人間は仮想であるか、自分であるかと思った時、初恋の女性だけは別な存在だと確信した。それが絶対的な存在のはじまりでした。そこから、社会との接点にしていくことにした。
自分のことは第1章にまとめています。まず、存在と無から始まっている。自分が居るのに、宇宙から見たら無であること。これは自分中心であると同時に、宇宙中心が一緒になっている。数学でいうと、0と1が一緒になっている状態です。
この違和感を埋めるために考えることを始めた。存在にとっても、考えることで、その二つが結びつく。その心もとさです。他者は関係ないです。自分と宇宙との関係です。
考えることによって、自分に与えられたものは、夢というものとそれを成し遂げるための時間です。それらはすべて、考えることから出てくる。それによって、自分の存在を確かめる。その上で、外なる世界として、社会の構造を見ている。
内なる世界と未唯空間
その社会の主役は自分でないから、自由にハンドリングできない。自分の内なる世界に社会を取り込んで、自分が主役になる。その世界に全ての社会を巻き込むために、未唯空間を作り出した。そうすると社会がどうなるか。つまり、位相化していくことが見えてきた。
そして、全てを知ること、考えること、そして、問われたことに応えること。これで第1章の大項目の見直しは終われます。
このシナリオで大きいのは、数学という考えるためのベース、そして、池田晶子さんの宇宙の旅人です。宇宙とつながることができた。存在と無に対する答が用意された。
世の中へ拡げること
この考え方を世の中に拡げるつもりはありません。宗教家はなぜ、拡げようとするのかよく分かりません。最大のポイントは私にとって、他者が存在していない。それが故に拡げる相手が存在しない。他者から何を言われようとも、何も感じない。あくまでも自分の問題です。そして、自分が宇宙そのものです。
多分、ウィットゲンシュタインが問題にしているのは、この辺なんでしょう。それで完結してしまう。真理が存在しないじゃないか、そんなことを彼は言いたいのでしょう。
それならば、なぜ、社会に関与するのか。どうでもいい社会じゃないですか。それもマルチバースの偶々の地球じゃないですか。食うためならば、大いなる意思の力を使えば、いくらでも成り立ちます。
ちゃんと回ってきたものを捉えればいいだけのことです。偶然が自分の所にあるのだから。同時に周りのモノは自分を気づかされるためにあるという感覚を持てば、どんな状況でも考える元になります。考えるのは存在することです。
中学の時に、他者がいないと思った時、全ての人間は仮想であるか、自分であるかと思った時、初恋の女性だけは別な存在だと確信した。それが絶対的な存在のはじまりでした。そこから、社会との接点にしていくことにした。