みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わからないが

2017年10月11日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 20章1−10節

 火曜日と水曜日、アパートのボイラーの交換作業のために暖房がストップ。お湯も出ません。昨日の最高気温は15度。お借りしたヒーターが活躍。とても助かっています。

 ここには、イエスの復活が記されています。イエスは私たちの罪のために十字架で死に、そして復活されました。それは、イエスを信じる者にも復活の確かな望みが与えられているということでもあります。礼拝で唱える使徒信条の「三日ののちに死人の内よりよみがえり」ということば、「身体のよみがえり、とこしえのいのちを信ず」ということばが響いてきます。

 ヨハネの福音書は、復活の朝の出来事を描くのに、マグダラのマリヤとペテロ、そして「もう一人の弟子」(福音書記者であるヨハネ)に焦点を絞ります。その朝、墓のところに来たのはマグダラのマリヤだけではありませんでしたが、彼女一人を描くのです。マリヤはかつてイエスによって七つの悪霊を追い出してもらいました。彼女は破滅状態から救われたのです。彼女の喜び、感謝がどれほどのものだったは、以来ずっとイエスに付き従ってきたことからもわかります。多くを受けた彼女は、多く愛したのです。そして彼女は、復活したイエスに最初に会うのです。信仰の基本は「私とイエス」という一対一にあります。

 墓に急ぎ、中を確認するペテロのヨハネの姿には、微笑ましささえ覚えます。ヨハネはペテロより速く走ったということは、年齢的には若かったからだろうかとか、それなのになぜ墓の中に入ったのはペテロなのだろうか、などと考えるのです。当たり前のことですが、イエスを信じる者たち一人一人の個性のようなものを、二人の姿は伝えてくれているようです。

 「見て、信じた」と「聖書を、まだ理解していなかった」ということばが並んで出てきます。信じてはいる、けれども知らないことがたくさんあるのだということにも気づかされます。すべてを理解しなければ信じられないとしたら、いつになってもイエスは私の心の外にいつづけるしかないということなのです。


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