ヨハネの福音書 20章19−31節
ようやく天候が落ち着いてきました。久しぶりに空を縦横に描くかのような飛行機雲を見ました。
ここには、イエスが復活された日曜日の夕方のことと、次の日曜日のこととが書かれています。日曜日の朝、ペテロと「もう一人の弟子」は、イエスのからだが納められた墓に行き、「見て、信じ」ました。けれども、それがすぐに彼らの、そして他の弟子たちの喜びにはつながりませんでした。彼らは、その日の夕方まで「ユダヤ人を恐れて戸をしめて」いたのです。
そこに、「平安があなたがたにあるように」とのことばとともに、イエスが彼らの中にお立ちになりました。この時イエスは、傷ついたご自分の手とわき腹を弟子たちに示したあとで、もう一度「平安があなたがたにあるように」と言われました。さらに八日、イエスがよみがえられたことを信じないトマスのために主は現われてくださり、この時も「平安があなたがたにあるように」と声をかけてくださったのです。
「平安があなたがたにあるように」とは、ユダヤの人々がよく交わし合うあいさつだと言われています。しかし、イエスがここで彼らに声をかけられたのは、単なるあいさつを越えたものではなかったのかと、考えるのです。
思い起こすのは、もうすぐ弟子たちのところからご自分がいなくなると話されたとき、動揺する彼らにイエスは、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」と話されました。⇒14章27節
トマスは「疑い深いトマス」などと見られがちですが、自分は見ていないから信じないと彼が言ったことによって、イエスからのすばらしいことばを私たちも耳にすることができたのだと考えることもできます。
ところで、「私たちは主を見た」と喜ぶ弟子たちと、「見ないから信じない」というトマスとは、どのような一週間を過ごしたのだろうかとも、想像してしまいます。彼らはどのようなことばを交わし合ったのでしょう。