みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

きょう

2012年02月23日 | 申命記
申命記26章


 雨の朝を迎えました。
 インフルエンザもこの地方では峠を越えたようですが、暖かくなったらなったで花粉症に悩む人がちらほらでているのではないでしょうか。

 26章には「きょう」ということばが目につきます。
 約束の地でとれたものの初物を主に報告してささげる際に、祭司の所に行き「きょう、あなたの神、主に報告いたします」と言うのです。その後のささげる者のことばは感動的です。主が良くしてくださったことを忘れず、約束の地での初物を主にささげられる喜びにあふれています。
 そして、民への命令(説教)のまとめにあたる部分で、モーセは「きょう」を繰り返します(16-8)。

 「いつか」「また別の機会に」ということばが交わされて何十年も経ってしまったということもあります。その多くは必然性がないものなので、何も動かなくてもそれほど困らないものなのかもしれませんね。
 しかし、どうしても「きょう」でなくてはならないこと、「きょう」でならないものがあります。

 「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(詩篇95篇7、8節)とあります。
 私たちが毎日聖書を読むのは、主の語りかけに「きょう」答えることなのですね。
 先延ばしにしたいと思うときに、実は心が探られているのだと思います。
 
 私はどちらかというと、大切なことを先延ばしにする性質があります。そのような者が毎月、きちんと〆切がある月刊「みことばの光」の編集者をしているなどというのは、あり得ないことなのです。驚きです。
 いや、そのような者だからこそ、主は私を置いてくださったのではないだろうかと、近ごろ考えます。

 そろそろ、7月号の原稿の催促をしなければ…。

 




守らなければならないことが

2012年02月22日 | 申命記
申命記25章


 「みことばの光」を用いての聖書通読では、あたりまえですが旧約聖書をたくさん読みます。劇的な場面は比較的読みやすいのですが、礼拝についての規定とか系図などの箇所を、読み飛ばしたくなったことがあるかと思います。
 今読んでいる申命記は、いろいろなトピックが次々に出てくるので、比較的読みやすいでしょうか。

 旧約聖書を少しでも興味をもって読めるためのヒントを一つ。旧約聖書が引用されている新約聖書を見つけ出して、併せて読むことです。

 「四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない」ということばからは、パウロが「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度」(2コリント11章34節)受けたとの証しを思います。
 「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない」を、パウロは1コリント9章9節や1テモテ5章18節で引用しています。牛のための配慮を命じられている事柄が、新約聖書では人間のために、特に主のために働く人々のために適用していることがわかります。

 犯罪者にも、家畜にも守られなければならないものがあるのです。

 新改訳聖書では、本文下の小さな注意書きに、参照すべき他の聖書箇所がありますので、わずかの手間を惜しまずに開いてみると、広がりと深みのある聖書の学びをすることができます。その後で、「みことばの光」をお読みになるとさらによく理解できると思います。
 おすすめです!



 



だから、…命じる

2012年02月21日 | 申命記
申命記24章


 神が望まれる結婚と弱い人々への配慮、これまでに申命記が伝えてきた神の民がめざす生活でした。

 改めて考えたのは、神が設けられた結婚を壊そうとする力の大きさです。不倫をすることで、結婚前のセックスを「あたりまえ」にしてしまうことで、気に入らないからと離婚することで、…人間は結婚を壊そうとしてきました。結婚の崩壊は家庭の崩壊であり、社会の崩壊につながります。結婚についての神のみこころを大切にしない教会が衰弱していきます。これは、私たちが直面している問題です。

 また、弱い人々を顧みない社会にも将来はありません。この章にも、貧しい人に心をかけるようにとの命令が繰り返されています。たとえば、主は貧しい人に金を貸す者に命じます。ひき臼を質に取るな、担保を取るときには家の前で待て、日没までには担保を返せと…。
 
 心に留めるのはこの章最後のことば。「だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」モーセは民に、自分たちがエジプトで奴隷であったことを思い出せと言います。

 神の民の生活の規範は、自分たちが神に選ばれ、神によって贖われたという恵みに基づくものです。
 私たちが自由を得たのは、キリストが私たちのために死なれたから。この大いなる神の恵みにどのように応えていくのか、それがキリスト者生活の動機です。

 今朝のニュースでは、さいたま市のアパートで親子三人が遺体で見つかったと報じられていました。



畑はだれのもの?

2012年02月20日 | 申命記
申命記23章


 朝のラジオで、ミャンマーのアウンサン・スーチーさんの選挙運動のことが報じられていました。貧しい人々が多く住む地域から立候補するために、住まいを移したとのことです。
 スーチーさんと主イエスさまとは全く違いますが、それでも報道から、私たちとともにお住いになったイエスさまのお姿を覚えました。

 人々の生活の隅々にまで行き渡らせようとする聖なる民のあり方を求める律法の細やかさを、この章からも覚えます。1、2節の記述はカナンの地に見られた偶像礼拝に伴う習慣を禁じてのことだと考えられ、肉体的に欠陥を持つ人や障がいのある人々が神の前に出られないと言われているのではないのです。改めて、エチオピア人の宦官がピリポからピリポからバプテスマを受けたという、素晴らしい出来事を思い起こしました。

 24、25節のぶどう畑や麦畑についての戒めは、貧しい人々のために配慮するためのものです。隣人の収穫物を奪い取るのはもちろんしてはいけないことなのですが、貧しい人がいのちをつなぐために、隣人の畑を神が備えておられるとも言えます。

 そもそも、畑はだれのものであるかということを考えさせられます。



 


知らぬふりをしない

2012年02月18日 | 申命記
申命記22章1-21節


 「知らぬふり」とは「自分自身を…から隠す」という意味である、という文章を読みました。
 責任逃れをするということなのですね。
 ともに生きる者同士の責任があるということを、迷い出た同族の者の家畜を連れ戻さなければならないという戒めが気づかせてくれます。
 
 夫婦、親子、兄弟、友人、隣近所、…私たちはだれかに対していろいろな責任を負っています。
 積極的に責任を果たしたいということもあれば、できれば「見て見ぬふり」を決め込みたいという場合もありますね。 本来の性格がずぼらなので、もし「意を決する」あるいは「力(りき)を入れる」ことをしなければ、私などは「知らぬふり」「見て見ぬふり」に流れていくこと間違いなしです。

 この箇所にはいろいろな戒めがあります。
 人をがんじがらめにしようということではなくて、私たちの生活の細部にまで、神が関心をお持ちであること、神の民としての生き方が及んでいることを教えているのだと思います。

 忘れやすく、流されやすい者たちのために、神は着物の四隅にふさを作るようにともお命じになりました(12節)。 民はこれを見て、神の命令を常に思い起こしたのです。

 私たちにとっての「着物の四隅のふさ」とは何でしょうか。

 



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