みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わたしの羊、わたしの牧者

2017年10月27日 | エゼキエル書

エゼキエル書 34章1−16節

 聖書を読む会におじゃましたお宅には、日本語の本がずらりと並んでいました。その中に、私たちが親しんで来た絵本など子どもの本をいくつも見つけて、嬉しくなってしまいました。「いやいやえん」「ぐりとぐら」「おかえし」「あおくんときいろちゃん」「自然図鑑」「冒険図鑑」「アンデルセン童話」「グリム童話」ローラ・インガルスのシリーズ…。家で、幼稚園で、読み聞かせをしていた頃の子どもたちの表情が浮かんできました。故国を離れた場所に、こんなにもたくさんの日本語の本があるということに感動、です。

 聖書には、羊飼い(牧者)と羊があちこちに出てきます。詩篇23篇は「主は私の羊飼い」と始まり、ルカの福音書15章4—7節には「一匹のいなくなった羊を見つかるまで探す羊飼い」のことが出てきます。そして、イエスはご自分を「わたしは良い牧者です」と言っておられます。

 この箇所には、まず羊を散らす悪い牧者のことが出てきます。2節の「イスラエルの牧者たち」とは、イスラエルの政治的、宗教的な指導者たちのことを指しています。羊を養うはずの牧者たちが、羊そっちのけで自分を養っている姿が描かれています。結果として、羊たちはのの獣のえじきとなって散らされてしまいます。「散らされてしまった」ということばとバビロンへの捕囚が重なって響きます。

 主は、これらの牧者たちが羊を飼うのをやめさせ、代わりにご自分が牧者として羊を飼うのだと宣言しておられます。

 この箇所には「わたしの羊」「わたしの牧者」ということばが何度も出てきます。「みことばの光」が書くように、よみがえられた主イエスがガリラヤ湖のほとりでペテロに「わたしの羊を飼いなさい」とお招きになったことばを思い起こします。まことの牧者なるキリストの羊たちは、今で言えば教会です。「わたしの羊」「わたしの牧者」ということばの繰り返しは、導く側も導かれる側も互いに自分のものではないのだと覚え続ける必要があることに気づきます。

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