みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わたしの手の中にある

2015年09月21日 | エレミヤ書

エレミヤ書 18章

 日曜日の礼拝の帰路、妻が自宅まで車を運転しました。助手席に乗る者はちょっぴりドキドキでしたが、無事に帰宅。日曜日は道路も空いていて、ちょうどよい練習になります。大きな前進だと思います。

 主はエレミヤを陶器師の家に行かせました。そこでエレミヤは陶器師が制作中の器をこわして気に入った他の器に作り替える様子を見るのです。そこには、主からのメッセージが込められていました。それは、イスラエルが主の手の中にあって、壊されるのも作られるも意のままだということなのです。ですから、ここでも主はエレミヤを通してユダとエルサレムの人々に、それぞれが悪の位置から立ち帰って、行いをわざを改めるようにとお語りになるのです。

 ところが彼らは言います。「だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから」と。主はユダの人々とエルサレムの住民を攻める計画を立てているとお告げになるのに対し、彼らは、自分たちの計画をするのだと受け入れないのです。さらに、彼らの計画の中には預言者エレミヤを倒すというものがあったのです。自分の計画を妨げようとする者は、相手が預言者エレミヤであろうが、神であろうが「だめだ」と拒むのです。

 そのような中で、エレミヤは祈ります。エレミヤはずっと、民のためにとりなし、なんとかさばきをくださるのを思いとどまってほしいと願い求めてきたのです。そのエレミヤの思いを知ってか知らずか、彼らは自分たちの計画を妨げる邪魔者だからという理由で、エレミヤを亡き者にしようと計画を立てました。

 「主のはかりごとだけが成る」との箴言19章21節のことばを思います。


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