マタイの福音書 5章33−42節
火曜日は快晴。日中でも気温が0度の寒さでした。室内にいると陽射しが差し込み暖かでしたが、外に出ると寒さが身にしみます。
「…と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、…」とのことばによる、イエスの弟子たちへの教えが続きます。
33-37節には誓いについての教え。人はどのような時に誓うのでしょうか。思い浮かぶのは、窮地に立たされたときの誓いです。契約においてもそれを破らないことを誓います。誓いは、自分よりも大きな存在にかけて行うものです。それによって一方の当事者がその人のことを信じてくれるのを期待します。
ユダヤの人々にとって最も大きな存在は神。しかし、レビ記19章12節には「あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない」との命令があります。それでも人は、誓わなければどうすることもできないと考えるようなところに追い込まれます。そこで彼らは、神を連想させるようなものを持ち出していたのでしょう。それが「天」や「地」あるいは「エルサレム」、そして「頭(あたま)」でした。
イエスは「決して誓ってはいけません」と言われます。それでは、結婚式の時に「イエスが『誓ってはならない』と命じておられるので私は誓いません」と言うべきなのか、またイエスへの信仰を持った人がバプテスマ(洗礼)を受ける時の誓約についてはどうなのか、などという問いが出るのかもしれません。
けれども、イエスはそのような意味で誓ってはならないと言われたのではありません。はじめから言い逃れできるような抜け道を考えて誓うことをしてはならないということなのです。守ることができなかったら何と言い逃れをするべきなのかという程度の誓いを立てるな、やたらに誓うなと戒めておられるのです。ですからある人は、ここに見られるような誓いを「二流の誓い」と読んでいます。
37節に目が留まります。ことばの軽さ、約束のいい加減さヘの警鐘がここに響いています。「はい」「いいえ」ということばの重み、責任を改めて考えます。