イザヤ書 25章
月曜日、お煎餅が食べたくなり街中へ。ついでに羊羹もと探しましたが売り切れでした。体調がまだ完全になっていないと、食べ物の好みも変わるのかもしれませんね。
本章は預言者イザヤが神をほめたたえることばから始まります。それは前章最後の「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり……」ということばを受けています。
2節には、力ある国々がその勢いを誇示するかのように築き上げた都は主の前にはひとたまりもないと歌われています。その圧倒的な神の力を目の当たりにした民は預言者イザヤと同じように神をほめたたえずにはいられません。
4−5節では、神はむやみに人間の建造物、町々を破壊するお方ではなく、貧しい者や苦しみに遭っている人々の砦となり、横暴な者たちにとっては嵐のような存在です。このお姿を読む時に、神とはどのような方なのかということが読む私たちに伝わってきます。
6−8節に目が留まります。ここにあるのは神の国の大宴会の景色です。視野の狭い見方をするならば、神はご自分が選ばれた民を顧み祝福されると考えられるのですが、ここではそのようには描かれていません。ここには「すべて」という意味のことばが五回繰り返されています。「万民」「万国」「すべての顔」「全地」とのことばが並ぶことから、神の救いが完全であること、十分であることを表しています。
「永久に死を呑み込まれる」という8節のことばをおぼえます。この地上にあっては、死はなお私たちの前に大きく立ちはだかっています。しかし、イエス・キリストが死に勝利して復活されたことによって、ここに約束されている個とは間違いなく実現するのです。
パウロはこの8節のことばを引用して、コリント人への手紙第一、15章54節で次のような勝利宣言をしています。
「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』」