みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神が選ぶ場所で

2012年02月07日 | 申命記
申命記12章1-19節


 久しぶりに雨降りの朝を迎えました。
 昨日は妻の誕生日。娘が朝「お母さんおめでとう」というと、妻は「生まれたのは夜だったから、まだ私は○○歳よ」と言うのです(もちろん、ユーモアを交えてです)。「どうでもいいのでは…」と一瞬思いましたが、1歳でも若くいたいと思う気持ちは、私にもわかります。Photo_2

 夕方、娘たち手作りのケーキで誕生日を祝いました。

 きょうから申命記に戻りました。
 「申命記12-25章を読む前に」の中に「ここに、神の国に生きる、神のために聖別された人間の、聖い生き方が述べられている」とあります。そして、初めが礼拝についてです。

 自分(たち)中心に礼拝するのか、神がお望みになるようにするのかと尋ねられたら、信仰者ならだれでも、「神がお望みになるようにするに決まっています」と答えます。

 ところが、実際の礼拝においてその原則が貫かれているのだろうかと、問われます。
 「みことばの光」が気づかせてくれるのは。主の選ぶ場所で礼拝するよう繰り返されていることですね。

 確かに、教会にはいろいろな人がいます。「ちょっと…」というような人がいて悩んだり、反対に自分がだれかを悩ませたりするようなこともあります。「イエスさまはいいけど、教会は…」などと言って、礼拝を休んでしまう人もいます。私は礼拝する□がないとかふさわしくないと言う人もいます。
 こんな自分中心さも、忍び込んでくるのです。
 
 主は、礼拝においても勝手気ままさが民の間に入り込むことをよく知っておられたので、モーセによって、主が選ぶ場所で礼拝せよと命じておられるのです。

 




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